13. 名は貸しませんわ
楽団の稽古場は、夏でも緞帳の匂いがする。
埃と松脂と、汗の匂い。窓を開け放しても風が入らず、楽士たちは襟をゆるめて弓を引いている。上つ方の玄関にはない匂いで、私はこれが好きらしい。
楽団長メルヒオール氏は、指揮台の上で腕を組んで待っていた。五十八歳の髪は白いのに、眉だけが黒々としている。
「よくおいでくださいました。……暑うございましょう」
「涼しい顔をしておりますでしょう? 三年、壁際で涼んだ女ですもの」
メルヒオール氏が笑って、それから、笑いをすっと引っ込めた。
その引っ込め方で、私は今日の用向きの重さを知る。
すると、指揮台の陰から、痩せた若者が出てきた。
「そちらが、お弟子さん?」
若者は深く頭を下げ、トビアス、と名乗る。声が、上ずって裏返った。
二十歳になるやならずで、指先だけが妙に大人びている。楽器を持つ人の指である。
「来月、この子の初舞台でしてね」
「まあ、おめでとうございます」
「それが、客が入りませんので」
メルヒオール氏の言い方は、実にあっさりしていた。あっさりしすぎていて、かえって、何度も考えた末の言葉だとわかる。
「王都の夏は、みなさま避暑にお出かけです。無名の若造の演奏会に、わざわざお運びくださる方は多くない」
「……ええ」
「そこで、お願いがございます。刷り物に――後援の筆頭として、レギーナ様のお名前を」
トビアスの肩が、びくりと跳ねた。この話を知らされていなかったらしい。耳の先まで赤くして、師匠の背中を見ている。
――。
困った、と思う。
悪意なら、断れるのである。三年、悪意にはずいぶん慣れた。厄介なのは善意のほうだ。この方は私を利用したいのではない。目の前の若い者の初舞台を、空席の海にしたくないだけである。
そして私は、その気持ちをよく知っている。
◇
その晩、私は寝台で天井を見ていた。
名前を貸せば、客は来る。それは、たぶん本当である。刷り物の隅に一行あれば、あの子の初舞台は満席になるだろう。
誰も損をしない。あの子は客を得て、楽団は面目を保ち、私は何も失わない。
――失わない、だろうか。
寝返りを打つと、三年前の暗がりが瞼の裏に上がってくる。
あの頃の私には、名前があった。ローテンブルク侯爵家の、婚約者。その名札を胸に提げて、私はどの玄関でも丁重に扱われる。椅子を勧められ、上等な茶を出され、そして――誰も、私自身には用がなかった。名札にはお辞儀が集まり、中身の私は壁際にいたのである。
名前で呼ばれる経験を、私は三年ぶん持っている。あれは、たいそう寒い。
あの子に渡してやりたいのは、そんな寒いものだろうか。
……それに、父の受付簿のこともある。名を貸すのは、自分の名に値札を付けることだ。一度付いた値札は、二度と外れない。次に誰かが困ったとき、私は「では、お名前を」と言われる。
断りたい。けれど、あの子の初舞台を、空席の海にもしたくない。
どちらかを選ぶしかない、と思い込んでいたことに気づいたのは、鐘が二つ鳴ったあとだった。
――待って。
断るか、引き受けるか。その二つのあいだに、道はないのだろうか。
三年、私はその道の上を歩いてきたではないか。座って待たない。いちばん忙しい人の隣に立つ。手を貸して、困りごとを一つだけ伺う。……あれは全部、「何もしない」と「代わりにやってしまう」のあいだの、細い道である。
私は起き上がって、蝋燭に火を入れた。
◇
翌朝、私は稽古場へ出向く。
「メルヒオール様。お名前は、お貸しできませんの」
老楽団長の眉が、ぴくりと下がる。トビアスは、うつむいた。
「その代わり、当日の玄関に、わたくしを置いてくださいませ」
「……は?」
「玄関でお客様をお迎えする係ですわ。切符も、もぎりますし、外套もお預かりします。それだけは三年、みっちり稽古いたしましたの」
メルヒオール氏は、ぽかんと口を開けて、指揮棒で自分の額を軽く叩いた。
「……伯爵令嬢に、玄関番をさせろと」
「ええ。名前は紙の上で客を呼びますけれど、紙は誰の顔も覚えませんでしょう? 玄関に立てば、わたくし、お一人ずつのお顔を覚えられますの」
メルヒオール氏の顔は、まだ腑に落ちていない。玄関番が一人増えたところで客席は埋まらないのだから、無理もない。
「それに、刷り物にお名前は載せませんけれど――足なら、お貸しできますわ」
◇
初舞台までの二十日、私はいつもの用向きの帰りに、玄関先で一言ずつ置いて回った。花屋にも、書店にも、御者だまりにも。
「来月の十日に、良い音がございますのよ」
誘わない。頼まない。券も預からない。ただ、知らせる。
名を紙に載せれば、一日で済む。足で運べば、二十日かかる。……かかったぶん、この知らせには、値札が付かない。
◇
二年前の冬を、思い出す。
置き去りにされた音楽会の、次の回である。私は約束どおり、答えを一つ持って行った。あの頃この人が抱えていた困りごとは、若い弟子が客の前で萎縮してしまうことである。舞台の袖で震えて、音がやせる。
「初舞台の客席に、知った顔をひとつ置くことですわ」
それが、私の持って行った答えである。当日、私はその客席に座った。あの晩の若者は、いま、楽団の後ろで立派に弓を引いている。
……つまり私は、二年前と同じことを言っているだけなのである。ただ、置く場所が、客席から玄関へ移っただけである。
◇
初舞台の日、私は開演の一刻前から、玄関の外に立っていた。
通りがかりの方が足を止めて、何ごとかと尋ねる。今夜は若い方の初舞台ですのよ、とお答えすると、たいてい券売りの窓口へ足が向く。
「ようこそ、おいでくださいました」
扉が開くたび、顔を見て、名を伺って、外套を預かる。二十日かけて回った玄関の顔が、次から次へと押し寄せてくる。
人は不思議なもので、玄関で名を呼ばれると、背筋が少しだけ伸びる。伸びた背筋のまま席に着いた客は、はじめの一音を、聴く姿勢で待ってくれるのである。
扉が閉まる頃には、客席に空いた席がほとんどなくなっている。
舞台の袖でトビアスが真っ青な顔をしているので、一言だけ声をかけた。
「今夜のお客様は、みなさま、わたくしがお顔を存じ上げておりますの。……知った顔ばかりですわ。怖いことは、ございませんでしょう?」
第一音が鳴ったとき、私は思わず息を止めた。
やせた音では、なかったのである。細くて、まっすぐで、若い音。萎縮も震えもない。私はただ玄関に立っていただけなのに、目の奥が少し熱くなる。
終演後、トビアスは楽器を抱えたまま、私の前で深く頭を下げた。
「あの、レギーナ様。……お客様を、ありがとうございました」
「わたくしではありませんわ」
「え」
「わたくしがお運びしたのは、はじめの一足までですの。……そこから先、お客様を席に留めたのは、あなたの音ですわ」
◇
客席の隅に、見慣れた背中があった。
半刻公爵は、終演の拍手が終わってもまだ座っている。私が近づくと、あの方は少しばつが悪そうに立ち上がる。
「……長居をいたしました」
「あら。半刻を、ずいぶん過ぎておりますわね」
「最近、癖が移りまして」
悪びれもせず、そう仰る。
劇場の灯りが落ちていく中を、二人で玄関へ歩く。夏の夜気が、汗ばんだ首筋に心地よい。
「玄関に立っておいでのあなたを、外から見ておりました」
「まあ。お声をかけてくださればよろしいのに」
「いえ。……あの玄関は、あなたの舞台でしたので」
私は、返事に困る。
困ったまま、扉を押した。夜の風が、思ったよりやわらかい。
◇
その夏、王都の楽壇では、妙な言い伝えが囁かれ始めた。曰く、若い演奏家の初舞台には、玄関の立ち方というものが大事である。曰く、良い玄関に迎えられた客は、音を聴く耳になって席に着く。曰く、そういう玄関を持つ楽団は、客が育つ。誰が言い出したのか、どこの玄関のことなのか、当のご本人の名は、なぜか一度も出てこない。
◇
数日後、籠に商家筋からの一通が交じっていた。
書き出しから、妙に歯切れが悪い。時候の挨拶が長く、末尾でようやく用向きが顔を出す。先日の「ご紹介の方」の件で確かめたいことがある――と。
……ご紹介。私は、誰も紹介した覚えがない。




