30. この玄関で
婚礼の朝、空はよく晴れた。
身内だけの式である。招いたのは、両家と、後見の老王女殿下と、玄関で縁のできた方々だけ。……そのつもりだった。
馬車が礼拝堂の前に着いたとき、御者が振り返って、実に嬉しそうに言う。
「お嬢様。外を、ご覧なせえ」
窓の外に、王都がいた。
通りの両側に、人が集まっている。招かれざる客ではない。誰も中に入ろうとせず、扉の外に立って、こちらを見ているだけである。花屋の女将、書店の主、灯り屋、糸屋、下町の女将さんたち、御者だまりの若い衆。
その若い衆の馬車には、小さな旗が立っていた。
あの雨の御者だまりで私が答えた、家紋の小旗である。……今日は、どの旗にも、レーヴェンシュタインの獅子が縫い付けてある。
喉の奥が、詰まった。
「……皆さま、お式にはお呼びしておりませんのに」
「へえ。見送りに来ただけでごぜえます」
御者は、鼻をすすって、それから胸を張った。
「玄関でお会いするのが、あっしらの筋でごぜえますから」
礼拝堂の前で、私は花嫁の衣装のまま、深く頭を下げる。
あの三年、私はこの人たちの玄関に立っていた。今日は、この人たちが私の玄関に立っている。……人望の実像というものを、私はこの一年でようやく覚えた。集めるものではない。向こう様が、勝手に持ってきてくださるものである。
◇
式のことは、あまり覚えていない。
覚えているのは、いくつかの断片だけである。父の腕が、震えていたこと。誓いの言葉のとき、あの方の声が一度だけ掠れたこと。老王女殿下が、扇の陰でずっと笑っておいでだったこと。
それから、指輪をはめる段になって、あの方の手が、あの晩の玄関と同じくらい震えていたこと。
誓いの言葉のあとで、私はふと、四年前の桟敷席のことを思う。
隣が空いたまま幕が下りたあの晩、私は自分の席の値打ちを疑った。誰の隣にも要らない女なのだ、と。……いまは、隣に人がいる。しかもこの人は、私の隣に座るまでに、六年ぶんの規則と、四年ぶんの玄関を越えてきたのである。
――ずいぶん、気の長い方と一緒になってしまった。
……六年、時間を等しく配ってきた人である。今日だけは、誰にも配らない。
◇
披露の宴は、盛大に始まり、盛大に手を焼かせる。
祝いの言葉が途切れず、卓のあいだを回るだけで、鐘が二つ鳴った。あの方の顔に、そろそろ「半刻公爵」の癖が出始めている。
そこへ、老王女殿下が扇でぱたぱたと風を送った。
「お行きなさいな」
「殿下?」
「宴はわたくしが引き受けます。……あなたたちの祝いは、外にありますわ」
殿下は、扇の先で、玄関のほうを指した。
「玄関で始まった二人でしょう? ……お行きなさい」
◇
そういうわけで、私たちは自分の婚礼を、半刻で抜けた。
春の夕暮れの道を、二人で歩く。
行き先はない。用件もない。すれ違う人が振り返って、それから笑って、何も言わずに道を空けてくれる。
私は、花嫁の衣装のまま、いつもの歩幅で歩いていた。あの方は、いつものように半歩遅れて、いつものように何も求めない。
「……一年ですわね?」
「はい」
「破棄されて、ちょうど一年」
あの晩、私は満座で捨てられた。捨てられて、翌朝、玄関に招待状が積み上がる。あれから一年である。長かった、と言うべきか、短かった、と言うべきか――たぶん、どちらでもない。
ちょうど、一年ぶんである。
◇
新居の玄関に着く頃には、日が落ちかけていた。
私たちが自分で選んだ灯りが、扉の脇で点いている。二人がかりで三日悩んだ、なんの変哲もない灯りである。
扉を開けると――玄関の盆に、もう招待状が積んであった。
「まあ」
「……早い」
「王都は、お仕事が早うございますのね」
新しい家の、新しい盆である。その一番上に、見覚えのある封蝋が載っていた。
私の色の蝋ではない。獅子の紋の、公爵家の封蝋である。
顔を上げると、あの方が、たいそう気まずそうに空を見ていた。
◇
封を切る。
中の一通には、生涯で初めてこの方が書いた招待状の文面が、几帳面な字で記してあった。
宛名は、レギーナ・レーヴェンシュタイン。
日どりは、明日の夕方。
場所は、この玄関。
――御用の趣。何もいたしません。
――期限。生涯。
紙を持つ手が、震える。
この一年、私は招待状を受け取り続けてきたのである。どれも、私に何かを求める紙だった。一番に知らせたい。一番に袖を通してほしい。一番に来てほしい。……有難くて、そして、少しだけ重かった。
この一通だけが、何も求めていない。
求めないまま、生涯を空けておく、と書いてある。
「……閣下」
「ジークヴァルト、です。そろそろ」
「まあ。……ジークヴァルト様」
名を呼ぶと、あの方の肩が、ほんの少し動く。
……出会ってからずっと、私はこの方を「閣下」と呼んできた。呼ばれるほうも、たぶん、名で呼ばれることに慣れていない。玄関でしか会わなかった二人には、名を呼び合う稽古が、まだ足りていないのである。
これから、いくらでも時間はある。
私は、その一通を胸に当てた。
「お受けいたしますわ。生涯、お先の予定は、何もございませんの」
◇
日が落ちて、玄関の灯りが、二人の足元を照らしている。
あの方は、いつもの正確な会釈をした。
「では、また――」
そこで、言葉が止まる。
止まって、それから、あの方は少し困った顔で笑った。長らく使い続けた口上の、行き先がなくなってしまったのである。
「……もう、『どこかの玄関で』とは、申しませんのね?」
「ええ」
あの方は、扉の内側の灯りを、ちらりと見た。
「――この玄関で」
◇
そう言って、この人は、私の隣で敷居を越えた。
四年、玄関の外に立ち続けた人である。半歩後ろでもなく、扉の向こうでもなく、今夜からは、内側に。
扉を閉める。玄関の内に、二人で立っている。
盆の上には、まだ返事を待つ紙が積んである。明日から、また忙しくなるのだろう。返事を書いて、玄関に立って、誰かの隣で困りごとを一つ伺って。
……けれど、明日の夕方だけは、何も入らない。
盆の紙を一枚だけ横へ寄せて、私はその下に、公爵家の封蝋の一通を仕舞い直した。……いちばん上に載せておくと、明日の朝、執事が仕分けてしまいそうだからである。
この一年で覚えたことを、最後に一つだけ書いておく。
待たされた三年は、返ってこない。返ってこないけれど、あの三年が連れてきた人たちは、いま全員、この玄関の外にいる。そして、招待状を持たずに来たあの人は――もう、外にはいない。
玄関の灯りが、扉の隙間から細く伸びていた。
その光の先には、何も書かれていない明日がある。
――何の予定もない明日というものは、こんなにも、満ちているのである。




