11. 散歩仲間です
老王女殿下の召しに、断り方というものは存在しない。
夏の王宮は、東翼だけが涼しい。厚い壁と高い天井、日を通さない絨毯。長い廊下を進むうちに、外の暑さが肩からゆっくり剥がれていく。樟脳の匂いに、今日は乾いた薔薇の香りが混ざっていた。
その香りの角を曲がったところで、見覚えのある背中と行き合う。
「……レギーナ嬢」
「あら。閣下も、召されましたのね」
公爵閣下は、いつもの正確な会釈をなさる。ただし、耳のあたりが少し赤い。夏のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
「殿下の召し状に、刻限の記載がありませんでした。本日中に、とだけ」
彼は眉をひそめた。
「まあ。うちの召し状には、刻限まで書いてございましたわ」
「……では、わたしのほうが、軽く見られているようです」
あまりに真顔で仰るので、笑いを咳のかたちに変えて呑み込む。玄関でも回廊でも、この方はいつだって淡々とこういうことを仰るのである。
侍従が現れて、恭しく手を差し伸べた。差し伸べた先は、廊下の右と左に、きれいに分かれている。
「殿下は、お二方を別々にお通しするようにと」
思わず彼と顔を見合わせてしまった。
……尋問である。
◇
通された小間は、日除けを下ろして薄暗い。老王女殿下は寝椅子に浅く腰かけ、扇も使わずに私を待っておいでだった。
「お呼びと伺いまして」
恭しく挨拶をするが、心臓の鼓動がうるさい。
「お座りなさいな。……あなた、立ったままでも三年もつのでしょうけれど」
「三年は、少々のぼせますわ」
殿下は喉の奥で笑って、それから、扇の要でこちらを指した。
「では、伺います。あなた、あの子の何ですの?」
あの子、というのが誰のことなのか、聞き返す必要がないのが恐ろしい。
私は口を開いて、閉じた。開いて、また閉じる。糸口を探して、部屋の中を目だけで一周する。日除けの隙間の光。銀の茶器。乾いた薔薇。……どこにも、答えは掛かっていない。
三年、私は「誰の何であるか」を答えるのが得意な女だった。ローテンブルク侯爵家の、婚約者でございます。それだけ言えば、どの玄関も私を通してくれる。名札というものは便利なのである。便利で――そして、その名札の内側には、とうとう最後まで、何も入っていなかった。
「お……お答えは、要りますでしょうか」
「要りますとも。わたくし、暇ですのよ」
私は作った笑顔がひきつるのを感じた。
「で、殿下。それは、わたくしも知りたいところでございますので……」
殿下が声を上げて笑い、いたずらっ子の笑みを浮かべると、隣の間へと移られていった。
隣の間からは、低い声が漏れてくる。壁が厚いので、言葉にはならない。ただ、あの方の声が、いつもより長く続いていることだけがわかる。あの半刻の人が、長く喋っている。……何を、どう説明していらっしゃるのだろう。
私の答えは何になるだろうか――――?
◇
四半刻ののち、私たちは同じ部屋へ通された。
寝椅子の殿下は、両手を膝に置いて、たいそう機嫌がよろしい。
「では、もう一度伺いますわ。あなたがた、何ですの?」
「「散歩仲間です」」
声が、揃った。
一言一句、狂いがない。しかも二人とも、まったく同じ間で言ったのである。部屋の空気が、ぴたりと止まる。
殿下は扇を開き、ゆっくりと閉じ、大きく息をつく。
そして仰った。
「七十年生きて、そんな下手な言い訳は初めて聞きましてよ」
公爵閣下は天井のあたりを見ておられる。私は絨毯の織り目を数えかけて、やめた。数えたところで、この状況は改善しないのである。
「よろしい。では、わたくしの用向きを申し上げます」
殿下の声が、そこで少しだけ低くなった。
「宮廷から、公爵家へ書付が回りましてよ。お家柄のよろしいお嬢様がたの名が、きれいに書き上げてあるそうですわ」
隣で、あの方の肩が動かない。動かないことのほうが、よほど雄弁である。
「それから、こちらの話。……近ごろ、あなたを公爵夫人にと担ぎたがる声もございますの。玄関で人望を積んだ令嬢なら、公爵家の格に釣り合う、と」
「まあ。ずいぶん、ご親切なことで」
「ええ。どちらも親切ですのよ。だから、たちが悪いの」
殿下は、扇の先を私と、それから公爵閣下へ向けた。
「日どりを決めたがるのは、いつも当人以外ですのよ。……お逃げなさいな。上手にね」
◇
帰りの廊下で、私は二年前の冬を思い出していた。
あれは雪の晩である。どこかの夜会の帰り、迎えの馬車がなかなか来ず、私は玄関の庇の下に立っていた。座って待たない女は、雪の日でも座らない。強情というより、もはや体の癖である。
そこへ、半刻で辞したはずのこの方が出ていらして、なぜか、私の隣に立たれたのである。
二人とも黙って、庇の外の雪を見ていた。灯りの下だけ、雪が斜めに光って落ちる。手袋の中で指が悴んで、それでも、寒いのが不思議と苦にならない四半刻だった。
やがて馬車の轍の音がして、あの方が仰ったのである。
「では、また。――どこかの玄関で」
次の約束を取り付けない別れの言葉を、私はあの晩、初めて聞いた。以来、この方はどの玄関でもそう仰る。そして私たちは、この顔見知りに、とうとう名前を付けずに三年目を迎えたのである。
◇
王宮の門を出ると、夕方の熱がまだ石畳に残っていた。打ち水の匂いがして、噴水のあたりだけ、空気がひとつぶん軽い。
どちらからともなく、いつもの歩幅になる。行き先も用向きもない。この頃では、それが少しも間抜けに思えなくなっている。
「……散歩仲間だと、申しました」
「わたくしもですわ。ぴたりと揃いまして、恥ずかしいこと」
「殿下に笑われましたが」
「ええ。笑われましたわね」
噴水の飛沫が、風で少しこちらへ届く。冷たい粒が頬に触れて、すぐに乾いた。
仲間、と口の中でもう一度転がしてみる。
妙なのである。三年、私にはちゃんとした名前があった。ローテンブルク侯爵家の、婚約者。あれほど立派な名前を持っていながら、私は玄関で一刻待たされ、廊下で半日忘れられていた。名札は、私を一度も守ってくれなかったのである。
それなのに、名前のないこの散歩は、こんなにも温かい。温かいと知っているくせに、私は今日、「仲間」という言葉の軽さに、指の先が冷えたのだ。
……欲しがっている。名前を。三年、名前に何ひとつ守ってもらえなかった女が、である。
「レギーナ嬢」
角で、あの方が足を止めた。別れの玄関である。
「では、また。――どこかの玄関で」
いつもの口上に、いつもの会釈。私も同じだけ丁寧に礼を返す。
背を向けかけたところで、小さな声がした。独り言のつもりなのだろう。私に向けるには、あまりに音が足りない。
「……仲間では、足りない気が、してきました」
私は、聞き返さない。
聞き返さないのが、三年で身につけた作法だからである。相手が置いていったものは、その場で開けない。持ち帰って、灯りの下で、ゆっくり開ける。
馬車の中で、私は膝の上の手を見ていた。指の先は、もう冷たくない。……夏の夕方だというのに、頬のほうが、よほど熱かったのである。
屋敷の玄関で、執事のエーバーハルトが銀の盆を捧げ持って待っていた。盆の上には、封の重たい一通。
「本日、お先触れが参りました」
「どちら様から?」
「ローテンブルク侯爵夫人様。……近日、ご来訪の由にございます」
夏の夕方の熱が、玄関で、すっと引いた。




