24. 何もしない半日
年が改まる日の王都は、朝から浮き足立っている。花と菓子を積んだ荷車が行き交い、御者だまりは宮殿行きの支度で沸いている。
みんなが東へ行く。宮殿は、東にある。……私は、北へ向かった。
◇
北の丘の登り口に、小さな菓子屋がある。扉を押すと、生姜と蜂蜜の匂いが冷たい空気の中へ流れ出してきた。
「生姜糖を、ひと包み」
「はい、ただいま」
店の主は若い。師匠から継いだ弟子の代で、紐の結び方に教わった通りの癖が残っている。
「……ありがとう存じます。それから、白湯を壺に一つ、冷めにくいように布でくるんでいただけますかしら?」
店の主は不思議そうな顔をして、それでも、言った通りにしてくれた。
包みと壺を抱えて、店の外へ出る。
◇
店先には長椅子があった。私は、座らない。
――待つなら、座って待ちません。
十九の私が決めた掟である。座らなければ、待たされているようには見えない。……ずいぶん強がりな掟だと、いまなら思う。
けれど今日は、強がりで立っているのではない。
冬の風が頬を刺していく。指の先が悴んで、壺の温かさだけが掌に残っている。空は、薄い水色である。
――待たされるのと、待つのは、違う。
三年かけて、私はやっとその違いに手が届いた。待たされるのは、こちらの時間を他人が使うこと。待つのは、こちらの時間を自分で置くことだ。
今日、私は自分の意志でここに立っている。誰にも頼まれず、約束もない。
来なければ、生姜糖は自分で食べて帰るだけである。
鐘が鳴った。四半刻。もう一つ鳴って、半刻。
次の鐘が鳴る少し前に――道の向こうから、見慣れた背中が、いえ、今日は正面から歩いてくる。
◇
あの方は、私を見て、足を止めた。
止まったまま、動かない。この方の顔がこんなに正直になるのを、私は初めて見た。
「……なぜ?」
「通りがかりですの」
できるだけ何でもない顔で言う。
「花屋の前を通りがかるより、少々遠うございましたけれど」
あの方は、何か言おうとして、言葉を探しきれずにいる。
その手に、包みを押しつけた。
「これだけ、お持ちくださいませ。……ここの生姜糖は、良い方の思い出の味と伺いました」
壺も渡す。布ごしに、湯気の名残が伝わってくる。
「お邪魔は、いたしませんの」
私は、丁寧に礼をする。
「では、また。――どこかの玄関で」
この方の口上を、初めて私のほうから使って、背を向ける。一歩、二歩、三歩。
……四歩目が、出なかった。
「レギーナ嬢」
呼び止める声が、背中に当たったからである。
◇
振り向くと、あの方は包みを両手で持ったまま立っていた。
長い沈黙である。冬の風が丘から吹き下ろして、外套の裾が揺れる。乱れたまま、この方は考えている。
六年、誰にも渡さなかった半日である。この人はいま、それを量っている。
私は、待つ。
――今日は、いくらでも待てる。この待ち時間だけは、私が自分で選んだものだから。
やがて、あの方が口を開いた。
「……ここから先は、父と歩いた道です」
「はい」
「毎年、この日に。……六年、一人で歩いております」
「はい」
声が、少し掠れた。
「ご一緒に、歩いていただけますか?」
◇
丘の道は緩やかで、足元で霜柱が微かに鳴った。
二人とも、何も喋らない。私は何も聞かず、慰めも言わず、ただ隣を歩いた。
三年、この方が私にくれたのは、これである。用件のない時間。何も差し出さなくていい隣。
……もらってばかりだったものを、今日、そっくり同じ形でお返ししている。
丘の中腹で、あの方が足を止める。
「ここで、いつも息を切らしておりました。……父が、です。わたしが先に登ってしまうと、後ろで、待て、と」
初めて、あの方が父上の話をなさる。
「痩せた人でした。それでいて、菓子だけはよく召し上がる」
「まあ」
「宮中の厨房へ、直接もらいに行くのです。公爵家の当主が、ですよ。……母に見つかると、ずいぶん叱られておりました」
「指を、口に当てて?」
あの方の足が、止まる。
……しまった、と思った。
「……どなたから、お聞きになりましたか?」
正直に答えることにした。隠し立ては、この方に不作法である。
「ランベルト様から。冬のお菓子の味見の折に、思い出話として。それから、北の丘のお師匠様のお店の話も」
しばらくの沈黙のあと、あの方は笑い出した。声を立てて笑うのを、私は初めて聞く。
「……あの人は、昔から口が軽い」
「ええ。ですけれど、いちばん大事なところは、仰いませんでしたわ。お名前だけは、とうとう一度も」
「……そうでしょうね。あの人は、そういう人です」
◇
丘の上には、平たい石があった。眼下の王都では、宮殿の窓に、もう灯りが入り始めている。
包みを開いて、生姜糖をかじる。甘さのあとに生姜の熱が来て、冷えた体の内側に小さな暖炉が点る。壺の白湯は、二人で回して飲んだ。
「……父と、ここで食べておりました」
あの方は、王都のほうを見たまま続ける。
「あの日、父は朝、いつもどおり出かけました。大夜会の日でしたから、宮殿の支度に呼ばれておりまして。……夕方に、運ばれて帰って参りました」
白い息が、風に散っていく。
「わたしは、屋敷で待っておりました。……あの日は、日が落ちてから、父とこの丘を歩く約束でしたので」
喉の奥が詰まった。……待っていたのだ、この方も。来ない人を、屋敷の玄関で。
「その晩、宮殿では予定どおりに灯りが点いております。……あの日から、この日はわたしの日ではなくなりました。王都の日です。灯りが点いて、楽が鳴って、みんなが笑う。……その中で、わたしだけが間違った顔をしている」
喉の奥が、熱くなった。
私が三年、招かれずに見上げていた灯り。その下で、この方は毎年、間違った顔をしないために、王都から半日だけ姿を消していたのである。
「だから、公務だと申しました」
「……はい」
「嘘を、申しました。……信じさせるための嘘を吐いたのは、あなたに、あれが初めてです」
あの方の声が、そこで途切れた。
横顔を見ると、目のふちが赤い。三年、私はこの方の背中しか見てこなかった。今日は、正面にいる。
私は、何も言わなかった。
言葉より、隣にいるほうが役に立つ。三年、私はそれを人の玄関で学んだ。
あの方は片手で目のあたりを押さえて、動かない。冬の風が、二人の上を通り過ぎていく。
◇
やがて、あの方が、静かに口を開く。
「六年、この道を一人で歩きました」
「はい」
「……あなたは、わたしの空いた時間に入ってきた、最初の人だ」
――。
空いた時間。
この方が誰にも配らずに取っておいた、たった一つの時間である。私はそこへ勝手に入り込んで、生姜糖と白湯を置いた不作法者だ。
……その不作法を、この方は「最初の人」と呼んだ。
胸のいちばん奥が、じん、と鳴った。名前を付けたくない音、と私が呼んできたあの音である。
今日は、もう、わかっている。けれど――言葉にするのは、まだ早い。丘の上は寒すぎるし、この方の目のふちは、まだ赤い。
あの方は、そのあとに何か続けようとして――やめた。
「閣下」
「はい」
「……生姜糖、もう一つ、いただいてもよろしゅうございます?」
あの方が、少し笑って、包みを差し出す。
◇
同じ晩、宮殿の大広間では、王妃陛下の扇の陰で、こんなやり取りがあった。曰く、老王女殿下が何か耳打ちをなさる。曰く、陛下の眉が上がり、次に、たいそう面白そうに細くなる。曰く、陛下は扇を閉じて、こう仰った。――まあ。理由も書かずにお断りとは、よほどのことですわ。わたくしの灯りより大事なものが、この王都のどこかにあるのね。……ならば、次の招待状は、二人宛てね。
◇
丘を下りて、辻を折れて、うちの玄関の前まで来た。玄関の灯りが、足元を半分だけ照らしている。
「今日は、ありがとう存じました」
「……こちらこそ」
あの方は、そこで一度、口を開く。
開いて――閉じた。
三度目である。橋の上で一度、丘の上で一度、そして今。
私は、急かさない。この方が三年かけて作った規則の、硬いところが軋む音が聞こえるからである。
「では、また。――どこかの玄関で」
「ええ。……どこかの玄関で」
扉を閉めてから、私は玄関の内側で、しばらく背中を預けていた。
指先には、まだ壺の温かさが残っている。




