表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
21/29

21. 即答できませんの

 冬の入りの朝、玄関の盆に、王家の紋が載った。


 封蝋の赤が、冬の光の下では、ずいぶん濃く見える。執事のエーバーハルトが捧げ持つ手つきは、園遊会の招待状のときよりさらに恭しい。白手袋が、心なしか震えている。


「王妃陛下の、直筆の添え書きがございます」


「……そう」


 王家の大夜会。年が改まる晩に開かれる、王都でいちばん大きな灯りである。臣下として招かれること自体が名誉で、その中でも主賓格の卓に呼ばれるとなれば、社交界の頂上に椅子を一つ用意されたようなものだ。


 三年前の私が見たら、腰を抜かしたに違いない。


 封を切って、目を通して、私はそれを盆の上に戻した。


 ……戻したのである。


 返事を書かなかった。書けなかった、と言うほうが正しい。


「お嬢様。……お返事は?」


「ええ。……あとで」


 言ってから、自分でも驚いた。


 私は、招待を断ったことが一度もない。断らないから、受けるか、保留するかの二つしかない。そして、これほど断る理由のない招待を、私は生まれて初めて、保留の小机の上に置いたのである。


       ◇


 父は、朝食の卓で新聞を取り落としそうになった。


「大夜会だと? 主賓格の卓に?」


「まだ、決めておりませんの」


「決める、とはなんだ? 受けるに決まっておろう」


「……ええ。そうですわね」


 自分の口から出た返事の、頼りないこと。


 父は、それ以上は言わなかった。この頃の父は、娘の玄関に口を出さないと決めているらしい。竈にくべた受付簿の灰が、まだこの人の中で温かいのだと思う。


       ◇


 その日の午後、私は仕立て屋オティーリエの工房へ向かった。


 冬の新作の試着に呼ばれていたのである。扉を開けた瞬間、工房中の視線が一斉に集まって、それから、歓声が上がった。


「聞きましたよ、大夜会ですって!」


「まあ、お耳が早いこと」


「王都中が知っておりますよ。……で、お色は? やっぱり深い色がよろしいわ。あの広間は灯りが強うございますからね」


 マダムは私の返事を待たずに、布地の巻きを次から次へと卓に広げていく。針子たちが手を止めて集まってくる。誰も彼も、私が大夜会へ行くことを、すでに決まった予定として喋っている。


 ……ええ。そうですわね。行くのでしょうね、私は。


 姿見の前に立って、深い青の布を肩に当てられながら、私は自分の顔を見ていた。


 嬉しくないわけではない。三年前の私が、喉から手が出るほど欲しかったものが、いま、玄関の盆に載っている。夜会の招待。それも、いちばん大きな灯りの。


 なのに、胸のどこかが、ひやりとしている。


「レギーナさん」


 マダムが、鏡越しにこちらを見た。


「お顔が、ちっとも大夜会じゃございませんよ」


       ◇


 三年前の冬を、思い出す。


 社交季の真ん中、王都のあちこちで灯りが点いていた冬である。私の玄関には、一通も来なかった。婚約者のある令嬢を招くのは不作法、という慣行の陰で、私の週末だけが、きれいに空いていたのである。


 あの頃、私は窓辺に座って、街のほうを見ていた。


 どこかの家の窓が、遠くで金色に光っている。楽の音は届かない。届かないから、想像するしかない。あの光の中では、みんなが誰かに名前を呼ばれているのだろう、と。


 ――一度でいい。あの光の中に、私の椅子があったらいい。


 そう思って、思ったことを恥じて、窓の掛け布を閉めた冬である。


 ……いま、その光のいちばん真ん中の椅子を、差し出されている。


 差し出されて、私は返事ができずにいる。三年前の私に申し訳が立たない。申し訳が立たないと思いながら、それでも手が動かないのである。


       ◇


 夕方の辻には、いつもの背中があった。


 冬の入りの空気は、吸うと鼻の奥が少し痛い。吐く息が白くなって、二人ぶん、前へ流れて消えていく。道端の水たまりに、薄い氷が張っていた。


「大夜会の招待状が、参りましたの」


 言ってから、あの方の横顔を見る。


 ――止まった。


 止まったのは足ではない。表情のほうである。いつも通りに見えるのに、どこかが、ぴたりと動かなくなった。


「……それは。おめでとうございます」


「ありがとう存じます。……閣下は、お出になりますの?」


 半歩ぶんの間があった。


「わたしは……公務です」


 その言い方を、私は知っている。


 三年、玄関で数え切れないほど聞いてきた言い方だ。ただし、これまで聞いてきたのは、待たせる側が使う便利な言葉としてである。この方の口から出ると、なぜか、まるで違う音がする。


 嘘だ、と思う。


 思った自分に、少し驚いた。この方は嘘をつかない人である。傘の色まで覚えていて、そのくせ通りがかりを装うのが精一杯の、あの下手な方が。


 その方が、いま、私に嘘をついた。


 ……「通りがかりです」の類ではない。あれは、二人とも嘘だと承知している合図のようなものだった。今日のは、違う。私に本当だと思わせるための嘘である。


 ……胸が痛むのは、嘘をつかれたからではない。この方に、嘘を必要とさせる何かがある、ということのほうである。


「そうですのね」


 私は、それ以上聞かなかった。


 三年、私は他人の困りごとを一つだけ伺う女である。伺うのは、相手が言える形になってからである。まだ形になっていないものを、こちらの都合で引き出すのは、作法ではない。


 凍った水たまりを、二人で避けて歩いた。


「……氷が張りますのね。もう」


「ええ。……年が、改まりますので」


 年が改まる。その言葉のあとに、あの方はもう何も言わなかった。


       ◇


 その晩、公爵家から、届け物の使いが来る。


 養生の折に借りたままだった薬草の鉢を、寒さの前に引き取りたいという申し出である。使いに立ったのは、家令のヴェルナー氏だった。


「わざわざ、家令様が?」


「いえ、いえ。ついでにございます。……お嬢様、お加減はいかがで?」


「お陰様で。すっかり」


 ヴェルナー氏は、鉢を抱えたまま、なぜかその場を動かない。


 動かないまま、玄関の灯りをちらりと見て、それから、私の顔を見て、また灯りを見た。……何か言いたいことがある人の、いちばんわかりやすい形である。


「あの、お嬢様」


「はい」


「差し出がましいことを申し上げます。……あの、殿下は、毎年、あの日は――」


 門のほうで、馬の(いなな)きが聞こえた。


 ヴェルナー氏の背筋が、ぴんと伸びる。


「――ヴェルナー」


 門の外から、静かな声がした。


 叱る声ではない。ただ、名を呼んだだけの声である。それだけで、家令の口は、きっちりと閉じる。


「……失礼いたしました。お嬢様、どうぞ、良いお年を」


 鉢を抱えて、ヴェルナー氏は帰っていく。


 玄関に一人残されて、私はしばらく、その言いかけの続きを胸の中で転がしていた。


 ――殿下は、毎年、あの日は。


 毎年。……つまり、今年に限った話ではないのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ