25. 請求書は出せません
年が改まって、ふた月が過ぎた。
王都の冬は、終わりが近づくと、いちばん退屈な顔をする。灯りの季節は済んで、花の季節はまだ来ない。社交界は、大夜会の話題を擦り切れるまで擦って、そろそろ新しい噂を探し始めている。
私の玄関は、相変わらず賑やかである。
ただ、少しだけ様子が変わった。招待状に、二人ぶんの席を添えてくださる方が増えたのである。「もしよろしければ、お連れ様も」の一行が、判で押したように付いてくる。
……王妃陛下が何かお漏らしになったに違いない、と私は睨んでいる。
◇
王立歌劇場の支配人フォルクマール氏からの招きは、冬興行の初日だった。
劇場の玄関で、支配人は昔と同じ深さで頭を下げる。ただし、今日は少しだけ、そわそわしていた。
「本日は、お報せがございまして」
「まあ。何ごとですの?」
「『薄明の庭』の、千秋楽の日どりが決まりましてございます」
胸のあたりが、ことりと動いた。
三年前、私が観られなかった演目である。再演の初日には、あの方と一緒に、終演まで座った。
「早春の、いちばん花の早い頃でございます」
「……そう。とうとう、終わりますのね」
「ええ。ですが、支配人と申しますのは因果な商売でしてね。終わる演目のことは、終わる前から、ひどく大事に思うのでございます」
この人の言い方には、いつも二重の意味がある。私は素知らぬ顔で、桟敷の膝掛けを撫でる。
◇
その帰り、劇場の玄関で妙な人に呼び止められた。
「お、お嬢様。奇遇でございますなあ」
公爵家の家令、ヴェルナー氏である。
「まあ。閣下は、ご一緒ではございませんの?」
「いえ、本日はわたくし一人で。……その、観劇の趣味がございまして」
この方は、嘘が主より下手である。
「ヴェルナー様。あなた、切符をお持ちでないでしょう?」
「……手に入りませんでした」
「まあ」
「差し出がましいことを申し上げますが」
ヴェルナー氏は、帽子を胸に当てて、実に深刻な顔をした。
「お嬢様。……主は、近ごろ、ずいぶんお困りでございます」
「お困り?」
「はい。困っておいでなのは、間違いございません。ただ、何にお困りなのかを、わたくしめには一言も仰いません。……三十年お仕えしておりますが、こういうお困り方は、初めてでございます」
私は、しばらく黙っていた。
三年、私は困りごとを一つだけ伺う女である。伺ってきたのは、他人の困りごとばかりだ。……あの方の困りごとだけは、まだ一度も伺ったことがない。
「ヴェルナー様」
「はい」
「その困りごと、わたくしが伺ってもよろしいものかしら?」
ヴェルナー氏の目が、みるみる潤んだ。
「……お願い申し上げます」
◇
その晩、公爵邸の勝手口では、たいそう真剣な作戦会議が開かれていたという。曰く、まず花である。曰く、いや、指輪が先ではないか。曰く、口上の稽古も要る。家令が意気込んで書き付けた三枚の紙は、主の書斎で残らず却下された。曰く、花は季節が違う。曰く、指輪は早い。曰く、口上は――と言いかけて、主はそこで黙り込んでしまわれたそうである。
◇
翌日の夕方、いつもの辻で、私は珍しく先に立っていた。
あの方は、少し驚いた顔をなさる。
「お待たせいたしましたか?」
「いいえ。……わたくし、今日は、待つほうを選びましたの」
冬の終わりの風は、まだ冷たい。それでも、日の落ちる時刻が、ひと月前より確かに遅くなっている。
歩きながら、私は切り出した。
「閣下。ひとつだけ、伺ってもよろしゅうございます?」
「……はい」
「近ごろ、何かお困りではございませんこと?」
あの方の足が、止まる。
三年、私はこの問いをいろんな玄関でしてきた。困りごとを一つだけ伺って、次にお会いするときに答えを一つ持って参る。それが私の作法である。
……ただ、こんなに心臓が鳴ったのは、初めてだ。
◇
玄関の前まで、あの方は何も仰らなかった。
灯りの下で足を止めて、それから、ようやく口を開く。
「……困っております」
「はい」
「ずいぶん前から、困っております」
声が、いつもより低い。
「わたしは、人の時間を取り立てない、と決めております」
「存じております」
「六年、それで通して参りました。……ですが、いま、わたしが言おうとしていることは」
言葉が、そこで詰まる。
詰まって、あの方は、たいそう困った顔で私を見た。三年、玄関で見てきたどの顔とも違う。正確な所作も、空の語彙の褒め言葉も、今夜はどこかへ行ってしまっている。
「結婚は、人の時間への、いちばん大きな請求です」
――。
「一日ではない。ひと月でもない。……相手の残りの生涯を、まるごと寄越せ、という請求です」
冬の終わりの夜気が、玄関の灯りの周りだけ、静かに揺れた。
「レギーナ嬢。あなたは三年、請求され続けた人だ」
「……はい」
「待て、と言われ続けて、その三年をご自分で立って埋めた人に――わたしが、最大の請求書を出せるはずが、ないでしょう?」
そこまで言って、あの方は口を閉じる。
閉じて、それから、いつもの正確な会釈をしようとして――失敗した。会釈の途中で、手が行き場をなくしている。
◇
私は、しばらく動けなかった。
わかったからである。三年ぶん、全部。
橋の上で止まった言葉も、丘の上で続かなかった言葉も、玄関の前で三度目に飲み込まれた言葉も、全部これだったのだ。この方は、私を欲しがっていないのではない。欲しがっているからこそ、その欲しがり方が「請求」の形しか取れないことを、恐れていたのである。
三年、私を後回しにした人は、私の時間を軽く扱った。
そしてこの方は、私の時間を重く見すぎて、手を出せずにいる。
……重く見てくださる、ということの温かさが、胸の底からゆっくり上がってきた。上がってきて、目のふちまで来て、そこで止まる。泣くには、今夜は少し可笑しすぎるのである。
だって、この方は――請求書の話をしているのだ。生涯の話をしながら、書式の心配をしている。
私は、口の端が緩むのを、こらえられなかった。
「閣下」
「……はい」
「では」
私は、一歩だけ、玄関の灯りのほうへ出た。
「請求書でなければ、よろしいのですわね?」
あの方が、顔を上げる。
その目が、ゆっくりと見開かれていくのを、私は初めて正面から見た。……この方は、たぶん、いま、まだわかっておいでではない。わからないまま、何か途方もないものが自分の側へ動き出したことだけを、感じておいでである。
「……レギーナ嬢。それは?」
「まあ。今夜は、ここまでですわ」
私は、いちばん丁寧な礼をする。
「では、また。――どこかの玄関で」
この方の口上を、私は二度目に使った。
◇
三年前の春の玄関を、今度は私の側から思い返す。
『薄明の庭』の初日。隣の席が空いたまま幕が下りて、幕間の玄関で、私は誓いを立てた。待つなら、座って待ちません、と。
立ち上がって歩き出したとき、扉のところで背の高い方と鉢合わせた。私は道を譲って、こう言ったのである。
――お先にどうぞ。
あのとき私が先に通したのは、ただの見知らぬお客様である。……と、そう思っていた。
三年経って、いまならわかる。
あの晩、私が先に通したのは、この王都でただ一人、私の空いた時間を「あなたのものです」と言ってくれる人だったのだ。
先を譲ったのではない。……あの晩から三年かけて、あの人は私の玄関へ戻ってきたのである。
◇
部屋に戻って、私は書き物机の前に座った。
抽斗を開ける。奥のほうに、一度も使っていない便箋の束がある。家の夜会の招きに使う厚手のものではなく、私が自分のために買って、使う当てがないまま仕舞い込んでいた紙だ。
家の夜会の招きなら、私は何百と書いてきた。けれど、自分の名で、自分の望みで、誰かを招いたことは一度もない。……出す側に回る、ということを、思いつきもしなかったのである。
便箋を一枚、机の上に置く。
真新しい紙の白は、何も予定の書かれていない明日に、少し似ている。
私は羽根ペンを取って、それから、しばらくそのまま座っていた。
――さて。
自分の名で、自分の望みで誰かを招く招待状を、私は生まれて初めて書くのである。




