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9. 生垣の陰

 招待状のお返事を書くとき、手が少し震えた。王家の紋の上で震える手を、執事は見なかったことにしてくれる。うちの玄関は、そういう玄関である。


 当日、王宮の門をくぐるとき、うちの馬車の御者が、誇らしげに背筋を伸ばした。組合の仲間に、あとで自慢するのだそうである。


 園遊会の芝は、靴の裏が沈むほど手入れされている。白樺の木陰に軽食の卓が置かれ、楽団が遠くで円舞曲を鳴らしている。王家の園遊会である。招かれる側として王宮の庭を歩くのは、生まれて初めてだ。


 今日も、夕暮れの一歩手前の色を着てきた。芝の緑の上では、思ったより映えるのである。マダムの見立てに、また借りができた。……いえ、借りではなくて。こういうのは、たぶん、お友だちというのである。


 その庭の隅で、見知った顔を見つけた。菓子の卓に飾りを納めに来ていた、ランベルト氏の弟子――外つ国(とつくに)の生まれの、砂糖菓子の飾り職人である。味見の控えの間で、何度かご挨拶をした方だ。


 挨拶に寄った私の隣で、その職人の顔色が、ふっと変わった。視線の先には、使節の卓。飾られているのは、真白の百合である。


「……あの花は、いけません。わたしの国では、白い花は、弔いにだけ使うのです」


 使節とは、職人と同じ国の方である。私は、花瓶に手を伸ばさない。伸ばすべき人を、知っているからである。


 王宮の花係の老人のところへ、職人をお連れする。あとは職人同士の早業である。百合は東の卓へ、使節の卓には野薔薇と金雀枝(えにしだ)。手柄は花係のもの、気づきは職人のもの。私は、間を歩いただけである。


「あなたが、『玄関の』ね」


 振り向くと、扇を手にした王妃陛下が立っていた。慌てて膝を折る私に、陛下は楽しそうである。


「玄関で人望を積む令嬢がいる、と聞いてから、会ってみたかったの。……あなた、王宮の玄関はいかが?」


「恐れながら、陛下。王宮は、玄関がご立派すぎますわ。わたくしの居場所は、もう少し、雨漏りの似合う軒先ですの」


「まあ。……気に入ったわ。その軒先の話、今度ゆっくり聞かせてちょうだいな」


 扇の陰で笑って、陛下は行ってしまわれた。冷や汗というものは、あとから出るものである。


       ◇


 同じ園の薔薇の垣の向こうでは、扇が三本、ひそやかに寄り合っていた。曰く、あの伯爵令嬢、近ごろ夕暮れの辻で、背の高い殿方と歩いているらしい。曰く、殿方の馬車には、獅子の紋があったとか、なかったとか。曰く、まさか、あの半刻公爵が。……扇の内の話は、園遊会の軽食より速く回る。回るうちに尾鰭(おひれ)が付くのも、いつものことである。


 噂について、私は騒がないことにしている。噂は、追いかけると育つ。放っておくと、次の噂に席を譲る。……三年、社交界の隅で観察した結論である。


 午後、遠くの東屋(あずまや)で、公爵が王妃陛下に何か言われているのが見えた。距離があって、声は聞こえない。ただ、あの正確な背中が、いつもより礼儀正しく固いことだけは、わかる。……「そろそろ」というやつだろう。公爵ともなれば、時間だけでなく、身の振り方まで、王都中が予定を立てたがるのである。


 胸の奥が、覚えのない音を立てた。家具の軋みでは、ない。もっと新しい、名前を付けたくない音である。


 他人事のように書いたが、他人事である。……他人事の割に、生垣(いけがき)を曲がった先でその方と鉢合わせたとき、私は少し、ほっとしてしまった。


 公爵は一瞬眉をピクッと動かし――。


「……四半刻だけ、こちらに居ませんか。お戻りになるなら、お引き留めはしません」


 と、まっすぐに私の目を見つめた。


「し、四半刻だけ、ですわよ」


 ほほが少し赤くなってしまったかもしれない。


 生垣の陰は、芝の匂いが濃い。楽の音が、葉越しにやわらかく丸くなる。木漏れ日が、二人ぶんの裾の上で揺れている。


「サボるのって、こんなに効きますのね」


「効きます。……効くと知っている者は、あまり口にしませんが」


「まあ。では、内緒の効能ですのね」


 芝の匂いを、ひとつ深く吸ってから、聞いてみた。


「王宮で、こんな上手なサボり場所を、どうやって見つけますの?」


「六年、探しました」


「……六年」


「配られる側にも、休憩は要りますので」


 意味を聞き返す前に、楽の音が変わった。聞き返さないでおく。この方の六年は、たぶん、生垣の陰で話す長さの話ではないのである。


 三年前の初夏、私は窓辺から、園遊会帰りの馬車の列を眺めていた。呼ばれない側の初夏は、長い。……その話は、しない。今日の四半刻が、あの窓辺まで届いて、勝手に風を入れてくれた気がするからである。


 四半刻きっかりで、私たちは別々に生垣を出た。出る前に、どちらからともなく、目だけで礼をする。……共犯の作法である。


 帰りの馬車寄せで、公爵がふと言った。


「――『薄明の庭』が、再演されるそうです」


 ……三年前、私が最後まで観られなかった、あの演目である。


 再演、という言葉に、胸の奥の古い座席が軋む。三年前の暗がりが、少しだけ、こちらを向いた気がするのである。

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