10. 三年、お預かりしておりました
支配人フォルクマール氏の招待状は、いつもより字が丁寧だった。
用向きは、『薄明の庭』再演の初日への招きである。それも、あの桟敷で、とあった。……「あの」の二文字に、三年ぶんの意味がある。
隅の添え書きによれば、連れの席も用意できるとのことである。……支配人というものは、玄関のことを、何でも知っているのだ。
劇場の玄関で、支配人は深々と頭を下げた。
「三年、お預かりしておりました」
「……お預かり?」
「あの晩の桟敷でございます。あれから三年、あの席は、どなたにもお売りしないと決めておりました。膝掛けを替えて、燭台を磨いて。……いつか、お客様として、お座りいただく日のために」
先日座ったのも、あの桟敷だったのだという。道理で、膝掛けの畳み方が、妙に堂に入っていたはずである。
礼を言いかけて、言葉が見つからない。三年、空けたままの席を守るのは、商いとしては、たぶん愚かである。愚かで――そういう愚かさに、私の三年は、囲まれていたらしいのだ。
席を三年空けておくことの値打ちは、どんな値札にも書けない。……その書けない値打ちの上に、私はどうやら、ずいぶん豪勢に座らせてもらってきたらしい。
開演前の玄関に、見慣れた背中があった。今夜も、半刻でお帰りの予定なのだろう。
誘う、という所作を、私は招待状の山から毎日もらっている。もらってばかりで、自分から出したことは、一度もない。……口の中で三度、言い方を選び直した。選び終える前に、口が勝手に動いたのである。
「あの……。今夜は――残っていただけます?」
自分で言って、自分で驚く。私はこの方に、初めて、時間をねだったのである。
公爵は、瞬きを二つした。
「あ、あぁ……。終演まで、居ます」
言ってから、あの方は少しだけ首を傾げた。自分の返事に、自分で驚いている顔である。……半刻の規則が破れる音は、存外、静かなものらしい。
桟敷の隣の席に、今夜は、人が座っている。舞台の薄明かりが、その輪郭をやわらかく縁取っている。三年前は、この光が、空っぽの背もたれを照らしていたのだ。
三年前、空いていた席である。誰も座らないまま幕が下りて、私が誓いを立てて、それきり劇場の暗がりごと胸の奥に仕舞ってきた席である。そこに今、膝掛けを丁寧に断った大きな影が、身じろぎもせず座っている。
物語は、三年前と同じところで幕間になり、三年前と違って、続きが始まった。
薄明の庭で、待ち続けた人が、待つのをやめて歩き出す。歩き出した先で、じつは待たれていたことを知る。……ああ、これは、そういう話だったのか。十九の私が観られなかった続きは、こういう結びだったのか。
終幕の光が落ちて、拍手が来る前の、一拍の静けさの中で――頬が、濡れていた。
泣くのは、三年ぶりである。あの晩、玄関で泣かないと決めてから、涙は手の忙しさに換えてきた。換えそこねた分が、暗がりで、まとめて落ちてきたのである。
隣から、声がする。拍手の始まる、その直前に。
「三年。……よく、立っておいでだった」
結果を見ていたのでも、成果を褒めたのでもない。立っていたこと、それだけを、この方は言ったのである。
ロビーの灯りの下で、公爵は白状した。三年前のあの初日、幕間で帰る途中の玄関で、私とすれ違っていたこと。お先にどうぞ、と道を譲った令嬢が、泣きもせずに、まっすぐ立っていたこと。
「初日の幕間で帰るのが、わたしの規則でした。……あの晩から、規則がひとつ増えたのです。玄関を、よく見る」
「まあ。……それで、三年も?」
「泣きもせずに、まっすぐ立っている人がいる、と。……それきり、玄関へ行くたび、目が探すようになりました」
「三年、仰ってくださいませんでしたのね?」
「言えば、あなたの時間を取ることになる。あなたの待ち時間は、もう十分、いろんな人に取られていましたから。……それに、婚約者のある方へ、玄関の外から踏み込む道理も、ありませんでした」
この方は、三年前から、あの規則の中に居たのである。
湿った空気を乾かしたのは、支配人と係員一同だった。ロビーに一列、揃って最敬礼である。
「本日をもちまして、お預かりの席は、ございません」
「あら。では今度からは、お代を払ってよろしいのね?」
「……それは、その」
「払いますのよ。お客ですもの」
係の若い衆が吹き出して、支配人が咳払いをして、玄関はいつもの玄関に戻った。
帰り道、夜風が頬の涙の跡を冷やしていく。泣いたのに、軽い。泣いたから、軽いのか。……三年ぶんの荷物をひとつ、あの暗がりが預かり直してくれた気がするのである。
数日後、老王女殿下から文が届く。用向きは、次のお茶の日取り――ではなく、報せである。
曰く。あなたの散歩のお相手を、次のお茶に呼びつけることにしましたからね。聞きたいことが、山ほどありますの。手始めに――あなた、あの子の何ですの、と。
……最後の問いは、私に聞いているのか、あの方に聞くおつもりなのか。どちらにしても、あの方がお逃げにならないことを、心から祈っておく。




