第15話 黎黒の鴉に高嶺の月
青淵の頭脳を破砕したあとも、泥沼の抵抗戦は数年におよび続いた。
領土を完全に帝国の足下にひれ伏させるため、黎は千人将として幾度も死線へ駆りだされた。
「抵抗する村は端から焼きはらい、黒曜の恐怖を骨の髄まで刻みこめ」
皇帝・玄海の命は絶対だ。
投降をこばむ陣地は次々と灰燼に帰した。降雨のたびに立ちのぼる黒焦げた土の臭気が、黎の鼻腔にへばりついて離れない。
黎は武功を積み重ねた。奪い取った敵の軍旗で山を築き、三千人将、さらに五千人将へと昇格を果たした。
独立した戦局をまかされる中堅将校の立ち位置だ。
だが、数十万の全軍を統括する最高位『大将軍』の座までは、五つの階級が立ちふさがる。歴戦の猛者どもをけおとし、血みどろの階段を登りつめねばならない。
季節がめぐるたび、黎の背丈は伸び、玄海の肩に届く高さへ達した。
二十歳を超え、少年期の軽快な足音は失われた。冷酷な死の気配だけを夜闇にとけこませて歩く。
出陣のない期間、黎は御親兵長として玄海の背後に身をひそめていた。
*
紫耀侵攻へ向かう行軍の本陣。
重厚な獣皮でおおわれた天幕の内部は、息がつまる静寂で満ちている。
床几に腰を下ろし、羊皮紙の戦術地図をにらむ玄海。その背後に落とす濃い影に、黎は同化していた。下賜された墨染めの隠密服が、光を吸収して闇に沈む。
不意に、天幕のわずかな隙間から、月光を切り裂いて黒い鉄針がすべりこんだ。
標的は玄海の頸椎。
玄海が目をあげる前に、絹のすれる音と鉄の臭いをとらえた黎の体が跳ねる。
「——陛下に何用だ」
地をはう低音とともに、黎の左腕が空を裂いた。
筋肉繊維が極限まで膨張し、皮膚を突き破った漆黒の鉤爪が致死の針を撃ち落とす。紫と白の火花が飛び散った。
「刺客が三名、即座に処理します」
気配で敵の数を把握した黎は玄海へ短く告げ、天幕の分厚い布地を蹴破って外の冷気へおどりでた。
夜風にゆれる紫の髪を目視し、紫耀領の刺客と確信する。
黎の瞳孔が猛禽のそれへ縦に割れた。
獣の力にふりまわされ、痛みにうずくまっていた過去はとうに切り捨てている。今の黎は、己の内の怪物を完全に支配下へ置いていた。
刺客たちは黎の異形化した左腕に目を見ひらく。
「俺たちの縄張りを荒らした報復だ!貴様のその異様な腕はなんだ!?」
敵の声がひびく前に、黎の姿は闇へ消えた。
問いに答える義理などない。
『——収斂断空』
右手に導剣、左手に鉤爪。
黎は短縮した詠唱と同時に術の発動を遅延させる。
紫耀の錬丹術師が燐光を放つ剣を突き出した。大気を極限まで圧縮した紫電の光条が放たれる。
鋭利な剣先から光条が放たれる軌道を読み、黎は体をひねってかわす。
光が極大に達した瞬間、闇をはらむ黒曜の斬撃を正面からぶつけて相殺した。
破裂音と爆炎が視界をふさぎ、敵がひるんだ一拍の隙。
黎は影から影へ転移し、無音で術師の背後を取った。
紫耀の男は跳ね上がる動作で距離を取り、導剣に光を走らせる。
しかし、墨染めの服の隙間、黎の首筋から生えた黒羽を目にとらえ、息をのんで動きを止めた。
「お前……まさか、霊光か……?」
男の発した言葉の意味を黎は解さない。皇帝を狙った敵の隙を逃すはずもなかった。
絶叫の隙すら与えず、強靭な鉤爪が喉笛を正確に刈り取る。
黒い羽毛が夜風に舞い、三つの肉体が冷たい地面へ崩れ落ちた。十の呼吸も必要としない。
「……れいこう? なんのことだ」
絶命した敵を見下ろし、黎は小さく首をかしげる。
思索を打ち切り、返り血をあびた服のまま破れた天幕へ戻った。
*
玄海は微動だにせず地図を見つめている。黎はその足元へ膝をつき、頭を垂れた。
「紫耀の錬丹術師三名、処分完了しました」
玄海がゆっくりと顔をあげる。
血の臭気をまとう黎の姿に、酷薄な満足の笑みが浮かんだ。
「無駄のない動きだ。見事な爪の切れ味。俺の眼に狂いはなかった」
玄海は立ちあがり、黎のかたわらへ歩み寄る。ひき締まった肩を、分厚い掌が力強くたたいた。
「よくやった、黎。お前はもう、俺の息子の一人だ」
——息子。
その二文字が黎の心臓をわしづかみにし、甘く残酷な呪縛をかける。
主君であり、絶対の師。忌避される半獣の自分をこの世界へ繋ぎ止める、唯一の巨大な存在。黎の瞳の奥に狂信的な熱がともる。
同時に、灰色の髪をした少女のほほえみが、脳裏を鮮烈にかすめ飛んだ。
「だがな」
情熱的だった玄海の口調が、一瞬で氷点下まで冷えこむ。
「血を分けた息子などはいて捨てるほどいる。お前の代わりはいくらでも用意できる。一度でも俺の期待を裏切れば、即座にその首を落とすぞ」
甘い劇薬の直後にあびせられる冷酷な刃。全身の猛った熱が氷のように凍てつく。
この男のかたわらに完全な安息など存在しない。黎は自分の首に食いこむ、目に見えない首輪の冷たさを肌で感じ取った。
だが、それこそが黎の生存本能を極限までとぎ澄ます。
飢えと凍えにおびえ、泥水をすすって獣として野山をはい回った日々。それに比べれば、血生臭くともここは至れり尽くせりの檻だ。
絶え間ない死の緊張感があるからこそ、よけいな感傷に浸らず、ただひたすらに牙を研ぐことだけに集中できる。
「今や我が帝国は大陸の大部分を支配下に置いた。息子よ、お前には人生を懸ける夢があるか」
「いいえ。陛下のような偉大な野望は」
黎は静かに首を横にふる。
「俺の夢は、精霊神・月守がこの月魂之世を開く以前の姿。人間が力のみでぶつかり合い、血と肉で切りひらいた『修羅之世』を現出させることだ。全土統一はその足がかりにすぎん」
「開闢の時代にあったという、力こそが絶対の世界......」
「そうだ。俺は神など信じぬ。弱者がすがる妄想だ。人間の世界は人間が作り、過酷な闘争の中でこそ、より強靭な個体が育つ」
玄海の言葉には絶対的な自己肯定が満ちている。
神の否定。その言葉が、純粋な祈りを捧げていた出雲の記憶を不意に引きずり出す。
出雲は今も遠い空の下で、平和を神に祈っているはずだ。
黎は奥歯をかみしめ、そのやわらかな幻影を心の最深部へ厳重に封じこめた。
今の自分に必要なのは神の救済ではない。目の前にある、圧倒的な暴力の頂点だ。
「この黎の命を賭して、父上について参ります」
頭を垂れる黎の視界を、玄海の巨大な影が完全におおいつくした。
「よくぞ言った。紫耀の刺客をたやすく討てるお前に、次の出陣で紫耀領を侵攻する指揮権を与える。あの領を帝国軍の手中に落とせ」
「……ですが、紫耀への総指揮権は緇条大将軍にあるはず。私はまだ五千人将にすぎません」
「俺が許すと言っている。お前のその特異な指揮能力を評価した上でだ」
玄海は不敵に笑うと、前傾して黎の耳元へ顔を近づけた。夜の静寂にひびく、共犯者へ向ける低い声。
「夜になると敵の軍陣が一挙に崩壊し、指揮官の首だけが闇に消える。前線では『夜の怪異』と恐れられているようだが……。
お前は将として軍を動かし、敵の気を前方に引きつけながら、夜闇に乗じて鴉となり、敵の中枢を単独で喰い破っているな」
敵領の兵は、半獣を蔑視する黒曜軍の中に、完全な獣化を果たす将がいるなど想像もしていない。黎はその認識の死角をつき、己の暴力を最大化する盤面を構築していた。
「は。仰せの通りです」
「お前は頭の切れ味も鋭い。数をこなすごとに鋭利さを増す」
玄海は黎の肩に肉厚な手を置く。冷たい甲冑越しにも、その掌から恐ろしいほどの熱量と覇気が浸透してきた。
帝国内の統治戦略を指揮する玄海は、全土統一を果たす前から、すでにその先の荒れた統治を見すえている。
「新たな領土を喰い破る『攻め』には、若い牙が向く。
今後、占領地では反逆の火種が頻発する。
栄光にすがる老犬と違い、お前には失うものがない。誰よりも大胆に敵の喉首へ飛びこめる」
絶対者からの苛烈な期待。黎は暗い歓喜で頬が緩みそうになるのを必死でこらえた。
黎の、決しておごり高ぶらず冷徹に徹する姿勢を好ましく思ったのか、玄海は満足げにうなずく。
「逆に『守り』には、老いた猛獣が向く。
敵の波状攻撃から領土を死守するには、年を重ねて得た忍耐と大局の眼がいる。
緇条を無下に切り捨てるつもりはない。
あいつには後方へ退かせ、防衛の要としてすり潰れるまで働いてもらう」
古い忠臣を単なる不用品として使い捨てるのではなく、その功労と残された才を最後の一滴まで絞りつくす冷厳な現実主義。
(この男は、単なる暴力と権力におぼれただけの愚王ではない)
武威のみならず、人心のあつかいすらも完璧に支配している。
その底知れぬ器の大きさに、黎の背筋をぞくりとしたしびれが駆けぬけた。
この皇帝ならば、己の全てを懸けて利用し、ついていく価値がある。
生存のための合理的な打算。
それと同時に、孤独な獣として生きるしかなかった自分に居場所を与え、ここまで育て上げてくれた「父」への、狂おしいほどの忠誠が胸の奥でうずまく。
眼前の玄海の鋭い眼光は、黎という新たな凶器を手に入れた愉楽と高揚に満ちていた。それは完全な実力主義である覇王からの、絶大な信頼の証だった。
「緇条は古参だが、昔ほどの牙の鋭さも失われ、紫耀の抵抗に手こずっている。
お前が自らの手で武功を挙げ、その実力で世代を交代させろ。
みごと陥落させたあかつきには、大将軍の座をくれてやる。
出軍の場数をふみ、俺を楽しませろ」
黎は双眸を見ひらいた。
いきなりの大好機が、この掌の上に提示されたのだ。
まっさきに脳裏を占めるのは、紫耀領のさらに奥に位置する、沿岸部の灰霄領。
大将軍の権限をにぎれば、出雲と既望がいる灰霄領の領主と直接交渉し、帝国軍による無差別な蹂躙を防ぐことができる。
「——御意」
地の底からひびくような声で返答した。
これまでにない凶暴な熱が、全身の血を沸騰させる。
紫耀を陥落させ、父の狂気じみた願いにつきあう。
その上で、大将軍の権力をふるい、出雲たちの生きる場所をこの手で死守する。
そこに、いっさいの迷いはない。
立ちあがった玄海の背後を、阿吽の呼吸で黎が音もなく追従する。
玄海が前を歩み、黎はその一歩後ろを影のようにつき従う。夜の闇よりも濃い漆黒の影が、ふたりの足元で不気味にひとつに溶けあっていた。
<タイトル/慣用句>
高嶺の月 (たかねのつき)」:
正しくは「高嶺の花」。遠くから眺めるだけで、手に入れることができないもの。自分にはレベルが高すぎて、到底およばないもののたとえ。
黎黒:
黒いこと、または黒い色や肌の色などを表す言葉。
ここでは玄海の姓の意味と、鴉(黒い影・底辺や影の存在)」と、遠くで光る「高嶺の月(皇帝や、決して手の届かない高貴な存在)」という、光と影の対比を思わせる詩的な組み合わせ。
小説挿絵はこちら
https://note.com/k_s_shina/n/n24cb4a89b6a4




