第1話・前編 雲を鴉
2026/09/13 改稿(最新)
遠くの地平から、腹の底をゆらす重低音がひびいた。また一つ、砦が黒曜の鉄騎兵にふみ荒らされた証拠だ。
北風が流れてくるたび、皮膚にざらついたススがまとわりつき、すえた硝煙の毒気が肺を焼く。
戦火がこの森をのみこんで以来、獣も鳥も姿を消した。
焦土と化した黒曜領において、生の選択肢はふたつしかない。はいつくばって食えるものを食うか、さもなくば倒れて土に還るかだ。
烏丸は巨木の太枝に仰向けで身を投げだし、もぎとった青柿にかじりついた。
強烈なしぶみが舌の表面をしびれさせる。
胸の悪くなる青臭さを、生きのびるための燃料として強引に胃へ流しこんだ。
視界の端で、細い幹が不自然にたわんだ。
隣に生えたふぞろいな柿の木に、やせこけた少年がしがみついている。
泥と乾いた血にぬれた貫頭衣はところどころが裂け、傷だらけの裸足が幹を必死に締めあげている。
枝の先端、かすかに残った熟柿へ伸ばした腕は、枯れ枝と見わけがつかないほど細い。木は少年一人の体重すら支えきれず、乾いた音を立ててしなっている。
なにより奇異だったのは、その髪色だ。
色素のぬけ落ちた、澄んだ銀灰の髪。
黒曜帝国において、黒以外の色彩を持つ者は「敵」として殺戮の対象になる。
関わるだけ無駄だ。
他人に手をさし伸べれば、明日は自分が餓死する。
「......やめとけ。折れても知らねえぞ」
ボソリとつぶやき、烏丸は噛みくだいた柿の種を土へ吐き捨てた。
直後、森の静寂をうちやぶって太枝がはじけ飛ぶ。
「チッ。そら見ろ」
少年の体が虚空へ放り出された。
頭から落ちれば確実に首の骨がくだける。
救う理由など皆無だった。それなのに、烏丸の肉体は思考を置きざりにして枝を蹴っていた。
皮膚の裏側で血液が沸騰する。
鳴動とともに漆黒の濡れ羽が両腕を突きやぶって噴出し、骨格がミシミシと異音を立てて急速に再構築されていく。
両腕が、背中が、巨大な翼へと変異をとげた。
地表すれすれを滑空し、落下してくる小さな背中の下へすべりこむ。両翼を限界まで広げ、風圧をかかえこんだ。
ドシン!
高所から落ちてきた激しい衝撃が、肺の空気をたたき出す。
烏丸は土埃と枯れ葉をまきあげながら、地表を激しくころがった。
「いてぇ……!」
背骨をおそう鈍痛に顔をゆがめると、鴉の首を横へひねる。
横目にうつる少年が背中の上でぼう然とまばたきをしていた。
「さっさとおりろ。重い」
「あ、ごめんなさい!」
少年はあわててはね起きる。
烏丸の背に残る黒い羽毛を、おそるおそるといった調子で指先でつまんだ。
「......やわらかい」
「さわるな」
烏丸は身をよじって立ちあがる。
その際、腕に触れた少年の身体の軽さと、極端に細い骨格に違和感をおぼえた。
戦乱を生きのびる少年の筋肉ではない。鴉姿では身長が少し上の相手をじとりと見あげる。
怪しむ烏丸をよそに、この異郷人はまだ目を丸くしたまま自分を見つめてくる。
「チッ。なに見てんだよ」
「カラスの半獣……はじめてみた」
「だったらなんだ」
「かわいい」
「......!は?」
思いもよらぬ言葉に、烏丸はあ然として、黒いくちばしをあんぐりとさせた。
人間の食糧を横取りし、生き物の死骸を食い散らかす鴉。真っ黒で不吉な鴉の、どこが可愛いというのか。
黒い姿や死体に群がる習性から、人里では昔から縁起が悪い死の象徴として毛嫌いされている。
その上、この国で「半獣」は、最前線で肉の壁にされる家畜以下の存在だ。
だが、目の前の灰色の瞳にはさげすみも恐怖もなく、ただ透明な感心だけが宿っていた。
「半獣だと、こんなに大きい鳥になれるんだ。いいな、空が飛べるなんて」
生まれて初めて見る反応ばかり。
「能天気だな、お前。それか、よっぽどの世間知らずだ」
皮肉って吐き捨てた。それでも、少女はみじんも気にとめていない。
「ありがとう。助けてくれて」
「......べつに助けちゃいねぇ。勝手に落ちてきただけだ」
烏丸は翼で器用に土煙を払いながら、低く言い放つ。
「お前、女だろ」
少女は息を飲み、灰色の瞳を大きく見ひらいた。
「なんで、わかったの?」
「重さと骨格だ。そのやせ方じゃ、男のフリをしてもすぐバレるぞ」
烏丸が冷淡に指摘すると、少女は気がぬけたようにしゃがみこむ。泥でよごれた膝をかかえこんだ。
「戦で家族とはぐれてから、女ひとりだとすぐに捕まるから。ずっと男のフリをしてきたの」
ひび割れた唇と、落ちくぼんだ目元。その姿が、支払ってきた過酷な代償を物語っていた。
その顔も、心なしか血色が悪くうつる。思案するより先に、くちばしが動いていた。
「お前、疲れてんのか?」
「......少し。この森にたどり着くまで、全力で走りまわったから」
「ようは、追われてたんだな」
少女は答えず、息をはき出して立ちあがった。
「でも、枝が折れた瞬間、もうダメだと思った。ありがとう」
「さっきも言った。助けてねえし」
この国で親切だと思われて良いことなどひとつもない。認めてたまるか。
烏丸の心境とは裏腹に、少女は親しみをこめて泥のついた細い手をさし出す。
「私は、出雲」
自分は鴉姿だというのに、翼を閉じた胸の前に平然と握手を求めてくる少女。
「お前に名のる筋合いはない」
「私にはあるよ。恩人だから名前くらい知りたい」
初めて見る瞳の色は興味津々で、自分を映している。
羽毛に包まれたこの体は、人の姿ならば衣服をまとっていない。なんとも居心地が悪い。
だが、悪意のなさに毒気をぬかれる。
「……烏丸」
ぼそりと答えて顔をそらし、自分の腹から胸元を落ち着きなく翼でなで隠した。
さっさとトンズラしようと思った瞬間、出雲の腹から盛大な音がひびき渡った。出雲は顔を染め、小柄な身体を丸める。
烏丸は小さくため息をつくと、再び漆黒の翼を広げた。垂直に風をきり、柿の木へおどり出る。
「ひろえ」
鋭利な鉤爪で枝を激しくゆさぶると、葉っぱと黄緑色の果実がふりそそいだ。
出雲はすそを大きく広げ、果実を受け止めた。
「......よし、取れたよ!」
土によごれた顔に笑みが咲く。
烏丸が地表に着地し変身を解いて服をまとうと、出雲はすでに果実へかじりついていた。
「おいしい……!」
「嘘つけ。しぶくて舌がしびれるはずだ」
「ううん、本当においしいよ!」
渋柿を必死に噛みしめる出雲の姿に、よほどの空腹だったことがわかる。
烏丸は、緑味の少ない黄味を帯びた果実を見つけ、拾いあげた。
渋柿は食べすぎると腹痛をひき起こすことがある。しぶみの少なそうなその果実を、出雲の手に押しつけた。
「ほら、これも食え」
「烏丸のぶんは?」
「俺はさっき腹に入れた」
さし出された柿を受け取る出雲の手のひらを見て、烏丸の目が鋭く細まった。
かすり傷からにじみ出していたのは、帝国の民の証である黒い血ではなく、灰色の血だった。




