16. 受け取る稽古
三日目の朝、うちの玄関は市場になっていた。
いや、市場のほうがまだ整理されている。銀の盆はとうに諦められ、籠も諦められ、いまや玄関の壁際には卓が出ている。その上に、鍋。鍋の隣に、蜂蜜の壺。壺の隣に、干した果物の箱。箱の上に、なぜか毛糸の靴下。
「スープが、四鍋にございます」
執事のエーバーハルトが、実に厳粛な声で報告した。
「四鍋」
「下町の女将さん方が、めいめいに。……鍋の底に、それぞれの家の目印が彫ってございまして、お返しの折には間違えぬようにと」
「間違えたら、どうなりますの?」
「戦になりましょう」
うちの執事は、たまに恐ろしいことを平気な顔で言う。
◇
昼過ぎ、私は寝台の上で、こっそり筆を動かしていた。
書いていたのは、覚え書きである。どなたから何をいただいたか。鍋の目印。壺の数。馬車の申し出。忘れて失礼をするといけないから、控えておかなければ――と、そこまで書いたところで、扉が開いた。
「レギーナさん。それ、何をなさってますの?」
オティーリエである。腕に、やわらかい布の包みを抱えている。
「お返しの覚えですわ」
「お返し」
「ええ。どなたに何をいただいたか、忘れては失礼ですもの」
マダムは無言で近づいてきて、私の手から紙を抜き取ると、それを二つに折って、前掛けの隠しへ入れてしまった。
「まあ。返してくださいまし」
「返しませんよ。……お返しを考えるのは、おやめなさいな」
包みを解くと、出てきたのは部屋着だった。寝ていて肩の凝らない仕立てで、袖口だけが、あの夕暮れの一歩手前の色をしている。
「……袖口が、わたくしの色ですのね」
「そりゃあ、覚えておりますよ」
マダムは、なんでもないことのように言う。
「三年、あなたのお色を知っていたのは、うちだけでしたからね」
喉の奥が、詰まった。三年、私の装いの色は、全部よそのお家の指定である。指定の紙が来なくなって初めて、この人だけが私の色を覚えていてくれたと知る。
「……ありがとう存じます」
「はい、よくできました」
「まあ。子供扱いですこと」
「稽古中ですもの」
マダムは、私の肩に部屋着を掛けながら続けた。
「あなた、人様にはご自分の名に値札を付けさせないくせに、ご自分がいただくと、すぐに値札を付けたがる。……あれはね、値札じゃないんですよ。お裾分けですの。返ってこなくてよろしいと思って出したものに、いちいち覚え書きを作られると、こっちが寂しいんですのよ」
「……寂しい」
「ええ。寂しい」
布の匂いのする腕が、私の背中を、ぽん、と一つ叩いた。
「あなた、受け取るのが下手ねえ」
◇
その言葉が、午後じゅう、胸のあたりで居座っていた。
下手なのは、たぶん本当である。理由も、じつは知っている。
いただくと、借りになる。借りは、返さないと積もる。積もると、いつか、呆れられる。呆れられた人のところへは、誰も来なくなる。……三年かけて、私はそれを学んだつもりでいたのだ。
差し出す側に立っていれば、捨てられない。手を貸す人は、要らないと言われずに済む。
あの作法は、鎧でもあったのである。
二年前の冬、私は三日ほど熱を出した。誰にも言わずに寝て、誰にも言わずに治している。
言わなかった理由を、いま白状しておく。言って、それでも誰も来なかったら――それが答えになってしまうからである。
答えを知らずにいるほうが、まだ、温かかった。
◇
夕方、玄関がまた騒がしくなる。
老王女殿下が、お使いの者と一緒に、医者まで寄越してくださったのである。添えられた文には、一行だけ。
――医者を貸します。返さなくてよろしい。
どうやら殿下は、私が「結構ですわ」と言うことまで見越して、この医者に居座るよう言い含めておいでらしい。玄関で丁重にお断りしようとしたら、医者のほうが先に外套を脱いだ。
……受け取る稽古の一歩目は、たぶん、「ありがとう存じます」を言い訳なしで言うことである。私はそれを、その日のうちに四度も練習する羽目になる。
馬車組合の親方ブルーノは、揺れない馬車を仕立てて寄越した。台の下に革の帯を渡して、石畳の継ぎ目を吸わせる細工だという。御者が胸を張って言った。
「組合の総意でごぜえます」
……三年前の雨の夜、この人たちの礼金を、私は断ったのである。同じ台詞で、今度は断れないものを寄越してきた。
勝てない。この人たちには、どうやっても勝てない。
目の奥が熱くなって、私はそれを、あくびのふりで誤魔化す。
◇
快復の日の夕方、いつもの辻に、いつもの背中があった。
この三日ほど、あの方は毎夕この玄関まで来ては、一度も上がってこない。執事と、いつの間にか妙な連携ができている。日暮れ前になると、エーバーハルトが玄関の外に椅子を一脚出しておくのである。暗くなる頃には、黙って仕舞う。二人のあいだで、その件について言葉が交わされたことは、たぶん一度もない。
「お加減は?」
「お陰様で。……閣下、今日は、何もしない散歩にいたしません?」
あの方が、少し目を見開いた。
「何もしない散歩、とは?」
「門から、辻のベンチまで参りますの。座って、雲を見て、帰りますわ。それだけですの」
「……それは」
「散歩の、いちばん上等なものですわ」
秋の入りの空は、夏より高い。ベンチの木は、日暮れの分だけ温くて、背中に当たる部分だけが、じんわりと温かかった。
雲が、東から西へ、ゆっくり流れていく。
私は数えていない。鐘も数えない。四半刻か、半刻か、それとももっと短かったのか、いまだにわからないのである。何も測らずに座っているのは、生まれて初めてかもしれない。
測りもしない時間は、最初、少し怖い。底が抜ける気がするからである。ところが今日は、抜けなかった。隣に、何ひとつ求めない人が座っているというだけで、板は、こんなにも丈夫になるらしい。
「レギーナ嬢」
「はい」
「……いま、わたしのほうが、教わっております」
「あら。何をでございますの?」
「休み方を」
風が、ベンチの下の落ち葉を、かさりと動かした。
私は空を見上げたまま、口の端だけで笑う。三年、私は自分の空いた時間の使い方を、誰にも教われなかった。教わらないまま、いま、誰かに教えている。
……人生というものは、たまに、ひどく気の利いた仕返しをしてくれるらしい。
◇
屋敷に戻ると、父の書斎に灯りが点いていた。
聞き慣れない声がする。使用人でも、いつもの商いの相手でもない。低く、早口で、そして、妙に急いている声である。
扉の隙間から、切れ端だけが漏れてきた。
――蔵が薄い、という話が、市場に。




