18. 迎えに行く女
その日、いつもの角に、いつもの背中がなかった。
秋の夕方は、日の落ちるのが早い。石畳の色が、灰から青へ変わっていく。私は角の手前で足を止めて、それから、何食わぬ顔で歩き出した。
通りを一周する。花屋の前で、鉢の向きを直す。書店の主と天気の話をする。……角へ戻る。背中は、まだない。
鐘が鳴った。半刻である。
その音を聞いた瞬間、体が、勝手に昔の形になった。
踵に体重を置かない。視線は通りの流れに乗せておく。口の端はほんの少しだけ上げて、待たされている女ではなく、涼んでいる女に見せる。……三年で覚えた技術というものは、二度と忘れない。忘れないどころか、こういうときにだけ、勝手に出てくるのである。
胃のあたりが、冷たくなってきた。
三年前と同じ冷たさだ。同じ姿勢、同じ角度の首、同じ笑い方。私はまた、あの壁際に立っている。
――今日は、来ない。
その考えが胸に落ちた瞬間、指の先まで、すっと血の気が引いた。
私は、この感覚を知っている。知りすぎている。ここから先の道筋まで知っている。あと四半刻待って、それからもう四半刻待って、暗くなったら、平気な顔で帰るのだ。帰って、鏡の前で髪を解きながら、こう思う。――ほら。やっぱり、私は後回しなのだ。
……いいえ。
私は、深く息を吸った。
三年前の「来ない」と、今日の「来ない」は、違う。あの人は約束をしない人である。約束をしない代わりに、破棄の翌日から今日まで、あの辻に立たなかった夕方が一度もない。
つまり、これは私を後回しにしたのではない。
――何か、あったのだ。
◇
角に立ったまま、私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「待つなら、座って待ちませんの」
それが、十九の私が決めた掟である。
そして、二十二の私は、その先を付け足した。
「……今日は、立ってもいませんわ」
◇
レーヴェンシュタイン公爵家の門は、思ったよりも静かだった。
馬車も使わず、供も連れず、自分の足で来てしまったのである。招待状も、先触れも、用件もない。玄関を叩く理由が何ひとつない状態で人の家を訪ねるのは、生まれて初めてである。
心臓が、みっともないほど鳴っている。
門番に名を告げると、しばらくして、老紳士が転がるように出てきた。白髪をきちんと撫でつけた、家令らしき方である。
「お、お、お嬢様。……レギーナ・ヴァルトハイム様で、いらっしゃいますか?」
「突然に、申し訳ございません。あの――」
「ヴェルナーと申します! 当家の家令にございます!」
妙に力が入っている。
「本日は、どのようなご用向きで?」
「その、閣下が、夕方の辻にいらっしゃいませんでしたので」
ヴェルナー氏の目が、みるみる潤み始めた。
……何か、いけないことを申し上げただろうか。
「三年」
「は?」
「三年でございます。主は三年、玄関のお話ばかりなさいます」
「え」
「傘のお色まで存じております。三年前は濃い鳶色、去年から藍でいらっしゃると。靴の踵は三度替わったと。雨の日は会釈が少しだけ深くなる、と――」
……傘の色。靴の踵。雨の日の会釈。
この三年、誰にも数えられていないと思っていたものが、よその家の家令の口から、すらすらと出てくる。私は、返す言葉を持たない。
廊下の奥で、扉が乱暴に開く音がした。
「ヴェルナー」
「――は、はい。ただいま」
声の主は、ずいぶん急いで来たらしい。それでいて、玄関に現れたときには、いつもの正確な足取りに戻っている。
……この方のこういうところが、私は、たぶん、ずるいと思っている。
◇
庭へ回らせていただいた。
秋の庭は、金雀枝の葉が色を落として、生垣の刈り込みだけが妙に几帳面である。その隅の、東屋の柱に、あの方は寄りかかるように立っていた。
いつもの正確さが、少し崩れている。外套の前が開いたままで、手には何も持っていない。
三年、この方はいつも、玄関か、辻か、道端に立っていた。ご自分の屋敷の庭にいる姿を見るのは、初めてである。敷居の人が敷居の内側にいると、なぜだか、少しだけ小さく見えるものらしい。
「……お見苦しいところを」
「散歩の時間ですわ」
私は、できるだけ何でもないことのように言った。
「閣下。参りましょう」
「いえ、しかし、今日は」
「存じておりますの。宮廷から、お返事の期限が来ておりますのでしょう?」
あの方の肩が、わずかに動く。
「殿下から伺いました。……閣下、わたくし、内容は伺っておりません。伺うつもりもございませんの」
私は、生垣の切れ目のほうへ、一歩下がった。
「ただ、夕方ですから。……歩きませんこと? お疲れなら、また今度で結構ですわ」
言ってから、自分の台詞に気づいて、少し可笑しくなった。
断る自由を先に差し出してから誘う。……三年、この方がずっと私にしてきたやり方である。私はどうやら、この人の作法を盗んでいたらしい。
あの方は、しばらく黙っていた。
それから、外套の前を直して、いつもの半歩遅い歩幅で、私の隣に来る。
◇
公爵家の門を出て、二人で秋の道を歩く。
行き先はない。用件もない。西の空が、燃え尽きる直前の色をしている。
あの方は、しばらく何も仰らない。私も、何も聞かない。
三年、私は他人の困りごとを一つだけ伺う女だった。今日は、それをしない。この方は、私に伺われたい人ではないのである。この方が欲しいのは、たぶん、誰にも配らずに済む時間のほうだ。
だから私は、隣を歩くだけにする。
道が橋に差しかかったあたりで、小さな声がする。
「……助かりました」
風が、川の匂いを運んでくる。
「あら。何もしておりませんわ」
「ええ。何もなさらないことが、いちばん助かります」
「……閣下。いつぞや、どなたかに教わった台詞ではございませんこと?」
「さあ。どなたでしょう?」
この方が、私の台詞をそのまま返してきた。
……仕返しである。それも、たいそう上等な仕返しだ。
◇
その晩、私は寝台の中で、今日一日を思い返していた。
待ちぼうけの夜の癖を、私はいくつも持っている。踵に体重を置かない立ち方。忙しい人を探す目。壁際で涼んでいるふりをする笑い方。数えないふりをして、鐘を数える耳。
今日、私はそのどれも、最後まで使っていない。
……三年ぶんの技術が、一つも要らない夕方だった。こんなに嬉しい無駄遣いは、生まれて初めてである。
◇
同じ夜、宮廷の控えの間では、侍従たちが小さく囁き合っていた。曰く、レーヴェンシュタイン公爵家からの返答が、まだ来ない。曰く、期限は明日。曰く、あの半刻公爵が、初めて何かを引き延ばしておられる。曰く――このごろ、夕方になると必ず、どなたかとお歩きだとか。誰かが灯りを消しながら言った。明日、王都でいちばん忙しくなるのは、扇を持った奥方がたでしょうな、と。




