20. 三年は、長うございますのよ
手紙の中身は、驚くほど短かった。
時候の挨拶が二行。お目にかかりたい、が一行。詫びたいことがある、が一行。それだけである。あの人の言葉は、いつも短い。短いのに、待つ側の時間だけは、いつも長かった。
◇
「お通ししてよろしゅうございますか?」
当日、エーバーハルトが、いつもより硬い声で伺いを立てる。
「ええ。……お茶は、いちばん普通のもので」
「かしこまりました」
いちばん良い茶を出せば、こちらが構えたことになる。いちばん粗末な茶を出せば、意趣返しになる。……普通の茶というのは、案外、いちばん難しいのである。
◇
破棄の夜会以来のヘリベルト・ローテンブルクは、少し痩せている。
記憶の中のこの人は、いつも扉のほうを見ている。次の予定があって、次の相手がいて、目の前の私は「そのあと」だった。
今日は、まっすぐこちらを見ている。それだけのことが、妙に落ち着かない。
「……久しいな」
「ご無沙汰しております」
「元気そうだ。……いや、それは、聞くまでもなかったな。王都中が君の話をしている」
「大袈裟ですわ。玄関が少々賑やかなだけですの」
茶が置かれ、湯気が上がって、消えた。
この人は、その湯気が消えるまで、何も言わない。三年、私を待たせ続けた人が、いま、自分の言葉を探すのに手間取っている。……待つのは、こちらのほうが上手である。私は黙って、待つことにした。
やがて、ヘリベルトは膝の上で手を組んだ。
「三年、君の時間を、何とも思っていなかった」
――。
「僕は、この婚約を買われたものだと思っていた。金で結ばれた縁に心を込めるのは嘘だ、と。……だから、正直でいるつもりで、君を後回しにした」
「ええ」
「妻に言われたよ。あなたが後回しにしたものの大きさを、あなただけが知らない、と」
湯気の消えた茶碗を、私は見ていた。
胸の底から、三年ぶんの言葉が、いっせいに喉元まで上がってくる。
――一刻。二刻。回廊の半日。雨の御者だまり。空いた隣の席。「君は後回しでいい」。数えないと決めて、それでも体が覚えている時間の目盛りが、一つずつ、いや、次から次へと、目の裏を流れていく。
言ってやりたいことなら、いくらでもあった。
あの夜会の壁際で考えた台詞。眠れない晩に組み立てた反論。長いこと磨いてきた、切れ味のいい一言。それを今、この人の目の前で全部口に出すこともできる。口に出せば、たぶん、この人は泣くだろう。
……そして、それだけである。
この人を泣かせても、私の十九は戻らない。二十も、二十一も戻らない。三年ぶんの言葉を投げつけたところで、返ってくるのは、その言葉が空を切る音だけなのだ。
――憎むには、この人は、あまりに小さい。
そう気づいたとき、胸の奥が、すう、と静かになった。怒りではない。哀れみでもない。……ただ、三年ぶん、私はこの人より遠くまで来てしまったのだ、という手応えだけがある。
私は茶碗を置いて、背筋を伸ばした。
「お陰様で、待ち時間の使い方を覚えましたの」
ヘリベルトが顔を上げる。
「壁際に立つ作法も、忙しい方の隣に立つ呼吸も、全部あの三年で覚えましたわ。……ですから、お詫びには及びませんの」
「レギーナ嬢、僕は」
「ただ」
一言だけ、と自分に約束して、私は言った。
「十九から二十二の三年は、女には長うございますのよ」
部屋の音が、なくなった。
「あなたのお時間では、ただの三年でございましょう? わたくしのほうでは、同じ長さのはずですのに……ずいぶん、目方が違いますの」
膝の上で、指がわずかに震えている。震えたまま、私は続けた。
「それだけは、覚えてお帰りなさいませ。お詫びは、要りませんわ。覚えていてくださるだけで、結構ですの」
ヘリベルトは、しばらく動かない。
それから、深く、たいそう深く頭を下げた。この人がこんなふうに頭を下げるのを、私は見たことがない。
「……はい」
その一言が、この人にできる精一杯だとわかる。だから私は、それ以上は何も足さなかった。
◇
玄関で、ヘリベルトは一度だけ振り返る。
何か言いかけて、口を開いて――そして、閉じた。
言う資格がないと、自分で気づいたらしい。三年前のこの人なら、たぶん気づかなかった。人は、少しずつ大人になる。遅れて大人になった人の背中は、ずいぶん薄く見えるものである。
馬車が去り、蹄の音が遠くなり、玄関の扉が閉まる。
◇
私は、玄関の敷石の上に立ったまま、しばらく動かなかった。
泣きたいのではない。すっとしたのでもない。
……体の中の、ずっと「待っていた場所」が、空っぽになったのである。
三年、あそこは、いつも誰かの馬車の音を待つ場所だった。音は永遠に来なくて、来ないまま場所だけが空いている。私はその空きを、見ないようにして生きてきた。いま、その場所に扉が付いて、静かに閉まる音がしたのである。
閉まると、案外、寒い。
寂しいのではないと思う。ただ、長いこと持っていた重い荷物を、急に取り上げられた腕みたいに――行き場のない力が、指先に残っているのである。
「お嬢様。お風邪を召します」
エーバーハルトが、肩掛けを持って出てきた。
「……ええ」
「本日のお茶は、ちょうどよい按配でございましたでしょう」
「そうですね」
「はい。普通でございました」
その一言で、私は少しだけ笑う。うちの執事は、玄関の重い空気の畳み方を、心得すぎている。
◇
夕方、いつもの辻に、いつもの背中があった。
晩秋の空は、日が落ちるとすぐに藍になる。橋の上まで来ると、川面に月が映って、水の動くたびに割れては、また戻る。
私は、今日あったことを短く話した。詫びのことも、自分が投げつけなかった言葉のことも。
あの方は、いつものように黙って聞いている。
「……ひとつだけ、投げてしまいましたの」
「三年は長い、と」
「ええ。……はしたなかったかしら?」
「いいえ」
あの方は、川のほうを見たまま、静かに言った。
「三年を、ご自分で数えられたのですね」
その言い方に、私はまた、危うく泣きそうになる。
数えないようにしてきた三年を、今日、私は初めて自分の口で数えた。数えて、置いてきたのである。それを、この人だけが正確に見ている。
橋の欄干に、あの方の手が置かれる。指が一度、木を軽く叩いた。
「レギーナ嬢」
「はい」
「わたしは――」
言葉が、そこで止まった。
風が、川の匂いを運んでくる。あの方の横顔は、いつもの正確さのまま、なのに、どこかが痛そうである。
私は、待たなかった。待つ女は、もうやめると決めたわけではないけれど――今日は、待ちたくなかったのである。
「閣下。……お急ぎになりませんでも」
あの方は、少しのあいだ黙って、それから、ふ、と息を吐いた。吐いた息が、白い。
「……いえ。今日は、月がよく見えます」
「ええ。よく見えますわね」
言いかけて止まった言葉が何であったか、わからない――と書けば、嘘になる。
わかっている。わかっていて、私にはまだ、それを受け止める言葉がないのである。この方が三年かけて作った規則の、いちばん硬いところに、その言葉は引っかかっている。それを外す道具を、私はまだ持っていない。
だから今夜は、二人で月を見た。割れては戻る、川の上の月を。
◇
その晩、レーヴェンシュタイン公爵家の家令は、主の帰宅からの半刻を、たいそう注意深く観測していた。曰く、外套をお預かりする際、ため息が一つ。曰く、書斎へ向かわれる途中の廊下で、二つ目。曰く、窓辺の白い花の水を替えながら、三つ目。家令は台所へ下がって、こう言ったという。――旦那様は、ご自分でお決めになるまで、あと幾つため息をつかれるのでしょうな。
◇
冬の触れが回り始めたのは、その数日後である。
王家の大夜会。年が改まる晩の、王都でいちばん大きな灯り。臣下として招かれることが、そのまま名誉になる場所である。
噂によれば、今年の主賓格として、いくつかの名が挙がっているという。
……その中に、私の名前があるらしい。




