19. 名前を出さない男
返答は、翌日の昼過ぎに宮廷へ届いた。
紙は一枚。文言は、拍子抜けするほど短かったという。
――縁談は、受けません。
それだけである。理由はない。誰かがいるとも、いないとも書いていない。宮廷は「ご事情は」と食い下がり、公爵家は「ございません」と答え、それきりだった。
噂は、その日の夕方には王都を一周する。
曰く、半刻公爵が、宮廷の書付をまるごと袖にした。曰く、名の挙がっていた令嬢がたの顔が立たない。曰く、いや、あの方は昔からああいう人だ。曰く、しかし理由くらい言えばよいものを――。
扇の内は、大忙しである。
扇の内では、当然のように私の名も取り沙汰されたらしい。夕暮れの辻の噂は、園遊会の頃からのものである。
……ただ、宮廷へ渡った紙の上には、私の名は一字もない。
噂は好きに回る。けれど、噂に日どりは決められないのである。
◇
うちの玄関にも、噂は届く。
「お嬢様。……本日は、お茶のお誘いが、いつもより多うございます」
「あら。なぜかしら?」
「みなさま、扇の内のお話を、お嬢様から伺いたいのだと存じます」
「まあ。……エーバーハルト。今日は、留守ということにしてくださいません?」
「かしこまりました。お嬢様は、雲を見にお出かけでございます」
うちの執事は、嘘のつき方まで、この頃どこかで習ってきたらしい。
◇
老王女殿下の茶会に招かれたのは、その二日後である。
殿下は上機嫌で、私に茶を注がせながら、こんな話をなさった。
「王妃陛下にお目にかかりましてね」
「まあ」
「陛下は、たいそう不服そうでいらしたわ。せっかく調えた縁談を、理由も言わずに断られたのですもの」
「……それで、殿下は何と?」
「あの子の相手は、日どりでは決まりませんの、と」
殿下は、扇の陰で実に楽しそうである。
「陛下はしばらく黙っておいででしたけれど、最後にお笑いになって、こう仰いましたわ。『では、あちらが日どりをお決めになるまで、待つといたしましょう』と」
私は茶器を持つ手を止めた。
「殿下。……その『あちら』とは?」
「さあ。どちらでしょうねえ?」
この方は、いつもここで話を切る。切って、扇を開いて、こちらの顔をじっくり眺めるのである。……七十年ぶんの意地悪は、逃げ場というものを残してくれない。
「殿下。……お人が悪うございますこと」
「ええ。七十年、これで参りましたの」
殿下は茶を一口飲んで、それから、扇を閉じた。
「レギーナさん。ひとつだけ、覚えておきなさいな。人の日どりを決めたがる者は、たいてい、その人の中身に用がないの。……中身に用のある人はね、待ちましてよ」
私は、しばらく返事ができない。
◇
夕方の辻に、あの方は、いつもどおり立っていた。
噂の主とは思えない静けさである。手には何も持たず、いつもの半歩遅い歩幅で、私の隣を歩き出す。
しばらくして、私のほうから切り出した。
「宮廷へのお返事、伺いましたわ」
「ええ」
「理由を、お書きになりませんでしたのね」
「書けば、そこに名が要ります」
あの方は、前を向いたまま仰った。
「名を書けば、宮廷の日どりに、その方の名が載ります。噂は消えても、紙は残る。……紙に載れば、その方の時間は、その方のものでなくなる」
私は、足元の落ち葉を見ていた。
見ていないと、顔が保たなかったからである。落ち葉を踏む音が、二人ぶん。歩幅が違うのに、なぜか拍だけが合っている。
三年、私は名札で呼ばれてきた。ローテンブルク侯爵家の婚約者。誰かの予定表に載っている女。載っているのに、誰も私自身には用がない――あの寒さを、この方はどこかで知っている。
だから、書かなかったのだ。
私を守るために、宮廷へ渡る紙には、私の名を一字も書かずにおいたのである。
……名前を出さないことが、これほど大事にされることだとは、知らなかった。
「閣下」
「はい」
「わたくし、ずいぶん遅れて、お礼を申し上げますわ」
「何のお礼でしょう?」
「宮廷の紙に、わたくしの名を書いてくださらなかったお礼ですの」
あの方の歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。
◇
その乱れを取り繕うように、あの方は、妙な白状を始める。
「……傘の色が、三年で二度替わりました」
「え」
「濃い鳶色から、藍へ。去年の冬からです。靴は三度。二度目のものが、いちばんお歩きになりやすそうでした」
「……閣下」
「雨の日は、会釈が少しだけ深くなります。あれは、たぶん、傘の柄を持ち替えていらっしゃるからで」
私は、何と言えばよいのかわからない。
「それから、あなたは玄関を、いつもいちばん最後にお出になる。人の流れが済むまで、壁のそばで待っておいでになるので」
私は、立ち止まる。
あの方も立ち止まって、それから、明後日のほうを向いて咳払いをした。長い咳払いである。人が咳払いでここまで時間を稼げるとは、知らなかった。
「……覚えすぎている、と、自分でも思います」
――先日、ご家令から伺いました、と申し上げるべきだろうか。
……申し上げない。同じ話でも、ご本人の口から出たもののほうが、ずっと値打ちがあるのである。
夕暮れの風が、二人のあいだを通り抜けていく。
私は、三年を数えられたことがない。玄関で待った一刻も、回廊で忘れられた半日も、雨の御者だまりの四半刻も、全部、私の中だけで積もって、誰にも見えない山になっているのだ、と。
……見ていた人が、いた。
三年、玄関の外に立って、傘の色が変わったことに気づいていた人が。
胸の奥のいちばん深いところが、静かに、じん、と鳴った。名前の付いていないその音を、私は今日も、名前の付かないまま持ち帰ることにする。
「閣下。……そのお話、もう少し伺ってもよろしゅうございます?」
「……勘弁していただけませんか?」
「まあ。ここまで仰って?」
「ここまで申し上げたので、勘弁していただきたいのです」
あの方は、耳の先を赤くして、少し早足になった。
半歩遅い歩幅の人が、初めて半歩、先に出たのである。
その背中を、私は追いかけない。追いかけずに、少しだけ間を置いて歩き出す。……追いつきたい、と思ってしまったことは、今日のところ、胸の内側にしまっておく。
◇
屋敷の玄関で、エーバーハルトが一通を差し出した。
「お嬢様。……ローテンブルク侯爵家から」
「奥様かしら?」
「いいえ。ご嫡男様――ヘリベルト様ご本人の、お手蹟にございます」
封蝋の紋は、見慣れたものである。三年、この紋を待って、私はずいぶんたくさんの夕方を壁際で過ごした。
いま、その紋を見ても、胸は騒がない。ただ、少しだけ――ほんの少しだけ、まだ、痛い。
封を切る前に、私は一度、蝋の紋を指でなぞった。三年ぶんの重さが、指の腹に残っている。……この重さの正体を、たぶん明日、私は知ることになる。




