第1話 鴉に雲(1)
遠くの地平から、腹の底を揺らす重低音が響いた。また一つ、砦が黒曜の鉄騎兵に踏み荒らされた証拠だ。
北風が流れてくるたび、皮膚にざらついた煤がまとわりつき、すえた硝煙の毒気が鼻腔を焼く。
戦火がこの森を飲み込んで以来、獣も鳥も姿を消した。
焦土と化した黒曜領において、生の選択肢は二つしかない。這いつくばって食えるものを食うか、さもなくば倒れて土に還るかだ。
烏丸は巨木の太枝に仰向けで身を投げだし、もぎ取った青柿にかじりついた。
強烈な渋みが舌の表面を痺れさせる。
胸の悪くなる青臭さを、生き延びるための燃料として強引に胃の腑へ流し込んだ。
視界の端で、細い幹が不自然にたわんだ。
隣に生えた不ぞろいな柿の木に、痩せこけた少年がしがみついている。
泥と乾いた血に塗れた貫頭衣は所々が裂け、傷だらけの裸足が幹を必死に締め上げている。
枝の先端、かすかに残った熟柿へ伸ばした腕は、枯れ枝と見分けがつかないほど細い。木は少年一人の体重すら支えきれず、乾いた破断音を立ててしなっている。
何より奇異だったのは、その髪色だ。
───色素の抜け落ちた、澄んだ銀灰の髪。
黒曜帝国において、黒以外の色彩を持つ者は「敵」として殺戮の対象になる。
関わるだけ無駄だ。
他人に手を差し伸べれば、明日は自分が餓死する。
「......無駄だ、諦めろ」
ボソリと呟き、烏丸は噛み砕いた柿の種を土へ吐き捨てた。
直後、森の静寂を打ち破って太枝が弾け飛ぶ。
少年の体が虚空へ放り出された。
頭から落ちれば確実に首の骨が砕ける。
救う理由など皆無だった。
それなのに、烏丸の肉体は思考を置き去りにして枝を蹴っていた。
皮膚の裏側で血液が沸騰する。
鳴動とともに漆黒の濡れ羽が両腕を突き破って噴出し、骨格が異音を立てて急速に再構築されていく。
両腕が、背中が、巨大な翼へと変異を遂げた。
地表すれすれを滑空し、落下してくる小さな背中の下へ滑り込む。両翼を限界まで広げ、風圧を抱え込んだ。
ドシン!
高所から落ちてきた激しい衝撃が、肺の空気を叩き出す。
烏丸は土埃と枯れ葉を巻き上げながら、地表を激しく転がった。
「痛ぇ……!」
背骨を襲う鈍痛に顔を歪めると、鴉の首を横へひねる。
横目に映る少年が背中の上で呆然と瞬きをしていた。
「さっさと降りろ。重い」
「あ、ごめんなさい!」
少年は慌てて跳ね起きる。
烏丸の背に残る黒い羽毛を、おそるおそるといった調子で指先で摘んだ。
「......柔らかい」
「触るな」
烏丸は身をよじって立ち上がる。
その際、腕に触れた少年の身体の軽さと、極端に華奢な骨格に違和感を覚えた。
───戦乱を生き延びる少年の筋肉ではない。
鴉姿では身長が少し上の相手を見上げる。
「鴉の半獣……初めて見た」
「だったら何だ」
この国で「半獣」は、最前線で肉の壁にされる家畜以下の存在だ。
だが、目の前の灰色の瞳には蔑みも恐怖もなく、ただ透明な感心だけが宿っていた。
「半獣だと、こんなに大きい鳥になれるんだ。いいな、空が飛べるなんて」
初めて見る反応。
「能天気だな、お前。それか、よっぽどの世間知らずだ」
皮肉って吐き捨てた。
だが、少女は微塵も気に留めていない。
「ありがとう。助けてくれて」
「......別に助けちゃいねぇ。勝手に落ちてきただけだ」
烏丸は翼で器用に土煙を払いながら、低く言い放つ。
「お前、女だろ」
少女は息を飲み、灰色の瞳を大きく見開いた。
「なんで、分かったの?」
「重さと骨格だ。その痩せ方じゃ、男のフリをしてもすぐバレるぞ」
烏丸が冷淡に指摘すると、少女は気が抜けたようにしゃがみ込む。泥で汚れた膝を抱え込んだ。
「戦で家族と逸れてから、女一人だとすぐに捕まるから。ずっと男のフリをしてきたの」
ひび割れた唇と、落ちくぼんだ目元。その姿が、支払ってきた過酷な代償を物語っていた。
その顔も、心なしか血色が悪く映る。難民の元の顔色など烏丸には知る由もないが。
思案するより先に、嘴が動いていた。
「お前、疲れてんのか?」
「......少し。この森に辿り着くまで、全力で走り回ったから」
「要は、追われてたんだな」
少女は答えず、息を吐き出して立ち上がり、泥のついた華奢な手を差し出す。
「でも、枝が折れた瞬間、もうダメだと思ったから助かった。私は、出雲」
「お前に名乗る筋合いはない」
「私にはあるよ。恩人だから名前くらい知りたい」
「……烏丸」
名乗り終えた瞬間、出雲の腹から盛大な音が響き渡った。出雲は顔を染め、小柄な身体を丸める。
烏丸は小さくため息をつくと、再び漆黒の翼を広げた。
垂直に風を切り、柿の木へ躍り出る。
「拾え」
鋭利な鉤爪で枝を激しく揺さぶると、葉っぱと黄緑色の果実が降り注いだ。
出雲は裾を大きく広げ、果実を受け止めた。
「......よし、取れたよ!」
泥汚れの顔に笑みが咲く。
烏丸が地表に着地し変身を解くと、出雲はすでに果実へかじりついていた。
「美味しい……!」
「嘘つけ。渋くて舌が痺れるはずだ」
「ううん、本当に美味しいよ!」
渋柿を必死に噛み締める出雲。
烏丸は、緑味の少ない黄色味を帯びた果実を見つけ、拾い上げた。
渋柿は食べすぎると腹痛を引き起こすことがある。渋みの少なそうなその果実を、出雲の手に押し付けた。
「ほら、これも食え」
「烏丸の分は?」
「俺はさっき腹に入れた」
差し出された柿を受け取る出雲の手のひらを見て、烏丸の目が鋭く細まった。
擦り傷からにじみ出していたのは、帝国の民の証である黒い血ではなく、灰色の血だった。
「敵国の人間が、よくその髪と血で、この黒曜領内を歩けたな。見つかれば即座に殺されるぞ」
「知ってる。......私の故郷も焼き払われて、必死で逃げてきたの」
「敵領のガキが包囲を破れるわけがねぇ。どんな術を使った」
「私も、君と同じような力を持ってるから」
出雲は食べかけの柿を地面に置く。
そして、胸の前で両手の指を複雑に絡め合わせた。
左手の手首に刻まれた幾何学の紋様が青白く明滅する。
「――幻影霧鏡。光糸を編み、水鏡を結べ」
出雲と烏丸の間の空気に亀裂が走った。
読んでくださっておおきに!感謝です!
転生者が主人公となる本編を執筆編集中です。
本編に描けない建国神話の歴史に載らない史実を一本の作品にしました。
外伝となりますが、本編と切り離して執筆しています。本編投稿が始まる前に削除予定です。




