17. 向こう様が開けるもの
翌朝の食堂で、父は新聞を広げなかった。
三年見てきたが、この人が朝に新聞を広げないのは、あまりよろしくない印である。
「お父様。ゆうべのお客様は?」
「……気にせんでよい」
「ヴァルトハイムの蔵が薄い、と伺いましたけれど。……まことですの?」
父の匙が、皿の上で止まった。
「聞いておったか?」
「扉が薄うございましたの」
父は少し笑おうとして、失敗した。
噂の中身は、単純である。曰く、ヴァルトハイム伯爵家の金庫は、預かった金を貸しに回しすぎている。曰く、いま皆が引き出せば、蔵は空になる。――誰が言い出したかは、父にも見当が付いているらしい。同じ商いの、別の玄関である。
「今日じゅうに、預けの引き出しが増えれば、明日には列ができる。列ができれば、噂が本当になる」
「……本当でございますの?」
「馬鹿を言え。蔵は詰まっておる」
父は、そこだけは、きっぱりと言った。商いの人が「詰まっておる」と言うときの声には、嘘の余地がない。
それから、この人は、生まれて初めてのことをした。
――娘に、頭を下げたのである。
「レギーナ。今こそ、お前の人望を貸してくれ」
食堂の空気が、ひやりと重くなる。
「お前が一言、方々に言って回ればよい。うちの蔵は大丈夫です、と。……お前の言葉なら、皆、信じる。半日で噂は止まる」
私は、膝の上で手を組んだ。
組んだ手が、少し冷たい。
断ることが、これほど難しいとは思わなかった。他人の善意を断るのも難しかったけれど、父の弱みを断るのは、それとは比べものにならない。この人は見栄っ張りで、不器用で、三年前に私を約定の紙に載せた人で――それでも、私の父である。
「お父様。それは、できませんの」
「レギーナ」
「わたくしが方々を回れば、その日から、わたくしは財布になりますのよ」
声が震えないように、私はゆっくり喋った。
「皆さまが玄関を開けてくださるのは、わたくしが何も売っていないからですわ。売り物を持って歩き始めた日から、あの玄関は、商いの玄関になりますの。……それは、いま預けてくださっている皆さまへの裏切りですわ」
父の顔が、赤くなり、それから、白くなった。
「……娘に、商いの筋を説かれるとはな」
「わたくしは、玄関の筋を申し上げておりますの」
父は席を立って、書斎へ行ってしまった。
残された食堂で、私は冷めた茶を一口飲む。……喉が、うまく動かない。三年、私はどんな夜会でも壁際に立っていられる女である。その三年より、今朝の朝食のほうが、よほど長かった。
◇
父が動いたのは、その日の午前である。
王都両替商組合の検査役に、自分から検査を願い出たのである。蔵の中身も、預かりの書き付けも、身内でない目に洗いざらい見せることを選んだのだ。
「明日の夕までに、組合の告示が出る」
夜、書斎の扉ごしに、父はそれだけ言った。
「それまでに列ができれば、告示は間に合わん。……できたら、終わりだ」
私は、その晩ほとんど眠っていない。
何かできることがあるはずだ、と何度も思った。思うたびに、朝の自分の言葉が引き止める。売り物を持って歩き始めた日から、あの玄関は商いの玄関になりますの。
……ええ。わかっている。わかっているから、眠れないのである。
◇
翌朝の玄関を開けたのは、エーバーハルトだった。
開けて、そのまま、しばらく動かなかったらしい。私が階段を降りると、老執事は妙な顔で振り返った。
「お嬢様。……人が、参っております」
「列?」
「いいえ。逆でございます」
窓から見ると、うちの前の通りに、荷馬車が停まっていた。
乾物問屋の主が、いつもどおりの刻限に、いつもどおりの額を預けに来ている。その後ろに、織り元の番頭。灯り屋の主は、月々の払いを前倒しで持ってきたと言う。誰も、噂の話をしない。誰も、私の顔を見ようとしない。
見られたら、たぶん、こちらが泣くと知っているのである。
――私は、誰にも頼んでいない。
一言も、一通も、出していない。この人たちは、勝手に来た。勝手に来て、いつもの用事だけ済ませて、いつもの挨拶をして帰っていく。
玄関の柱に手をついて、私は少しのあいだ、立っているのがやっとだった。
昼過ぎには、老王女殿下の茶会からの伝聞が、王都を回り始める。殿下が扇の陰で、こう仰ったそうである。
――わたくしの預けは、そのままよ。
それだけ。それだけで、扇の内の風向きが変わる。あの方の一言の重さを、私は改めて知る。
そしてその日の夕方、組合の告示が出た。ヴァルトハイム伯爵家の支払い能力に、不足なし。
噂は、その日のうちにしぼんだ。潰したのは、検査役と告示である。人望は、告示が出るまでの一晩、列を作らせなかっただけだ。……それだけのことが、どれほど有難いかを、私は玄関の内側で知ることになった。
◇
三年前の春の玄関を、私は思い出す。
ローテンブルク侯爵家の使いが、借財の申し込みに来た日である。私は階段の上から、父の背中を見ていた。父はその日、玄関で二度、頭を下げている。一度目は挨拶で、二度目は――たぶん、詫びだったのだと思う。誰に対する詫びなのか、当時の私にはわからなかった。
◇
その夜、父が、書斎から受付簿を持って降りてくる。
あの、玄関の盆の脇に置かれていた帳面である。誰の紹介で来た招待かを記させるための、あの企ての名残り。
父は、それを竈にくべた。
火が紙の端を舐めて、字が縮んで、消えていく。父はしゃがんだまま、しばらく火を見ていた。
「財布は、自分で開けるものだ」
ぽつり、と言う。
「人望は――向こう様が、開けるものか……?」
「……はい」
「わしは、三十年、商いをやってきてな」
火の粉が一つ、跳ねる。
「三年前、お前を紙に載せたのも、わしなりの算段だった。……あれは、算段ではなかったのかもしれん」
私は、何も言わなかった。
言葉が見つからなかったのではない。この人が自分で言い終えるまで、待つべきだと思ったのである。……三年、私は待つのが上手になった。こういうときにも、少しは役に立つらしい。
◇
夕方の辻で、私は今度の顛末を話した。
あの方は最後まで黙って聞いて、それから、短くこう仰る。
「……お見事でした」
「わたくし、何もしておりませんわ」
「ええ。何もなさらなかったことが、です」
風が冷たい。秋が、少し深くなっている。
「閣下。……正直に申し上げますと、ゆうべ、閣下のお名前が頭をよぎりましたの」
言ってしまってから、頬が熱くなった。公爵家が一言、うちの蔵は健全だと言えば、噂など一晩で消える。そういう家名だと、私は知っている。
「わたしも、考えました」
あの方は、前を向いたまま続ける。
「今朝、こちらの耳にも入りましたので。……ですが、わたしが動けば、あなたの三年が、わたしの手柄になってしまう」
――手柄。
その言葉に、私は足を止めた。
この方は、私の三年を、誰の手柄にもさせないつもりなのである。父の手柄にも、公爵家の手柄にも。あの三年は、玄関に立ち続けた私だけのものだ、と。
……三年、誰も数えてくれなかったものを、この人だけが、数えている。
「閣下」
「はい」
「わたくし、少し、泣いてもよろしゅうございます?」
「どうぞ」
あの方は、律儀に半歩、前へ出た。
通りから私を隠すためだと気づいたのは、涙が引いたあとである。
◇
同じ頃、宮廷の一室では、書付の返答の期限が切られようとしていた。曰く、レーヴェンシュタイン公爵はお若い。曰く、公爵家の跡目は国の事でもある。曰く、お家柄のよろしい令嬢がたを、いつまでもお待たせするわけには参りますまい。――期限は、月が変わるまで。書付を回した侍従は、控えの間を出るときに小さく呟いたという。あの半刻公爵が、初めて期限を渡された、と。




