表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
15/29

15. 空いた時間の底

 夏の終わりの十日ほどを、私はほとんど覚えていない。


 覚えていないのは、忘れたからではなく、間が空いていないからである。朝に返事を書き、昼は工房へ寄り、午後は稽古場、夕方は御者だまりの相談ごと。断らずに済ませようとすると、一日は驚くほど伸びるのだ。


 伸ばした一日は、どこかで必ず、縮む。


 工房の階段で、それが来る。


 二階の仮縫い場から降りようとして、足の裏の感覚が、ふっと遠のいた。手すりの木目が白くなり、耳の奥で金属を薄く伸ばすような音が鳴る。落ちる、と思う前に、私の体はもう傾いでいたらしい。


「レギーナさん!」


 オティーリエの太い腕が、私を横から抱き留めた。針山が転がって、待ち針が床でばらばらと鳴る。


 人の腕は、こんなに温かかったろうか。……薄れかけた頭で、私はのんきなことを考えている。


       ◇


 医者の見立ては、実に簡単である。


「お疲れです。二日、寝ておいでなさい。……お嬢様、お約束を一つだけ守っていただけますか? 二日のあいだ、何もなさらないこと」


 何もしない、というのが王都でいちばん難しい注文だと、この医者は知らないのである。


       ◇


 一日目の午前は、まだ愉快だった。枕元に本を積み、返事の下書きを進め、執事に取り上げられる。


 午後になると、屋敷が静かになった。


 私の部屋には、玄関の音がよく届く。扉の開く音、盆を置く音、執事の低い声。それらが遠くで動くのを、寝台の上で聞いている。私だけが、何もしていない。


 鐘が鳴る。


 半刻を告げる鐘が、一つ。しばらくして、また一つ。


 ……時間というものは、埋めていないと、こんなに深いものだったろうか。


 天井を見ているうちに、寝台の底が、抜けた気がした。


 抜けた先にあるのは、暗がりである。よく知っている暗がりだ。三年前の、あの晩の桟敷席。


 ――幕が上がって、隣の席が空いている。


 開演前は、まだ言い訳ができた。道が混んでいるのだろう、と。幕間に玄関まで見に行って、馬車寄せに彼の紋がないと知ったとき、暗がりが上がってきたのである。


 あのとき感じたのは、怒りでも悲しみでもない。もっと薄くて、もっと恐ろしいものだった。


 ――ああ、私は、誰にも要らないのだ。


 この世に自分の席が一つもない、という感じ。上等な椅子に座っているのに、その椅子ごと、世界から少しだけ浮いている感じ。あの晩から私は、待つのをやめて立ち上がった。忙しい人の隣に立ち、手を貸し、困りごとを一つ伺って――そうやって三年、私は暗がりの上に、板を渡し続けてきたのである。


 板の上を歩いているあいだは、下を見なくて済む。


 いま、二日ぶんの何もない時間を渡されて、私はその板の隙間から、下を覗いてしまったらしい。


       ◇


 二日目の夜、玄関のほうが騒がしくなった。


 馬車の音ではない。もっと乱れた、革靴が石畳を蹴る音である。


「――お嬢様。公爵閣下がお見えです」


 エーバーハルトの声が、珍しく少しだけ上ずっている。


「お約束は、伺っておりません」


「ええ。……あの走り方は、たぶん、報せを聞いていらしたのね」


 肩掛けを羽織って、私は玄関へ降りた。医者の言いつけには背くけれど、これだけは、寝たままにできない。


 扉は、開け放してあった。


 あの方は石段の下に立って、上がってこない。この家の敷居の外に、いつもどおり立ったままである。約束のない来訪は、この方には珍しくない。珍しいのは、二つ。息が上がっていることと、襟が曲がっていること。


 所作の正確なこの方の襟が、曲がっている。それだけで、胸のあたりが妙なことになる。


「……走っておいでですの?」


「いえ」


「息が……?」


「……走りました」


 あの方は、ひとつ息を整えてから、真面目な顔で仰る。


「二日、何もなさらないこと。書き物をなさらないこと。冷たい床を歩かないこと」


「まあ。……お医者様と、同じことを仰いますのね」


「先ほど、伺って参りましたので」


 私は、玄関の椅子に腰を下ろした。


 座って待たない女が、椅子に座っている。三年、この椅子を敵だと思ってきたのに、今夜はそこに座って、敷居の外の人と話している。……人は、案外あっさり、自分の掟を破るものらしい。


 夜の風が玄関を通り抜ける。もう、秋の匂いが混ざっている。


「レギーナ嬢。……何か、ございましたか」


「体が疲れただけですわ」


「ええ」


「……嘘ですわね。今の」


 あの方は、何も言わずに優しい視線をなげかけ、待っている。


 この方の沈黙は、急かさない沈黙である。三年、誰にも言わずに済ませてきたことを、静かに引き出してしまう。


「……空いた時間の底に、あの桟敷席がありますの」


 言ってしまってから、自分の声が思ったより細いことに気づいた。


「何かしていないと、あの晩の――誰にも要らなくなった気のした自分に、戻ってしまいそうで。ですから、埋めておりましたの。三年、ずっと」


 膝の上で、指が肩掛けの端を握っている。


「みなさま、わたくしをよくしてくださいますわ。ありがたいことですの。……ただ、玄関の籠が重くなるほど、わたくし、あの晩から一歩も動いていない気がして」


 言葉にすると、思ったより惨めだった。惨めなのに、言ってしまうと、少し軽い。


 あの方は、しばらく石段の下で黙っていた。


 それから、庭の暗がりのほうを向いたまま、口を開かれたのである。


「……二十一の冬に、父が死にました」


 夜の風が、止まる。


「朝、いつもどおり出かけて、夕方に運ばれて参りました」


 石段の下の声が、そこで一度、途切れる。


「……それから一年、喪の中におりました。おりましたが、その一年に、悲しんだ記憶が、ほとんどないのです」


「……記憶が」


弔問(ちょうもん)の応対と、式次第と、家督の手続きで埋まりました。誰もが等しく、新しい主の時間を欲しがりましたので。……悲しむための時間は、どの日どりにも書かれておりませんでした」


 石段の下の背中は、まっすぐである。まっすぐすぎて、痛い。


「そのとき、覚えたのです。時間を等しく、少しずつ配る。どこにも半刻だけ居る。そうすれば、誰も、それ以上を求めません。……誰も、わたしの中身までは、求めません」


 半刻公爵、と王都は呼ぶ。


 私はその呼び名を、器用な処世だと思っていた。違ったのだ。あれは、二十一の冬に踏み抜いた床へ、この方が渡した板である。


 私は、空いた時間を埋めてきた。この方は、空いた時間を配っておられる。やり方は正反対で、そのくせ、理由はたぶん同じもの。――何もない時間に、自分が要らない人間だと知られるのが、怖い。


「閣下」


「はい」


「わたくしたち、たいそう不器用でございますわね」


 あの方が、ふ、と笑う気配がした。


 笑いながら、こちらを見ない。見ないでいてくださるのが、今夜は、ありがたい。


 二人とも、それ以上は言わなかった。傷が同じ形をしているということを、言葉にしてしまうと、たぶん、どちらかが泣く。


       ◇


 あの方が帰られたあと、玄関の広間では、見舞いの品の置き場所をめぐる会議が始まった。


「果物は日の当たらぬところへ。卵は厨房へ」


「エーバーハルト殿、この鉢はいかがいたしましょう? 公爵家より、養生に良いという薬草でございまして」


 聞き覚えのない敬語の声がするので覗くと、公爵家の家令とおぼしき年配の方が、鉢を捧げ持って立っている。家令ごと走らせたらしい。


「窓辺へ」


「心得ました。……いや、恐れながら、薬草は朝日がよろしいかと」


「では、朝は窓辺、昼は棚へ」


 二人の老人が、鉢ひとつを挟んで礼を交わしている。医者が呆れ顔で「お嬢様、寝ておいでなさい」と私を追い立てた。


 寝台に戻って、天井を見る。


 同じ天井なのに、午後に見た暗がりが、今は少し遠い。板が一枚、増えた気がする。


 ――誰かの隣にしか、立てないと思っていた。今夜は、敷居の外に立ってくれた人がいる。


       ◇


 翌朝、玄関の盆の上が、すっかり替わっていた。


 招待状の代わりに、干した果物と、蜂蜜の壺と、薬草の束と、揺れない馬車を寄越すという申し出。


「盆が、重うございます」


「あら。招待状より?」


「はい。……お品は、お気持ちより重うございますので」


 エーバーハルトの言い方が、今朝はやけに得意げである。


 ……返事を書かなければ。そう思って起き上がりかけて、私は、また寝かしつけられたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ