23. 断りの作法
羽根ペンが、三本だめになった。
一本目は、書き出しで力が入りすぎて割れる。二本目は、途中で握り潰した。三本目は――何も書かないうちに、指の汗でふやけたのである。
書き物机の上には、書き損じの紙が積んである。数えない。数えると、自分が情けなくなる。
言っておくが、私は招待状の書き方を知らない女ではない。伯爵家の娘である。家の夜会の招きなら、何百と書いてきた。時候の辞令も、格式の順も、封蝋の色の選び方も、全部この手が覚えている。
書けないのは、断り状のほうである。
三年、私は一度も断ったことがない。断らなかったのではなく、断り方を知らないのだ。「お断りいたします」の八文字が、どうしても紙の上に降りてこない。
……たぶん、私の耳には、断りの言葉がこう聞こえるのである。
――あなたは、要りません。
馬鹿げている。招待を断ることと、人を捨てることは、まるで別のことだ。頭ではわかっている。わかっていて、指が動かない。捨てられた側の癖というものは、三年経っても、こんなところで顔を出す。
◇
王宮東翼の小間は、冬でも樟脳の匂いがする。
老王女殿下は、寝椅子の上で膝掛けを直しながら、私の話を最後まで聞いてくださる。それから、扇を開いて、口元を隠して――笑った。
「あなたに教えることが、まだ残っていましたのね」
その笑い方が、あんまり嬉しそうなので、こちらの肩の力が抜ける。
「殿下。人の困りごとで、そんなにお喜びになるものではございませんわ」
「わたくし、七十年生きて、初めて先生になったのよ。喜ばせてちょうだいな」
殿下は扇を閉じて、こちらを見た。
「よろしい。断りの作法を教えます。……よくお聞きなさい」
私は、背筋を伸ばした。
「断りは、捨てることではないの」
「……はい」
「選ぶことよ」
冬の光が、日除けの隙間から、絨毯の上に細く落ちている。
「あなたはね、あの晩、王家の大夜会という灯りと、それより大事な何かとを、天秤にお掛けになった。掛けて、片方をお選びになる。……選ばれなかったほうは、捨てられたのではありませんわ。ただ、選ばれなかっただけ」
喉の奥が、詰まった。
「それから、もう一つ。理由は、書かないこと」
「まあ。……不敬ではございませんの?」
「理由を書けば、それは言い訳ですもの。言い訳は、相手に品定めをさせますのよ。この理由なら許す、この理由なら許さない、と。……そんな権利を、どうして差し上げるの?」
「では、何を書けば?」
「お受けできません、と。ありがとう存じます、と。それだけ」
殿下は、実に涼しい顔で仰った。
「理由はね、体で示すの。……あなたが、その晩どこにいたか。それが、いちばん長い手紙になりますわ」
私は、膝の上の手を見ていた。
「殿下は、何もお尋ねになりませんのね?」
「何を?」
「その晩、わたくしがどこにいるつもりか、を」
「聞けば、あなたが答えてしまうでしょう」
殿下は、ふん、と鼻を鳴らした。
「答えてしまえば、それはもう、あなただけのものではなくなりますのよ」
……この方は、いつもこうである。七十年ぶんの意地悪の下に、七十年ぶんの手加減が隠れている。
◇
二年前の冬を、思い出す。
初めて殿下の召しをいただいて、この小間に通された日である。あの日、私は茶を三杯飲んだ。三杯目は、正直、もう入らなかった。
殿下が「もう一杯いかが」と仰るたびに、私は「頂戴いたします」と答えたのである。断れなかったのではない。断ったら、次に呼んでいただけないのではないかと思ったのだ。
その話をしたら、殿下は、鼻で笑った。
「知っていてよ」
「……ご存じでしたの?」
「三杯目の顔が、たいそう青うございましたもの。あの日から、あなたの『断れない』は存じ上げております」
私は、両手で顔を覆いたくなった。この方の前では、三年ぶんの取り繕いが、まるで役に立たない。
「よろしい。王家へのお角は、わたくしが丸めておきましょう」
「殿下、そこまでご迷惑を」
「迷惑?」
殿下は、扇の先をこちらへ向けた。
「レギーナさん。あなた、わたくしに二十年ぶりの頼みごとをした人でしてよ。二度目を、そんなに遠慮なさらないで」
……三年、私は人に手を貸してばかりいた。貸されるのは、いまだに慣れない。慣れないけれど――受け取る稽古の途中である、と自分に言い聞かせて、私は深く頭を下げた。
◇
夕方の辻は、その日、風が強い。
外套の裾が煽られて、話し声が途切れる。あの方は風上の側へ半歩ずれて、それから、いつもの歩幅に戻った。……こういうことを、この人は無言でする。
「レギーナ嬢」
「はい」
「大夜会の日のことですが」
胸が、ひとつ鳴った。
「はい」
「あの日は……お見送りに、行けません」
風が、二人のあいだを抜けていった。
「馬車寄せまでお送りするのが、筋なのだと思います。……ですが、あの日は、どうしても外せない用がありまして」
――ああ。
この方は、私が大夜会へ行くものだと思っている。
着飾って、馬車に乗って、王都でいちばん大きな灯りの中へ入っていくものだと。そして、その馬車を見送ることさえできない自分を、詫びておいでなのである。
……この方は、ご自分の父上の命日に、他人の見送りの心配をしていらっしゃる。
私は、袖の中で指を握った。
「閣下」
「はい」
「お気になさいませんで」
言えるのは、それだけである。断り状のことも、北の丘のことも、私はまだ何も言わない。言えば、この方は「お気遣いなく」と仰って、その晩の道から私を丁寧に締め出すだろう。
この方の作法は、そういう作法である。
だから私は、黙って、風の中を歩いた。歩きながら、殿下の言葉を胸の中で繰り返す。
――理由は、体で示すの。
◇
大夜会の朝が来た。
玄関の盆の上に、封をした一通が置いてある。宛名は王妃陛下。中身は、二行だけ。
お受けできません。ありがとう存じます。
執事のエーバーハルトが、その一通を捧げ持って、私を見た。三年、この玄関のすべてを見てきた人である。何も聞かず、ただ一言だけ言った。
「……行って参ります」
「ええ。お願いいたします」
生まれて初めての断り状が、玄関を出ていく。
見送りながら、私は不思議なほど落ち着いていた。捨てたのではない。選んだのである。……たった一語の言い換えで、こんなにも背筋が伸びるものかと思う。




