28. 私が育てた
婚約が公になって三日で、うちの玄関は破綻した。
盆はとうに諦め、籠も諦め、卓を出し、卓が足りずに廊下へ敷布を敷いている。祝いの品と祝いの文が、玄関から食堂の入口まで、地層のように積もっている。
「本日より、玄関の間取りを変更いたします」
執事のエーバーハルトが、たいそう厳粛に宣言した。
「まあ。間取りまで?」
「はい。花瓶を廊下へ、傘立てを勝手口へ。……お嬢様、玄関というものは、増築ができませぬので」
うちの執事は、三年ぶんの意地で戦っている。
◇
困ったのは、品物より、人である。
祝いを述べに来てくださる方が、揃いも揃って、同じ主張を始めたのだ。
まず、王立歌劇場の支配人フォルクマール氏。
「馴れ初めは、うちの玄関でございます。四年前の初日、あの晩の幕間でございますからな。……つまり、うちが元祖でございます」
次に、老王女殿下からの文。
――あの子に「王都でいちばん隣に立ってほしい人」と名付けたのは、わたくしでしてよ。名付け親には、席次というものがございますわね?
そして、公爵家の家令ヴェルナー氏。
「観測記録なら、こちらにございます」
「……記録?」
「四年ぶんでございます。傘のお色、靴の踵、雨の日の会釈。日付入りで」
「お焼きになって」
「命に代えましても」
仕立て屋のオティーリエは工房ごと乗り込んできて、「あの色を仕立てたのはうちですよ」と胸を張り、馬車組合の親方ブルーノは「雨の日に濡らさなかったのは組合でごぜえます」と胸を張り、王宮菓子職人のランベルト氏に至っては「北の丘の話をしたのはわたしでございます」と、たいそう誇らしげである。
極めつけは、その全員が同じ日の午後に、うちの玄関で鉢合わせしたことである。
「あの晩の桟敷を三年守ったのは、うちでございますぞ」
「守るだけなら、どなたでもできますよ。あの方のお色を仕立てたのは、うちだけですからね」
「色より、命でごぜえます。雨の夜に濡らさなかったのは、組合でごぜえますから」
執事のエーバーハルトが、その真ん中で盆を捧げ持ったまま、微動だにせずに立っている。……この四年、この玄関でいちばん多くを見てきたのは、たぶんこの人である。
「エーバーハルト。あなたは、何か仰らないの?」
「わたくしは、玄関番でございますので」
その一言で、居合わせた全員が黙った。……勝負あり、である。
ともあれ、この方たちは揃って「私が育てた」と仰りたいらしい。
笑ってしまって、笑いながら、少し泣いた。
三年、私は待ち時間の始末をしていただけである。始末をしていただけの女の玄関に、いま、こんなに大勢が押しかけて、自分の手柄だと言い張っている。
――待ち時間というのは、いつの間にか、こんなに人を連れてくるものらしい。
あの三年、私はあの玄関で、独りだと思っていた。壁際に立って、涼んでいる顔を作って、誰にも数えられない一刻を数えている。
あのとき隣にいた人たちが、いま、私の玄関で言い争っている。……独りだったのは、たぶん、私の思い違いだったのだ。
◇
その晩、父が書斎から出てきた。
手には、何も持っていない。帳面も、算盤も、書き付けも。この人が手ぶらで娘の前に立つのを、私は初めて見た気がする。
「レギーナ」
「はい、お父様」
「四年前、お前を担保にしたのは、わしだ」
父の声は、思ったより静かである。
「良縁だと言い張ったよ。世間には、家と家の話だとな。……だがな。あれは、わしの帳尻だ」
「お父様」
「貸し付けの保全に、娘を一枚、載せたのだ。……済まなんだ」
父の背中が、初めて丸くなった。
この四年、私はこの人の背中を、いろんな角度から見てきたのである。借財を迎えた玄関で二度頭を下げた背中。受付簿を書いていた背中。竈の前でしゃがんでいた背中。……どれも、この人なりに、まっすぐだったのだ。
私は、少し考えてから答えた。
「お父様。その三年の途中で、わたくし、王都中と知り合いましたのよ」
「……む」
「玄関の外の方ばかりですけれど。皆さま、たいそう良い方ですわ」
父の喉が、ごくりと鳴る。
「ですから、お詫びは受け取りませんの」
「レギーナ」
「代わりに、お役目をひとつ差し上げますわ。……花嫁の父というお役目を、一等きちんと果たしてくださいませ」
父の目が、赤くなる。
この人は四年前、娘を紙に一枚載せた。載せた紙は、もう竈の中である。灰になった紙の代わりに、この人にはこれから、腕を貸すという役目がある。
……娘の腕を取って歩く父親には、担保も、帳尻も、要らない。
父は、しばらく口を開けたまま突っ立っている。
それから、鼻を盛大にすすって、「うむ」とだけ言って、書斎へ引き返していった。……夜中に、書斎の灯りが遅くまで点いていたことは、執事だけが知っている。
◇
王妃陛下からの「二人宛て」の招待状は、大きな夜会ではなく、私的なお茶の形で届いた。
――大勢の前で祝うと、あなたの婚約者が半刻で帰ってしまいそうですから。
添え書きに、そうあった。王家というのは、学ぶのが早い。
それから、もう一通。
ローテンブルク侯爵家、ヘリベルト様とリディア様の連名である。文面は短く、一行きりである。
――玄関に積む一通が、遅くなりました。
私はそれを読んで、しばらく手に持っている。
返事は、書かない。書かないことが、いちばん行儀のよい受け取り方であるような気がした。……三年の始末は、もう、ついている。
◇
夕方の散歩で、あの方は珍しく、半泣きだった。
「レギーナ嬢。……祝いの返礼で、ふた月先まで埋まりそうです」
「あら。半刻公爵が」
「半刻で辞去しても、日が足りないのです。……朝から晩まで、玄関の話ばかりで」
その言い方が、あんまり切実なので、私は吹き出した。
この方は、六年かけて、誰にも配りきれる形に自分の時間を刻んできた人である。その刻み方が、いま、初めて追いつかなくなっている。
「では、閣下」
「はい」
「埋まらない日を、先に決めておきましょうね」
あの方の足が、止まった。
「……先に、決める」
「ええ。予定というものは、後から入れるから、埋まりますの。先に空けておけば、誰も入って参りませんわ」
春の夕暮れの中で、あの方は、ゆっくりと頷いた。
三年、私は空いた時間を怖がってきたのである。この方は、空いた時間を配ってきた。……その二人が、生涯ぶんの「何もない日」を、先に取り置きしようとしている。
我ながら、贅沢な相談である。
◇
翌朝、玄関に採寸の職人が来た。
婚礼の支度が、いよいよ始まったのである。
29. 玄関だけは、自分たちで
婚礼の支度というものは、時間の徴発である。
これは、経験してみて初めてわかった。朝は衣装、昼は式次第、午後は席の相談、夕方は花の色。人が次から次へと予定を持ってきて、こちらの一日に置いていく。
三年前の私なら、たぶん全部受けて、また階段で倒れていた。
「本日の午後は、埋まらない日でございます」
執事のエーバーハルトが、玄関で来客を丁重に押し返す声が聞こえる。
「……埋まらない日、とは?」
「お二人が、先にお決めになった日にございます。何も入りません。何もいたしません」
「しかし、婚礼の――」
「何も、いたしません」
うちの執事は、一度覚えた作法を、たいそう厳格に運用する。
もっとも、その埋まらない日に私たちが何をしているかというと――辻のベンチに座って、雲を見ているだけである。
「レギーナ嬢」
「はい」
「……いまごろ、うちの家令が卒倒しております」
「あら。うちの執事は、たいそう得意げでしてよ」
春の雲は、冬より厚くて、動くのが速い。二人で黙って見上げていると、婚礼の支度も、王都の噂も、ずいぶん遠いところの話に思えてくる。
……この四半刻のために、あれだけの騒ぎを押し返している。我ながら、贅沢な話である。
◇
式の支度は、頼んでいないところから勝手に進んでいった。
花は、市場の女将たちが「うちが出す」と言って譲らない。楽は、メルヒオール氏の楽団が「初舞台の礼でございます」と言って譲らない。菓子はランベルト氏が王宮の厨房で腕をふるい、馬車は組合が総出で磨き上げ、レースはオティーリエの工房が寝ずに縫っている。
老王女殿下は、後見を自ら名乗り出た。
「わたくし、七十年生きて、初めて婚礼の後見をいたしますのよ。……せいぜい、格式ばった顔をして差し上げますわ」
「殿下。ありがとう存じます」
「およしなさいな。礼を言われる筋ではなくてよ」
殿下は扇を広げて、ご自分の顔を隠した。隠した扇の陰から、少しだけ声が漏れる。
「……二十年ぶりに頼みごとをされた身としては、これくらいは差し出しませんとね」
私が用意したものは、ほとんどない。
四年前、私は自分の婚約が「借財の始末」として組まれるのを、黙って見ているしかなかった。あのときの支度も、全部よそから来ている。……いまの支度も、全部よそから来ている。
同じ「よそから来た」なのに、こんなにも違う。
――あのときは、誰かの都合の中に、私が置かれていた。今度は、誰かが私を思い出してくれている。
◇
二人で決めたことは、ひとつだけだった。
「玄関だけは、自分たちで飾りましょう」
新居の玄関である。あの方は、たいそう真面目な顔で頷いた。
「では、花を」
「花は、市場の女将さんに叱られますわ。あちらが出すと仰っていますもの」
「……では、灯りを」
「灯りは、ようございますわね」
灯りは、三日かかった。
鉄の細工の職人のところへ二人で出向いて、型を三つに絞って、そこから動かなくなったのである。あの方は一つを指して「これは正確です」と仰り、次を指して「これは、あなたに似ています」と仰った。
「まあ。……どういう意味ですの?」
「灯りの向きが、外を向いております」
私は、その場でその型に決めた。
外を向いた灯りである。中を明るくするのではなく、扉の外に立つ人の足元を照らす型。……なるほど、この方は四年ぶんの玄関の目で、私を見ておいでらしい。
そういうわけで、私たちの婚礼の支度のうち、二人が手を下したのは、玄関の灯り一つである。
……我ながら、ずいぶん小さい仕事だ。小さくて、いちばん大事な仕事である。
◇
支度の合間に、私は三年ぶんを、一度だけ数え直してみた。
最初のすっぽかしの晩。針山を持って立った午後。雨の御者だまり。回廊の半日。控えの間の白鳥。譜めくりの夜。
どれも、待たされた時間である。あの三年の私は、その一つ一つを、失った時間だと思っていた。
……いまは、顔ぶれとして読める。
あの晩がなければ、支配人と話さなかった。あの午後がなければ、オティーリエは私の色を知らない。あの雨がなければ、親方の娘の婚礼に呼ばれなかった。あの半日がなければ、殿下は二十年ぶりの頼みごとを受け取っていない。
――あの三年がなければ、会えなかった人たちである。
もちろん、失ったものもある。十九から二十二の三年は、返ってこない。返ってこないけれど、その三年は、空っぽではなかった。
それだけは、いま、胸を張って言える。
◇
その頃、社交界の扇の内は、たいそう脱力していたという。曰く、あのお二人、式の相談を散歩でなさるんですって。曰く、席次も花も、みなさま勝手にお決めになるとか。曰く、公爵閣下は、玄関の灯りの型を三日も悩んでおいでだったそうよ。曰く、あちらの婚礼の招待状は、花嫁ご自身がお書きになったとか。……扇の内では、いちばん退屈な話がいちばん長持ちするものである。
◇
式の三日前、あの方が真新しい便箋を抱えて訪ねてきた。
「……教えていただきたいことが」
「まあ。何ごとですの?」
「招待状の、書き方です」
私は、思わず筆を落としそうになった。
「閣下。公爵家には、書式の控えが山ほどございますでしょう?」
「家の書式では、書けない用向きでして」
……ああ。
この方は、いま、私が三日三晩苦しんだのと同じ場所に立っておいでなのである。
「よろしいですわ。……では、宛名から、ですわね」
「宛名から、ですか?」
「ええ。わたくしも、先月覚えましたの」
あの方は、実に真面目な顔で羽根ペンを取った。取って、一行目で止まる。
「……止まりますね?」
「止まりますでしょう?」
「文例に、載っていない」
「載っておりませんの。……ですから、ご自分でお書きになるしかございませんわ」
あの方は、しばらく紙を睨んでいた。それから、諦めたように笑って、こう仰る。
「……三年、あなたはこれを、毎日していらしたのですね」
「文例のないことを、でございますか?」
「ええ。……文例のない場所に、立ち続けることを」
窓の外で、春の鳥が鳴いた。私は返事の代わりに、便箋をもう一枚、この方の前に置く。
春の日の差す窓辺で、二人で向かい合って便箋を広げている。
この一年、私はこの方から、待つことの作法を教わってきたのである。今日は、私が招く作法を教えている。……役目というものは、こんな風に、静かに入れ替わるものらしい。
◇
そうして、式の朝が来た。




