27. 玄関で、お会いしましょう
その日、両家の玄関では、静かな外交が行われたそうである。
うちの執事エーバーハルトは、生涯最高の恭しさで公爵家の門をくぐった。迎えた家令ヴェルナー氏は、盆の上の封蝋の色を見た瞬間、家紋でないことに気づく。気づいて、その色が何であるかを察して――両手で顔を覆ったという。
「ヴェルナー殿。お手が塞がっておいでですが」
「……失礼。少々、目にゴミが」
「では、こちらは、お預かりいただけますかな?」
「……謹んで」
のちに聞いた話では、公爵家の玄関で、老人が二人、揃って鼻をすすっていたそうである。使用人というのは、主より先に泣く生き物であるらしい。
◇
千秋楽の晩が来た。
早春の夕暮れは、冬より少しだけ長い。私は歌劇場の玄関に、終演の半刻前から立っていた。
中では、まだ物語が続いている。壁の向こうから、楽の音が微かに漏れてくる。薄明の庭で、待ち続けた人が、待つのをやめて歩き出す場面のあたりである。
玄関の石畳に、私の影が長く伸びている。
四年前、私はこの場所に立っていた。空いた隣席から逃げるように出てきて、幕間の玄関で誓いを立てた晩である。あのとき私は、待たされる側だった。
今夜は、待つ側である。……自分で選んで、ここに立っている。
――来ないかもしれない。
そんなことを、私はまだ少し考えている。三年、来ない人を待った女の癖は、こういうときにだけ、律儀に顔を出すのだ。
……いいえ。今夜の私は、待たされているのではない。招いたのである。招いた人が来ないのなら、それは私の招き方の話であって、あの方の薄情の証明ではない。
そう思えるようになるまでに、ずいぶんかかった。
――馬車の音がする。
◇
現れたその方は、いつもの外套に、いつもの正確な足取りで――ただし、手に一通を持っていた。
私の色の封蝋。もう封は切られている。
四年前と、同じ立ち位置だった。扉のこちら側に私、あちら側にあの方。あのとき「お先にどうぞ」と言った距離が、そのまま、今夜も二人のあいだにある。
違うのは、あの方の顔である。四年、玄関で見てきたどの顔よりも、今夜は分かりやすい。……この方は、私の書いた一行の意味を、道中ずっと考えていらしたのだ。
「レギーナ嬢」
あの方は、玄関の灯りの下で足を止めた。手の中の一通を、確かめるように持ち直す。
「お待ちしておりましたわ」
「……招待状を、頂戴しました」
あの方の声が、少しだけ掠れている。
「御用の趣は――『何もいたしません』と」
「ええ」
私は、いちばん丁寧な礼をした。
「何もしない生涯の、ご相談ですの」
◇
あの方は、しばらく黙っていた。
黙って、手の中の紙を見て、それから、顔を上げる。玄関の灯りが、その目のあたりを照らしていた。
「……では、わたしからも申し上げます」
声が、いつもより低い。
「生まれて初めて、人の時間を求めます」
胸の奥が、ぐ、と鳴った。
「レギーナ嬢。……あなたの残りの生涯を、わたしに」
――。
春の夜気が、玄関を通り抜けていく。
六年、この方は誰にも未来の時間を求めなかった。半刻で辞し、次の約束をせず、別れ際にはいつも「どこかの玄関で」と言った人である。
その方が、いま、生涯を求めている。
私は、震える息をひとつ吸って――それから、いつもの調子で言った。
「あら。それでは、請求書ですわ」
あの方が、目を見開く。
見開いて、それから――笑った。声を立てて、玄関の高い天井に響くほどに。
「いえ」
あの方は、手の中の一通を、そっと胸の高さに掲げた。
「――招待状です。期限は、生涯で」
◇
目のふちが、熱い。
三年、私は「時間を寄越せ」と言われ続けた。言われるたび、私の時間は誰かの予定表に書き込まれ、私のものでなくなる。
いま、この方は、同じ生涯を求めるのに――請求ではなく、招待の形で差し出している。
招待状は、断る自由を相手に渡す紙である。この方は、それを知っていて、わざわざその形を選んだのだ。
……三年と、この一年をかけて、私はようやく、断ってよい場所に立たせてもらった。
だから、断らない。
「お受けいたしますわ」
私は、スカートをつまんで、生涯でいちばん深い礼をした。
「……お先の予定は、何もございませんの」
◇
顔を上げると、あの方が、手を差し出していた。
この玄関で、会釈ばかり交わしてきた手である。指の長い、所作の正確な手だ。その手が、今夜はほんの少しだけ震えている。
私は、自分の手を重ねた。
温かい、と思ったのは、こちらの指が冷えていたからだろう。……いいえ、たぶん、違う。三年ぶんの寒さが、指の先から順ぐりに、抜けていっているのである。
◇
そのとき、終演の鐘が鳴る。
扉が開いて、客が玄関へ流れ出してくる――はずだった。
ところが、扉のところで、なぜか人が詰まっている。詰まったまま、誰も出てこない。
やがて、その人垣の先頭から、支配人フォルクマール氏が転がるように出てきた。後ろに、桟敷係、切符係、案内の若い衆、楽士の何人か。全員、判で押したように、同じ方向を向いている。
「……皆さま、いつからそちらに?」
「終演の、半刻ほど前から」
「まあ」
「玄関でございますので」
支配人は、涙と鼻水でひどい顔をしたまま、胸を張った。
「玄関のことは、支配人の管轄でございますれば」
「支配人。……お預かりの席は、もうございませんのでしょう?」
「席はございません。ですが、玄関でしたら、いつまでもお預かりいたします」
誰かが、ぱち、と手を打つ。
一つが二つになり、二つが十になり、玄関中が拍手で埋まった。あの方が困り果てた顔で天井を見上げていて、私は自分の頬が熱いのを、扇も持たずに晒している。
……四年前、この同じ玄関で、私は一人で泣かないと決めた。
今夜は、王都中に見られながら、泣いてしまっている。
◇
人が引けたあと、私たちは、いつもの歩幅で夜道を歩いた。
どこへも急がない。用件もない。
「レギーナ嬢」
「はい」
「明日から、しばらく忙しくなりますね?」
「あら。何のご予定ですの?」
「……ご挨拶回りが、たぶん、王都中に」
春の夜道は、まだ少し冷える。それでも、風の中に土の匂いがあった。
「まあ。では、明日の夕方は?」
「……夕方は、いつもどおりに」
「ええ。いつもどおりに」
四年、この方は次の約束をしなかった。今夜、初めて、明日の夕方の話をしている。
私は、思わず笑う。
翌朝、うちの玄関の盆は、祝いの文で埋まった。昼には籠が二つに増え、夕方には、執事が新しい卓を出す羽目になる。




