21. 即答できませんの
冬の入りの朝、玄関の盆に、王家の紋が載った。
封蝋の赤が、冬の光の下では、ずいぶん濃く見える。執事のエーバーハルトが捧げ持つ手つきは、園遊会の招待状のときよりさらに恭しい。白手袋が、心なしか震えている。
「王妃陛下の、直筆の添え書きがございます」
「……そう」
王家の大夜会。年が改まる晩に開かれる、王都でいちばん大きな灯りである。臣下として招かれること自体が名誉で、その中でも主賓格の卓に呼ばれるとなれば、社交界の頂上に椅子を一つ用意されたようなものだ。
三年前の私が見たら、腰を抜かしたに違いない。
封を切って、目を通して、私はそれを盆の上に戻した。
……戻したのである。
返事を書かなかった。書けなかった、と言うほうが正しい。
「お嬢様。……お返事は?」
「ええ。……あとで」
言ってから、自分でも驚いた。
私は、招待を断ったことが一度もない。断らないから、受けるか、保留するかの二つしかない。そして、これほど断る理由のない招待を、私は生まれて初めて、保留の小机の上に置いたのである。
◇
父は、朝食の卓で新聞を取り落としそうになった。
「大夜会だと? 主賓格の卓に?」
「まだ、決めておりませんの」
「決める、とはなんだ? 受けるに決まっておろう」
「……ええ。そうですわね」
自分の口から出た返事の、頼りないこと。
父は、それ以上は言わなかった。この頃の父は、娘の玄関に口を出さないと決めているらしい。竈にくべた受付簿の灰が、まだこの人の中で温かいのだと思う。
◇
その日の午後、私は仕立て屋オティーリエの工房へ向かった。
冬の新作の試着に呼ばれていたのである。扉を開けた瞬間、工房中の視線が一斉に集まって、それから、歓声が上がった。
「聞きましたよ、大夜会ですって!」
「まあ、お耳が早いこと」
「王都中が知っておりますよ。……で、お色は? やっぱり深い色がよろしいわ。あの広間は灯りが強うございますからね」
マダムは私の返事を待たずに、布地の巻きを次から次へと卓に広げていく。針子たちが手を止めて集まってくる。誰も彼も、私が大夜会へ行くことを、すでに決まった予定として喋っている。
……ええ。そうですわね。行くのでしょうね、私は。
姿見の前に立って、深い青の布を肩に当てられながら、私は自分の顔を見ていた。
嬉しくないわけではない。三年前の私が、喉から手が出るほど欲しかったものが、いま、玄関の盆に載っている。夜会の招待。それも、いちばん大きな灯りの。
なのに、胸のどこかが、ひやりとしている。
「レギーナさん」
マダムが、鏡越しにこちらを見た。
「お顔が、ちっとも大夜会じゃございませんよ」
◇
三年前の冬を、思い出す。
社交季の真ん中、王都のあちこちで灯りが点いていた冬である。私の玄関には、一通も来なかった。婚約者のある令嬢を招くのは不作法、という慣行の陰で、私の週末だけが、きれいに空いていたのである。
あの頃、私は窓辺に座って、街のほうを見ていた。
どこかの家の窓が、遠くで金色に光っている。楽の音は届かない。届かないから、想像するしかない。あの光の中では、みんなが誰かに名前を呼ばれているのだろう、と。
――一度でいい。あの光の中に、私の椅子があったらいい。
そう思って、思ったことを恥じて、窓の掛け布を閉めた冬である。
……いま、その光のいちばん真ん中の椅子を、差し出されている。
差し出されて、私は返事ができずにいる。三年前の私に申し訳が立たない。申し訳が立たないと思いながら、それでも手が動かないのである。
◇
夕方の辻には、いつもの背中があった。
冬の入りの空気は、吸うと鼻の奥が少し痛い。吐く息が白くなって、二人ぶん、前へ流れて消えていく。道端の水たまりに、薄い氷が張っていた。
「大夜会の招待状が、参りましたの」
言ってから、あの方の横顔を見る。
――止まった。
止まったのは足ではない。表情のほうである。いつも通りに見えるのに、どこかが、ぴたりと動かなくなった。
「……それは。おめでとうございます」
「ありがとう存じます。……閣下は、お出になりますの?」
半歩ぶんの間があった。
「わたしは……公務です」
その言い方を、私は知っている。
三年、玄関で数え切れないほど聞いてきた言い方だ。ただし、これまで聞いてきたのは、待たせる側が使う便利な言葉としてである。この方の口から出ると、なぜか、まるで違う音がする。
嘘だ、と思う。
思った自分に、少し驚いた。この方は嘘をつかない人である。傘の色まで覚えていて、そのくせ通りがかりを装うのが精一杯の、あの下手な方が。
その方が、いま、私に嘘をついた。
……「通りがかりです」の類ではない。あれは、二人とも嘘だと承知している合図のようなものだった。今日のは、違う。私に本当だと思わせるための嘘である。
……胸が痛むのは、嘘をつかれたからではない。この方に、嘘を必要とさせる何かがある、ということのほうである。
「そうですのね」
私は、それ以上聞かなかった。
三年、私は他人の困りごとを一つだけ伺う女である。伺うのは、相手が言える形になってからである。まだ形になっていないものを、こちらの都合で引き出すのは、作法ではない。
凍った水たまりを、二人で避けて歩いた。
「……氷が張りますのね。もう」
「ええ。……年が、改まりますので」
年が改まる。その言葉のあとに、あの方はもう何も言わなかった。
◇
その晩、公爵家から、届け物の使いが来る。
養生の折に借りたままだった薬草の鉢を、寒さの前に引き取りたいという申し出である。使いに立ったのは、家令のヴェルナー氏だった。
「わざわざ、家令様が?」
「いえ、いえ。ついでにございます。……お嬢様、お加減はいかがで?」
「お陰様で。すっかり」
ヴェルナー氏は、鉢を抱えたまま、なぜかその場を動かない。
動かないまま、玄関の灯りをちらりと見て、それから、私の顔を見て、また灯りを見た。……何か言いたいことがある人の、いちばんわかりやすい形である。
「あの、お嬢様」
「はい」
「差し出がましいことを申し上げます。……あの、殿下は、毎年、あの日は――」
門のほうで、馬の嘶きが聞こえた。
ヴェルナー氏の背筋が、ぴんと伸びる。
「――ヴェルナー」
門の外から、静かな声がした。
叱る声ではない。ただ、名を呼んだだけの声である。それだけで、家令の口は、きっちりと閉じる。
「……失礼いたしました。お嬢様、どうぞ、良いお年を」
鉢を抱えて、ヴェルナー氏は帰っていく。
玄関に一人残されて、私はしばらく、その言いかけの続きを胸の中で転がしていた。
――殿下は、毎年、あの日は。
毎年。……つまり、今年に限った話ではないのである。




