第1話 鴉に雲(2)
光が屈折し、無数の微粒子が散華するように空間を乱反射する。
次の瞬間、烏丸の目の前にいた灰色の少女はかき消え、そこには黒髪黒目を模した、見慣れた黒曜の少年の姿が立っていた。
「......出雲?」
「ここだよ」
少年の唇から出雲の声が響く。匂いは出雲のままだ。
「霊術で光を歪めて、烏丸の姿を私の身体に映し出してるの」
出雲が深く息を吐き出すと、空気の歪みが弾け、元の灰色の姿へと戻った。
途端、出雲は膝から崩れ落ちそうになる。額には大量の冷や汗が浮かんでいた。
発動の代償として、体力を激しく削り取る術のようだ。
彼女は懐から泥に濡れた青い布を取り出し、灰色の髪と首元を固く覆い隠す。
「私には、自分を偽るこれしか使えないから。――月守様なら、もっとすごい奇跡を起こせるって聞いているよ。この戦を終わらせてくれないかな」
「神頼みかよ」
「私は、人の痛みがわかる神様だって信じてる」
飢えと疲労の極限にあってなお、その声には一切の疑いがない。
烏丸の胸の奥で、冷ややかな感情が渦を巻く。
神などいない。いるとすれば、この戦火を放置している悪鬼だけだ。
その時、烏丸の耳がピクリと動いた。
濡れ羽の聴覚が、数百歩先の藪を押し分ける金属音を拾う。
甲冑の擦れる音。
「伏せろ。兵士だ」
低い声で告げると、出雲の顔から血の気が引いた。
「もう一度、さっきの化け術を使えるか」
「うん、やる」
「俺の背中に隠れろ。引きつけた隙に、化けろ」
樹木の隙間から、黒曜帝国の重装歩兵三名が姿を現した。
抜き身の長槍が冷たく光っている。
「この付近だ! 灰色の髪をした逃亡者を探せ!」
殺気立った怒声。
「烏丸……あなたまで巻き込まれる」
「黙ってろ」
烏丸は出雲を庇うように一歩前へ踏み出し、兵士たちの視界に入る位置へと躍り出た。
背後で密やかな詠唱が聞こえ、微かな霊力の波紋が烏丸の背を撫でる。
「誰だ!」
兵士が一斉に長槍の穂先を烏丸へ向ける。
「人の縄張りでうるせえな」
烏丸は両手を軽く上げながら、面倒くさそうに首を鳴らした。
「このあたりで灰色の髪のガキを見なかったか!」
「見てねぇな」
「本当だろうな? 匿えば同罪だぞ」
兵士のギラついた視線が、烏丸の背後へ向いた。そこには、黒髪の少年に姿を変えた出雲が立っている。
だが、兵士の威圧感に気押され、肩が限界まで強張っていた。怪しまれるのは時間の問題だ。
烏丸は一歩踏み出し、兵士たちを真正面から見据えた。
漆黒の瞳孔の奥で、獣の獰猛な光を意図的に瞬かせる。
まとう空気を、飢えた鴉のそれへと一変させた。
「俺の弟が怯えてるだろうが。さっさと消えろ」
静かな、だが明確な殺意を込めた凄み。
兵士たちは一瞬息を呑み、得体の知れない気配に本能的な悪寒を感じたようだった。だが、すぐに引かない。
「餓鬼二人が、こんな森で何してる」
「食いもん探してたんだよ」
「こんな何もない森でか?」
「だから飢えて困ってる。おっさんら、食い物持ってねえ?俺たち育ち盛りなんだ」
不遜な態度で片手を差し出すと、兵士たちは舌打ちをして長槍を収める。
「ふん、薄汚いドブネズミどもが。邪魔立てするな」
兵士たちは忌々しそうに藪の奥へと消えていった。
重い足音が遠ざかり、完全に気配が消える。
静寂を取り戻した森の中で、烏丸は背後を振り返った。
帝国に害をなす敵の血を持つ少女を、己は匿ってしまった。
バレれば子供でも殺される。
だが、先ほどの兵隊たちが相手なら、鳥になれば余裕で撒けそうだ。
「もう行ったぞ。解け」
烏丸が声をかけると光の粒が弾け、出雲は元の灰色の姿に戻った。
それと同時に崩れ落ちた華奢な身体を、烏丸は腕を伸ばして抱きとめる。
「おい」
「平気。休めば治るから……」
胸の中で、出雲が途切れ途切れに息を吐く。
烏丸は溜息をつくと、地面に落ちていた柿の泥を拭い、出雲の小さな手に持たせた。
「これも全部食え。腹が減ってたら、逃げることもできねぇ」
「ありがとう」
出雲は濡れた瞳で見上げてきた。
黄色味を帯びた一つにかじりつき、その手には、余った青柿が一つ握られている。
「半分寄こせ。俺も腹が減った」
出雲の泥だらけの顔に、今日一番の笑みが浮かんだ。
二人は折れた枝に並んで腰掛け、柿を分け合う。
口に含めば、やはり舌を刺す不快な渋みだ。
それでも、一人で噛み締めていた果実より、ほんの少しだけ甘かった。
烏丸は、後になって何度もこの日の光景を反芻することになる。
森の中で拾い上げたのは、ただの飢えた少女ではない。
───決して交わるはずのなかった、「化け物たちとの因縁」そのものだったのだと。




