15. 空いた時間の底
夏の終わりの十日ほどを、私はほとんど覚えていない。
覚えていないのは、忘れたからではなく、間が空いていないからである。朝に返事を書き、昼は工房へ寄り、午後は稽古場、夕方は御者だまりの相談ごと。断らずに済ませようとすると、一日は驚くほど伸びるのだ。
伸ばした一日は、どこかで必ず、縮む。
工房の階段で、それが来る。
二階の仮縫い場から降りようとして、足の裏の感覚が、ふっと遠のいた。手すりの木目が白くなり、耳の奥で金属を薄く伸ばすような音が鳴る。落ちる、と思う前に、私の体はもう傾いでいたらしい。
「レギーナさん!」
オティーリエの太い腕が、私を横から抱き留めた。針山が転がって、待ち針が床でばらばらと鳴る。
人の腕は、こんなに温かかったろうか。……薄れかけた頭で、私はのんきなことを考えている。
◇
医者の見立ては、実に簡単である。
「お疲れです。二日、寝ておいでなさい。……お嬢様、お約束を一つだけ守っていただけますか? 二日のあいだ、何もなさらないこと」
何もしない、というのが王都でいちばん難しい注文だと、この医者は知らないのである。
◇
一日目の午前は、まだ愉快だった。枕元に本を積み、返事の下書きを進め、執事に取り上げられる。
午後になると、屋敷が静かになった。
私の部屋には、玄関の音がよく届く。扉の開く音、盆を置く音、執事の低い声。それらが遠くで動くのを、寝台の上で聞いている。私だけが、何もしていない。
鐘が鳴る。
半刻を告げる鐘が、一つ。しばらくして、また一つ。
……時間というものは、埋めていないと、こんなに深いものだったろうか。
天井を見ているうちに、寝台の底が、抜けた気がした。
抜けた先にあるのは、暗がりである。よく知っている暗がりだ。三年前の、あの晩の桟敷席。
――幕が上がって、隣の席が空いている。
開演前は、まだ言い訳ができた。道が混んでいるのだろう、と。幕間に玄関まで見に行って、馬車寄せに彼の紋がないと知ったとき、暗がりが上がってきたのである。
あのとき感じたのは、怒りでも悲しみでもない。もっと薄くて、もっと恐ろしいものだった。
――ああ、私は、誰にも要らないのだ。
この世に自分の席が一つもない、という感じ。上等な椅子に座っているのに、その椅子ごと、世界から少しだけ浮いている感じ。あの晩から私は、待つのをやめて立ち上がった。忙しい人の隣に立ち、手を貸し、困りごとを一つ伺って――そうやって三年、私は暗がりの上に、板を渡し続けてきたのである。
板の上を歩いているあいだは、下を見なくて済む。
いま、二日ぶんの何もない時間を渡されて、私はその板の隙間から、下を覗いてしまったらしい。
◇
二日目の夜、玄関のほうが騒がしくなった。
馬車の音ではない。もっと乱れた、革靴が石畳を蹴る音である。
「――お嬢様。公爵閣下がお見えです」
エーバーハルトの声が、珍しく少しだけ上ずっている。
「お約束は、伺っておりません」
「ええ。……あの走り方は、たぶん、報せを聞いていらしたのね」
肩掛けを羽織って、私は玄関へ降りた。医者の言いつけには背くけれど、これだけは、寝たままにできない。
扉は、開け放してあった。
あの方は石段の下に立って、上がってこない。この家の敷居の外に、いつもどおり立ったままである。約束のない来訪は、この方には珍しくない。珍しいのは、二つ。息が上がっていることと、襟が曲がっていること。
所作の正確なこの方の襟が、曲がっている。それだけで、胸のあたりが妙なことになる。
「……走っておいでですの?」
「いえ」
「息が……?」
「……走りました」
あの方は、ひとつ息を整えてから、真面目な顔で仰る。
「二日、何もなさらないこと。書き物をなさらないこと。冷たい床を歩かないこと」
「まあ。……お医者様と、同じことを仰いますのね」
「先ほど、伺って参りましたので」
私は、玄関の椅子に腰を下ろした。
座って待たない女が、椅子に座っている。三年、この椅子を敵だと思ってきたのに、今夜はそこに座って、敷居の外の人と話している。……人は、案外あっさり、自分の掟を破るものらしい。
夜の風が玄関を通り抜ける。もう、秋の匂いが混ざっている。
「レギーナ嬢。……何か、ございましたか」
「体が疲れただけですわ」
「ええ」
「……嘘ですわね。今の」
あの方は、何も言わずに優しい視線をなげかけ、待っている。
この方の沈黙は、急かさない沈黙である。三年、誰にも言わずに済ませてきたことを、静かに引き出してしまう。
「……空いた時間の底に、あの桟敷席がありますの」
言ってしまってから、自分の声が思ったより細いことに気づいた。
「何かしていないと、あの晩の――誰にも要らなくなった気のした自分に、戻ってしまいそうで。ですから、埋めておりましたの。三年、ずっと」
膝の上で、指が肩掛けの端を握っている。
「みなさま、わたくしをよくしてくださいますわ。ありがたいことですの。……ただ、玄関の籠が重くなるほど、わたくし、あの晩から一歩も動いていない気がして」
言葉にすると、思ったより惨めだった。惨めなのに、言ってしまうと、少し軽い。
あの方は、しばらく石段の下で黙っていた。
それから、庭の暗がりのほうを向いたまま、口を開かれたのである。
「……二十一の冬に、父が死にました」
夜の風が、止まる。
「朝、いつもどおり出かけて、夕方に運ばれて参りました」
石段の下の声が、そこで一度、途切れる。
「……それから一年、喪の中におりました。おりましたが、その一年に、悲しんだ記憶が、ほとんどないのです」
「……記憶が」
「弔問の応対と、式次第と、家督の手続きで埋まりました。誰もが等しく、新しい主の時間を欲しがりましたので。……悲しむための時間は、どの日どりにも書かれておりませんでした」
石段の下の背中は、まっすぐである。まっすぐすぎて、痛い。
「そのとき、覚えたのです。時間を等しく、少しずつ配る。どこにも半刻だけ居る。そうすれば、誰も、それ以上を求めません。……誰も、わたしの中身までは、求めません」
半刻公爵、と王都は呼ぶ。
私はその呼び名を、器用な処世だと思っていた。違ったのだ。あれは、二十一の冬に踏み抜いた床へ、この方が渡した板である。
私は、空いた時間を埋めてきた。この方は、空いた時間を配っておられる。やり方は正反対で、そのくせ、理由はたぶん同じもの。――何もない時間に、自分が要らない人間だと知られるのが、怖い。
「閣下」
「はい」
「わたくしたち、たいそう不器用でございますわね」
あの方が、ふ、と笑う気配がした。
笑いながら、こちらを見ない。見ないでいてくださるのが、今夜は、ありがたい。
二人とも、それ以上は言わなかった。傷が同じ形をしているということを、言葉にしてしまうと、たぶん、どちらかが泣く。
◇
あの方が帰られたあと、玄関の広間では、見舞いの品の置き場所をめぐる会議が始まった。
「果物は日の当たらぬところへ。卵は厨房へ」
「エーバーハルト殿、この鉢はいかがいたしましょう? 公爵家より、養生に良いという薬草でございまして」
聞き覚えのない敬語の声がするので覗くと、公爵家の家令とおぼしき年配の方が、鉢を捧げ持って立っている。家令ごと走らせたらしい。
「窓辺へ」
「心得ました。……いや、恐れながら、薬草は朝日がよろしいかと」
「では、朝は窓辺、昼は棚へ」
二人の老人が、鉢ひとつを挟んで礼を交わしている。医者が呆れ顔で「お嬢様、寝ておいでなさい」と私を追い立てた。
寝台に戻って、天井を見る。
同じ天井なのに、午後に見た暗がりが、今は少し遠い。板が一枚、増えた気がする。
――誰かの隣にしか、立てないと思っていた。今夜は、敷居の外に立ってくれた人がいる。
◇
翌朝、玄関の盆の上が、すっかり替わっていた。
招待状の代わりに、干した果物と、蜂蜜の壺と、薬草の束と、揺れない馬車を寄越すという申し出。
「盆が、重うございます」
「あら。招待状より?」
「はい。……お品は、お気持ちより重うございますので」
エーバーハルトの言い方が、今朝はやけに得意げである。
……返事を書かなければ。そう思って起き上がりかけて、私は、また寝かしつけられたのだった。




