14. ご紹介に、判は要りませんの
盛夏の王都は、朝から石畳が焼けている。
その朝いちばんに玄関を叩いたのは、灯り屋の主だった。汗を拭き拭き、帽子を胸に当てて、実に言いにくそうに切り出す。
「あのう。……先日、うちにお見えになった方のことで」
「ええ」
「レギーナ様のご紹介で参りました、と仰る旦那でしてね。お屋敷への納めの口を世話してくださると。それで、その、お礼を先にと」
「お礼」
「はい。ご紹介料を、と」
私は玄関の敷居の上で、しばらく黙っていた。
黙っているあいだに、頭の中で、いくつもの玄関が音を立てて開いていく。灯り屋。織り元。書店。仕立ての糸屋。三年かけて、私が一つずつ叩いてきた玄関である。そのどこかに、私の名を騙った男が、判を押した紙を持って立ったのだ。
胸のあたりが、冷たくなった。
名前というものは、渡した覚えがなくても、勝手に歩き出すらしい。
「ご主人。それで、お支払いになりまして?」
「いいえ。……いいえ、それが」
灯り屋の主は、帽子をくしゃりと握り潰した。
「妙だと思いましてね。あの方のご紹介に、判も紹介料も要りませんもの。ご本人が、隣にいらっしゃるだけですわ、と――うちの女房が申しまして」
◇
その日、うちの玄関はよく鳴った。
昼までに織り元の番頭が、午後には書店の主が、日暮れ前には糸屋の女将が、それぞれ汗だくで確かめに来る。用向きは全部同じで、断り文句も全部同じだった。
「あの方は、判なんぞお使いにならん」
「お代を取る方じゃございません」
「そういう話は、まずご本人に伺うのが筋でしょう」
誰一人、支払っていない。誰一人、私に問い合わせる前に判を押していない。
玄関の敷居に腰かけたい気分だったが、座らない女なので、私は立ったまま少し笑った。
……なんという網だろう。私が張ったのではない。三年かけて、向こう側が勝手に編んでくれた網である。
◇
その日の夕方、辻のあの方は、いつもより先に口を開く。
「……今日、こちらでも耳にしました。あなたのお名前を騙る男がいる、と」
「まあ。お耳が早いこと」
「公爵家が動けば、半日で止まります」
歩きながら、あの方は前を向いたまま続ける。
「……お使いにならないと仰るなら、それも承ります」
断る自由のほうが、先に置かれていた。いつもの、この方のやり方である。
私は、しばらく考えた。……正直に書いておく。使いたい、と思ったのである。半日で終わるものを、こちらは幾日も、玄関で頭を下げ続けることになる。
「……使いませんわ」
自分の声が思ったより静かで、少し驚いた。
「あそこは、わたくしの玄関ですもの。開けてくださるのはあちら様ですけれど……開けたくなるかどうかは、三年かけてお預けしたものの、お返事ですの。返事は、待つものですわ」
「承知しました」
あの方は、それきり何も仰らない。引き止めもせず、心配も口にせず、いつもの半歩遅い歩幅で隣を歩いている。
……断る自由を先に渡されると、断ったあとが、こんなに軽い。三年、私はこれを誰からももらえなかったのだと、今日になって知る。
◇
三年前の秋のことを、私は思い出していた。
雨の御者だまりに小旗の答えを持って行った日、親方のブルーノが革の財布を出して、私に礼金を差し出したのである。あの人は真面目な顔で、これは組合の総意です、と言う。
私は受け取らなかった。
「お代をいただくと、次から、待ち時間でなくなりますの」
我ながら、わかりにくい断り方である。あの頃の私は、自分でも理屈がよくわかっていなかった。ただ、金銭を受け取った瞬間に、あの軒下の四半刻が「仕事」に変わってしまう気がしたのである。仕事になれば、待ち時間はただの待ち時間に戻る。それだけは、嫌だった。
いま、その理屈が、ようやく形になって目の前にある。あの日の断りが、三年後の今日、王都中の玄関で私を守っているのだ。値札の付いていない名前は、値札を付けて騙ろうとした瞬間に、偽物だと知れる。
◇
夕食の席で、父は珍しく食が進まないようだった。
「訴え出るべきだ」
「お父様」
「お前の名を騙ったのだぞ。伯爵家の名でもある。衛兵に届けて、お前の名で告示を出させればよい。そのほうが早い」
「早うございますわね。……ですけれど、そうすると、わたくしの名が紙に載りますでしょう」
父の手が止まる。
「わたくしの名が紙に載れば、次からは、その紙の値打ちが売り買いされますの。今日は騙りを潰す紙でも、明日は誰かの後ろ盾の紙になりますわ。……わたくしの名には、値札を付けたくありませんの」
父は何か言いかけて、口を閉じる。
それから、長いこと、匙の先で皿の縁を撫でていた。商いの人が黙るのは、たいてい、勘定の合わない何かに出会ったときである。この人の帳面には、値札を付けない資産の欄が、たぶん、まだないのだ。
「……向こう様が、勝手にな」
「はい?」
「いや。……何でもない」
◇
始末は、あっけないほど早く付いた。
商家の旦那衆が申し合わせて衛兵に届け、騙り男は市場の門で捕まる。私は一度も呼ばれなかったし、一度も出向かなかった。証しの品も、証しの言葉も、全部あちら側が持っていたからである。
私がしたことといえば、玄関で確かめに来た方々に茶を出したくらいのものだ。
◇
顛末を彼に話し終えたのは、数日後の夕方だった。
夏の終わりの風が、生ぬるく首筋を撫でていく。あの方は最後まで口を挟まず、聞き終えてから、小さく頷いた。
「……お気を揉ませて、申し訳ございませんでしたわ」
「いえ。こういうのを待つのは、初めてです」
あの方は、ふう、と息を吐く。
「……存外、難しい」
その息の吐き方があんまり正直だったので、私は思わず笑ってしまった。笑いながら、目の奥が少し熱い。
この方は、待ったのである。半日で止められる手を持ったまま、その手を懐に入れて。三年前から玄関の外に立っていた人が、今度は玄関の外で、私の網が自分で動くのを信じて立っていた。
――それは、私が三年、他人にしてきたことである。
してきたことを、初めて、してもらったのである。
◇
騙りの男は、その後、市場の門番の詰め所から衛兵の詰め所へ移された。取り調べの受け答えが、どうにも間が抜けていたそうである。曰く、あの令嬢の名を出せば、どこの玄関も開くと聞いた。曰く、実際、どの玄関も開いたのである。ただし、開いたきり、誰も財布を出さなかった。門番の一人が、詰め所でぽつりと言ったという。――そりゃあ、あの方のご紹介に、判は要りませんからね。
◇
夏の終わりが近づくにつれ、玄関の籠は、いっそう重くなる。
紙の重なりが、小机の縁から滑り落ちるようになった。封蝋の色がばらばらで、指で押さえると、蝋の角がぱらぱらと欠ける。夜、返事を書き終える頃には、手の付け根が痛む。……詫びる筋のない方からの詫び状まで届くのだから、王都の玄関は律儀すぎるのである。
保留の小机の紙を、私は数えない。数えると、その日の私が、動けなくなる。
夜更け、鏡台の前で髪を解いていて、ふと手が止まった。
鏡の中の顔の、目の下に、うっすらと影がある。
……三年前、玄関で待たされていた頃の私にも、同じ影があった。あのころの仕事は待つことで、いまの仕事は、待たせないことである。
どちらも、同じ場所に影を落とすらしい。




