12. 貸し出しておりませんの
来訪の朝、うちの玄関には白い花が生けてある。
執事のエーバーハルトが、夜明けのうちに市場へ人をやったらしい。水は替えたて、敷石は濡れている。……この家の玄関は、迎える相手によって、無言でよそ行きの顔になるのである。
「お花を替えましたのね」
「はい。棘のないものを選びましてございます」
「気配りですこと」
「棘は、こちらから出すものではございませんので」
うちの執事は、六十三年ぶんの言い方をする。
父は朝から食堂を歩き回っていた。意図の見えない訪問ほど、商いの人には落ち着かないものはないらしい。
「レギーナ。無理に会わずともよいのだぞ」
「お父様。お茶をお出しするだけですわ」
……本当は、断り方を知らないだけである。父には言わない。
◇
馬車は、約束の刻限より四半刻早く着いた。早く来る客は、たいてい言いにくい用件を抱えている。
三年ぶりに間近で見る侯爵夫人エルヴィーラ様は、記憶より小さく見えた。背筋も扇の持ち方も昔のままで、ただ、昔は張り詰めて見えたその背中が、今日は張り詰めていることのほうが目につく。
「ご無沙汰しております」
「……お元気そうね」
「お陰様で。夏は、玄関が涼しゅうございますの」
応接の窓を開けると、庭の草いきれが入ってくる。茶が運ばれ、菓子が置かれ、当たり障りのない話が二往復する。三往復目で、夫人は茶碗を置いた。
「あなたの噂は、耳にしておりますわ。王宮の園遊会にも、殿下の茶会にも呼ばれているとか」
「呼んでいただいておりますわ。ありがたいことです」
「……あの子の婚礼はね、身内だけで済ませましたの」
夫人の目が、庭へ逃げた。
「祝いの楽も、断られましたのよ。どこも先約だと言って。品物はちゃんと納まりましたし、値もいつもどおり。ただ――」
「ただ?」
「誰も、うちを先にしてくださらないの」
私は茶碗を置いて、両手を膝に戻した。
誰も虐げない。ただ、誰も一番にしない。侯爵家の玄関に起きているのはそれだけで、そのそれだけが、体面で建った家にはいちばん長く効く。
「そこでね、レギーナさん」
夫人が、身を乗り出した。
「秋に、うちで夜会を開こうと思っておりますの。……あなたのお名前で、お招きを出させてくださらない? あなたのお顔なら、王都中が参りますでしょう」
――。
庭で、水を打つ音がしている。
この方は、私の顔を鍵か何かだと思っていらっしゃる。差し込めば、どの玄関も開く鍵。……三年前まで、私自身がそう扱われていたのだから、無理もない。
「奥様。ひとつだけ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なあに」
「三年のあいだ、わたくしを呼んでくださるお家が、ほとんどございませんでしたの。……あれは、なぜでございましょう?」
夫人の扇が、止まった。
止まったまま、しばらく動かない。やがて扇が、はらりと膝の上に落ちる。
「……申しつけましたのよ。方々に」
「なんと?」
「うちの予定に備えて、あの方の日は空けておいてくださいます? と。……侯爵家の嫁になる娘が、よその玄関に出入りしていては、体面が立たないと思いましたの」
「呼ばないのに、空けさせた、ということでございますね」
「そうです」
夫人は、そこだけは、はっきりと仰った。見栄は張るけれど、嘘はつかない方なのである。だから三年、私の週末は空いていた。
――。
胸の底で、何かが静かに裏返る。
三年、私は「呼ばれない女」なのだと思っていた。招待状の来ない玄関を、自分の値打ちの目盛りだと思って眺めてきたのである。夜会のある土曜の夕方には、窓辺から街の灯りを見ていた。今夜もどこかで音楽が鳴っている、私はどこにも要らない、と。
仕舞い直したドレスの重さを、私は今でも覚えている。呼ばれるかもしれないから、と手入れをして、畳み直して、袖を通さないまま衣裳箱へ戻す。樟脳の匂いのする箱の蓋を閉めるとき、いつも同じことを思ったものである。――私は、この箱の中の布より、少しだけ暇だ。
あの三年は、私が呼ばれなかったのではない。呼べなくされていたのである。
それを知って立ち上がったのは、怒りではなかった。もっと妙なもの――ずっと重かった荷物の中身が、じつは自分の落ち度ではなかったと知ったときの、膝の力が抜けるような感じである。
目の前の小さな背中に、投げつけられる言葉はいくらでもある。三年ぶんを、そっくり同じ重さにして返すこともできる。
私は、茶を一口飲んだ。……熱いものを飲むと、言葉は少し、行儀よくなるのである。
「奥様。わたくしの玄関は、貸し出しておりませんの」
夫人が顔を上げる。
「あそこはうちの玄関で、開けるのはうちの者、通すのはわたくしですわ。お名前をお貸しすれば、次はどなたかが同じことをお求めになりますでしょう。そうしてお貸ししているうちに、わたくしの玄関は、玄関でなくなりますの」
「……ええ」
「ですけれど、お茶なら差し上げますわ。いつでも、何杯でも。――三年ぶんの、お暇でしたら、こちらにもございましたので」
夫人は、ゆっくりと瞬きをした。
それから、茶碗を持つ手が小刻みに震え始める。震えを見せまいと持ち替えて、持ち替えたせいで、余計に音が鳴る。
「……あの子は、ほんとうは、あなたのことを」
「奥様」
私は、遮った。三年待った女の特権を、ここで一度だけ使うことにしたのである。
「その先は、おっしゃらない方が、みんな幸せでございますわ」
◇
玄関で見送るとき、夫人は靴の先を見たまま仰った。
「あなた、お強いこと」
「いいえ。立って待つ稽古を、三年いたしましただけですの。……立つのだけが、上手になりましたわ」
夫人の口の端が、ほんの少し動いた。笑ったのか、こらえたのか、わからない。馬車の扉が閉まり、車輪が回り、うちの玄関はまた、いつもの玄関に戻る。
執事が花瓶の位置を直しながら、ぽつりと漏らす。
「お茶を、二杯召し上がりました」
「あら。……存外、喉が渇いておいでだったのね」
◇
辻に、あの方が立っている。
夕方には少し間のある刻限で、日はまだ屋根の上にある。その手には、花束があった。
「……通りがかりです」
「まあ。花屋の前を通りがかりまして?」
「ええ。通りがかりました」
嘘が下手なのではない。上手につくつもりが、最初からないのである。
どちらからともなく歩き出す。石畳の熱、打ち水、どこかの厨房の夕餉の匂い。私は今日あったことを、感想抜きに短く話した。三年の栓のことも、貸し出しのことも。
あの方は、何ひとつ意見を仰らない。ただ、聞いておられる。
「……お強い」
「まあ。奥様と同じことを仰いますのね」
「では、言い直します。……お上手だった、と」
「何がでございますの?」
「怒らないことが、です。怒るのは易しい。怒らないほうが、よほど骨が折れます」
胸の奥が、ふっと温かくなる。この方は、私が呑み込んだものの重さを、量りもせずに知っている。
角で別れるとき、あの方は花束を持ったままだった。渡す機会を、たぶん、どこかで一つ落としたのである。落としたことに、ご自身で気づいておられる顔でもある。
私は気づかないふりをして、丁寧に礼をした。……持ち帰る花の重さは、その方のものだ。横から軽くしてはいけない。
◇
その晩、レーヴェンシュタイン公爵家の勝手口では、家令のヴェルナーが密かに天を仰いでいた。主が花束を抱えてお帰りになるのは、これで二度目である。前の一束は、庭師が「もったいのうございます」と言って玄関の壺に生けてしまった。今度の一束を、主は自ら書斎の窓辺へ運ばれる。水を替えるのは家令の役目らしい。花の名を尋ねられたので、白い矢車菊にございます、と答えた。主は、そうか、とだけ仰る。
◇
翌朝の籠の一番上に、楽団長メルヒオール氏の一通があった。
新しい演目の知らせ――ではない。近ごろの若い者は度胸がない、という嘆きに始まり、稽古場の暑さを経て、末尾でようやく用向きが顔を出す。一度足を運んでほしい、相談と言うべきか願いと言うべきか、そのあたりで筆の迷っている一通である。
……相談と願いのあいだで迷っている招待状ほど、断りにくいものはないのである。




