22. 生姜糖
王宮の菓子職人ランベルト氏の控えの間は、冬でも暖かい。
竈の熱と、砂糖の匂いと、焦がしバターの香り。窓の外は霜が下りているのに、この部屋だけが、季節を一つ分だけ先に進めているようである。
「今日はね、冬のお菓子でございます」
銀の皿に載っていたのは、琥珀色の小さな塊だった。
「蜂蜜と、生姜を煮詰めまして。……お口に合いますかどうか」
一つつまんで、口へ入れる。
最初に来るのは蜂蜜の甘さで、その後ろから、生姜の熱が、喉の奥をゆっくり降りていった。舌が温かくなって、それから、指の先まで温かくなる。冬の菓子というのは、なるほど、こういう仕組みなのである。
「……まあ。体の内側に、暖炉ができましたわ」
「それは、ようございました」
ランベルト氏が、実に嬉しそうに笑う。四十歳の職人が笑う顔は、砂糖細工の白鳥を作るときと同じである。
「生姜糖と申しましてね。宮中では、あまり出さないのですが」
「あら、なぜですの?」
「上つ方には、素朴すぎるのだそうで」
ランベルト氏は肩をすくめて、それから、少しだけ声を落とす。
「……先代の公爵様が、お好きでいらっしゃいました」
私の手が、止まる。
◇
「レーヴェンシュタインの、先代様でございますか?」
「はい。あの方は、宮中の菓子より、こういう素朴なものを好まれましてね。……よく、厨房のほうへ直においでになって、包みを一つお持ち帰りになる」
職人の目が、遠くなる。
「小さな公子様に、内緒で分けておいでだったのですよ。奥様は、甘いものを召し上がりすぎるとお叱りになりますのでね。父子で、こう、指を口に当てて――」
ランベルト氏が、その仕草をしてみせた。
秘密の合図。父と、幼い息子の。
「……お亡くなりになったのは?」
「新年でございます。年の改まる、あの晩に」
控えの間の暖かさが、すっと遠のいた気がした。
――大夜会と、同じ日である。
王都でいちばん大きな灯りが点く晩に、あの方の家では、父上が亡くなっている。
……ひどい話だ、と思った。
人は誰でも死ぬ。日にちは選べない。それでも、よりによってその晩に、王都中が着飾って、楽が鳴って、笑い声が上がるのである。喪の一年が明けても、二年目も、三年目も、毎年その晩が来る。来るたびに、王都はいちばん明るくなる。
私は三年、招かれない側にいた。灯りの外にいるのがどれほど寒いか、少しは知っているつもりである。……けれど、あの方の寒さは、私のものとは種類が違う。呼ばれないのではない。呼ばれるのに、行けないのだ。
◇
私は、しばらく茶を飲んでいた。
飲みながら、頭の中で、いくつかの絵が音もなく重なっていく。
大夜会の話題になると、動かなくなる表情。「わたしは……公務です」の、下手な嘘。ヴェルナー氏の、言いかけて止まった「毎年、あの日は」。
六年。この方が半刻公爵と呼ばれるようになってから、六年である。
――六年間、この方は、王都でいちばん大きな灯りの晩に、どこにもいなかったのだ。
「先代様は、その」
私は、できるだけ何気ない声で尋ねた。
「先代様は、新年のその日、どんな風にお過ごしでしたの?」
「ああ、それはもう、お忙しいお立場でしたから」
ランベルト氏は、皿にもう一つ生姜糖を載せながら、世間話の続きのように言った。
「ただね、あの方には、決まった道がおありでしてね。北の丘のほうへ、よくお歩きでした。……ああ、そうそう。わたしの師匠の店が、その北の丘の登り口にございましてね」
「まあ。お師匠様の?」
「もう店は、弟子が継いでおりますが。……その店にね、年に一度、新年にだけ、生姜糖をお求めにおいでの上客がいらっしゃるそうで」
――。
「毎年、同じ日に。ずいぶん長いこと、おいでだと聞いております。……不思議なお客様もあるものでございますな」
ランベルト氏は、それきり、その話をしなかった。
名前は、言わない。たぶん、言わないほうがよいと知っているのである。この人は、王宮の厨房で二十年、口の軽そうな顔をして、いちばん大事なところだけは言わない稽古をしてきた人だ。
私は、生姜糖をもう一つつまんだ。
甘さと、熱と、それから、喉の奥の少しの苦さ。
……揃ってしまった。
◇
二年前の、宮中晩餐の控えの間を思い出す。
半日待たされたあの日、廊下で砂糖細工の白鳥を受け止めたあと、私は職人たちの片づけを手伝いながら、いくつも世間話を聞いた。その中に、こんな一言があったのである。
――先代様は、お優しい方でしてね。
あのときは、宮中でよく聞く型どおりの褒め言葉だと思っていた。二年経って、その一言に、ようやく形が付く。
あの方の父上は、菓子職人にまで惜しまれる人だった。そして、その方を亡くした二十一の冬から、あの方の時間の配り方は始まったのである。
◇
夕方の散歩は、王都の目抜き通りを外れた道を歩いた。
冬の日暮れは早い。店の飾り窓に、もう灯りが入っている。パン屋、革屋、それから、小さな菓子屋。
その菓子屋の窓の前で、あの方の足が、わずかに緩んだ。
窓の中には、硝子の器に盛られた琥珀色の粒がある。……見間違えようがない。
「……レギーナ嬢」
「はい」
「いえ」
あの方は、そこで口を閉じた。
閉じて、それから、いつもの歩幅に戻る。菓子屋の灯りが、外套の肩を一瞬だけ照らして、後ろへ流れていく。
……硝子の向こうの琥珀色を、あの方はほんの一拍だけ見ていた。一拍である。見ていた、と書くのも大袈裟なほどの短さで、それでも私にはわかった。三年、玄関でこの方の背中ばかり見てきたのだから、一拍くらいは読めるのである。
私は、何も聞かなかった。
聞けば、たぶん、この方は答えてくださる。三年の玄関の顔見知りに、それくらいの義理はあると思っておいでだろう。……けれど、聞き出したものと、言ってもらったものは、まるで違うのである。
三年、私は待つのが上手になった。
――知っていることを、言わない。この方が自分で口にする日まで、知らない顔をして隣を歩く。それが、私に今できる、いちばん静かな作法である。
「閣下」
「はい」
「……寒くなりましたわね」
「ええ。冷えます」
白い息が、二つ、前へ流れていく。
私は指先を袖の中に入れて、あと少しで年が改まる、と胸の中で数えた。
◇
大夜会まで、あとひと月である。
保留の小机の上では、王家の紋の一通が、まだ返事を待っていた。




