26. 生まれて初めての招待状
早春の朝、うちの玄関の前で、若い令嬢が泣いていた。
といっても、泣いているのを隠しながら立っている、という形である。私はその立ち方を知りすぎている。壁ではなく門柱にもたれて、扇で口元を隠して、通りのほうを見ているふり。
「――大丈夫でございますか?」
声をかけると、その方は慌てて扇を下ろした。十七、八といったところだろう。うちの斜向かいのお屋敷に、去年入られた家のお嬢様である。
「も、申し訳ございません。すぐに参りますので」
「どなたかを、お待ちですのね?」
図星だったらしい。頬が、かっと赤くなった。
「婚約者が、迎えに来る約束で……もう、一刻ほど」
――ああ。
あの三年の自分が、そこに立っている。
◇
私は、その方の隣に立つ。
立って、通りを一緒に眺めた。しばらく黙っていると、その方の呼吸が、少しずつ落ち着いてくる。
「お嬢様。……待ち時間には、作法がございますのよ」
「作法、でございますか?」
「ええ。一つ目。待つなら、座って待ちませんの」
「まあ。……なぜですの?」
「座ると、待っている顔になりますから」
その方が、ふ、と笑った。泣いたあとの笑い方は、どうしてこう可愛らしいのだろう。
「二つ目。その場でいちばんお忙しい方の、隣に立ちますの。三つ目。手をお貸しして、困りごとを一つだけ伺いますのよ。四つ目は――次にお会いしたときに、答えを一つ持って参ること」
「そんなことをして、何になりますの?」
「さあ。……三年やってみましたら、王都中に知り合いができましたわ」
その方は、目を丸くして、それから、私の顔をまじまじと見た。
「あの。……もしや、玄関の?」
「そのあだ名は、どなたがお付けになったのかしら?」
私たちは、二人で笑う。
やがて遅れた婚約者の馬車が来て、その方は、さっきより背筋を伸ばして乗り込んでいった。……あの背筋が、三年後に何を積んでいるかは、あの方次第である。
私にできるのは、作法を一度だけお教えすること。あとは、玄関の外から見ているだけだ。
◇
部屋に戻って、私は書き物机に向かった。
便箋は、三日前から机の上に出してある。羽根ペンも、封蝋も、砂も揃っている。……道具は揃っているのだ。
言っておくが、私は招待状が書けない女ではない。伯爵家の娘として、家の夜会の招きなら何百と書いてきた。時候の辞令、宛名の格、日どりの記し方、封蝋の色――全部、この手が覚えている。
なのに、一行目で止まる。
書いては破り、書いては破り。くず籠が、みるみる膨らんでいく。
難所は、二つあった。
◇
一つ目は、御用の趣の欄である。
招待状には、必ず用向きを書く。観劇、晩餐、茶会、婚礼。世の中の礼式の型には、あらゆる用向きの文例が載っている。
……ところが、私が書きたい用向きだけが、どの文例にも載っていない。
「観劇」と書いてみた。違う。あの方と観たいのは、演目ではない。
「散歩」と書いてみた。惜しい。けれど、散歩と書くと、四半刻で終わってしまう。
私が書きたいのは、もっと図々しくて、もっと途方もないものである。
何もしない時間を、これから先、ずっと。
――紙の上で、羽根ペンが止まった。
二つ目の難所は、そこにある。
招待状というのは、断る自由を相手に差し出す紙なのだ。出した瞬間、返事はあちらのものになる。受けるも、断るも、黙って放っておくも、全部、受け取った側の自由である。
この一年、私はその紙を受け取る側でいた。断れない女は、受け取る側にいる限り、傷つかずに済む。
出す側に回るということは――生まれて初めて、自分から「断られる場所」に立つ、ということだ。
……こわい。
正直に書いておく。三年待たされて、満座で婚約を切られても泣かなかった女が、机の上の白い紙一枚に、指を震わせている。
◇
王宮東翼へは、一つだけ伺いに行った。
「殿下。ひとつ、お教えくださいませ」
「なあに」
「『何もいたしません』は――招待状に書いてよい言葉ですの?」
老王女殿下は、扇を持つ手を止めた。
止めて、それから、私の顔を、たっぷり四半刻ぶんは眺めた気がする。実際には、ほんの数呼吸だったのだろうけれど。
やがて殿下は、扇を開いて口元を隠し、たいそう楽しそうに仰った。
「……あなた、それはね」
「はい」
「求婚状の言葉よ」
私は、返事ができなかった。
殿下は、それ以上は何も仰らない。察して、先は言わずに、扇の陰でにやりとなさっただけである。……七十年ぶんの意地悪は、いちばん大事なところで、いちばん優しい。
◇
その晩、私は一気に書き上げた。
宛名は、レーヴェンシュタイン公爵ジークヴァルト様。
日どりは、『薄明の庭』千秋楽の晩、終演の半刻前。
場所は、王立歌劇場の、玄関。
そして、御用の趣。
――何もいたしません。
最後の一行を書くとき、手は震えなかった。震えたのは、その次の欄である。期限、と書いて、私はしばらく羽根ペンを浮かせていた。
――期限、生涯。
書く。
封蝋は、家の紋の赤ではなく、あの色で作ってもらった。夕暮れの一歩手前の、私の色である。三年、自分の色を一度も選べなかった女が、生まれて初めて選んだ色で、自分の名で書いた初めての一通に封をする。
◇
夕方の散歩は、春の匂いがした。
道端の土が緩んで、風の中に、まだ咲いていない花の気配がある。あの方は、いつもの半歩遅い歩幅で、いつものように何も求めない。
「レギーナ嬢」
「はい」
「近ごろ、妙な癖がつきまして」
「まあ。どんな癖ですの?」
「玄関の盆を見るたびに……妙な期待をしてしまいます」
私は、危うく足がもつれるところだった。
「何を、お待ちですの?」
「それが、わからないのです」
あの方は、たいそう真面目な顔で、空を見上げた。
「盆に何もないと、少し落胆する。何が載っていれば満足するのか、自分でも見当がつきません。……六年、こんなことはありませんでした」
――明日には、載りますわ。
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。飲み込んで、代わりに、いちばん何でもない声で言った。
「……そのうち、載りますでしょうね」
◇
翌朝、私は執事のエーバーハルトを呼んだ。
銀の盆の上に、封蝋の乾いた一通が載っている。私の色の蝋が、朝の光の中で、少しだけ艶を持っている。
「レーヴェンシュタイン公爵家へ、お届けを」
「かしこまりました」
エーバーハルトが、白手袋の手を差し出す。
私は、盆ごと差し出そうとして――手が、離れなかった。
この一年、この玄関で、私は何百通も受け取ってきたのである。受け取るのは得意だ。渡すのは、こんなにも怖い。
老執事は、急かさなかった。
差し出した手を、そのままの高さに保ったまま、じっと待っている。……この人は、あの三年、この玄関で待つ女を見てきた人である。待ち方だけは、王都でいちばん心得ている。
やがて、私はゆっくりと息を吐いた。
「……お預かりして、よろしいですか?」
エーバーハルトが、初めて自分から言う。
私は、頷く。頷くのが、精一杯だった。




