第五号 信じるための証拠
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
悠真は一睡もできなかった。
机の上にはノートとスマートフォンが置かれている。ノートには昨夜の出来事が何度も書き直され、同じ言葉に線が引かれていた。
『本人かどうかは不明』
何度書いても、答えは変わらなかった。
玄関の外にいたのは蓮だったのか。
それとも、蓮の声をまねた何かだったのか。
そして、最後に届いたメッセージ。
『頼む。俺の声が聞こえても、絶対に扉を開けるな』
悠真はスマートフォンを手に取った。
『昨日の夜、家の前に来たのか?』
送信してから、画面を見つめる。
既読はつかない。
「……くそっ」
思わず声が漏れた。
わからないことばかりだ。
怪物の正体も、蓮の居場所も、空に開いた亀裂の意味も。
何ひとつわからないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
悠真はノートを開き、昨日までの記録を読み返した。
怪物は音に反応する。
扉の取っ手を動かす。
人間の声をまねる可能性がある。
そして、蓮は怪物が自分に近づくと逃げたと言っていた。
そこで、悠真は手を止めた。
ひとつ、気になることがある。
昨日、玄関の外から聞こえた声は、最初から最後まで自分に扉を開けさせようとしていた。
一方、蓮から届いたメッセージは、扉を開けるなと警告していた。
もし、玄関の外にいたのが蓮なら、なぜ自分自身のメッセージで警告する必要があるのだろう。
答えは簡単だった。
玄関の外にいたものと、メッセージを送った相手は別だった。
もちろん、それも推測にすぎない。
けれど、今の悠真には、推測をひとつずつ積み重ねることしかできなかった。
「悠真、起きてる?」
母が部屋の扉をノックした。
「起きてるよ」
「朝ご飯、食べられそう?」
「うん」
返事をしてから、悠真はノートを閉じた。
母には、昨夜のことを全部話すべきだろうか。
迷った末に、話すことにした。
食卓に座ると、悠真は玄関の外から蓮の声が聞こえたこと、そして本人かどうか確かめられなかったことを説明した。
母は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
「……それで、扉は開けなかったのね」
「うん」
「そう」
母はしばらく考え込んでいた。
「怖かったでしょう」
悠真はうつむいた。
「……怖かった」
「そうよね」
母は無理に励まそうとはしなかった。
「でも、開けなかったことを責めなくていいと思う。何がいるかわからないのに、確かめるためだけに危険を冒す必要はないもの」
「でも、もし本当に蓮だったら?」
「それは……」
母は言葉を止めた。
簡単に答えられる問題ではない。
もし本当に蓮だったなら、助けてあげたかった。
それでも、母は静かに言った。
「本当に蓮くんなら、きっとまた連絡してくれる。今は、あなたたち二人が無事でいることを考えましょう」
悠真はうなずいた。
その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。
朝食を終えたあと、二人は家にある食料と水を確認した。
飲料水は、未開封のペットボトルが数本。
食料は米、缶詰、乾麺、レトルト食品。
数日なら何とかなるが、長くはもたない。
「買い物に行くのは危ないわよね」
母が言った。
「うん。外の様子がわからないから、今はやめたほうがいいと思う」
悠真はノートに在庫を書き出した。
食料の量を確認し、使う順番を考える。
水は飲む分だけでなく、手を洗ったり、食器を洗ったりする分も必要だ。
食べ物を一度に使い切らないように、毎日の量も決めなければならない。
当たり前の生活に必要だったものが、今では貴重な資源になっていた。
そのとき、家の外から大きな音が聞こえた。
ガシャーン!!
母と悠真は顔を見合わせた。
続いて、誰かが叫ぶ声がした。
「逃げろ! こっちに来るな!」
悠真は窓へ向かいかけた。
「悠真、待って」
母に腕をつかまれた。
「外を見るだけだよ」
「昨日のこと、もう忘れたの?」
悠真は立ち止まった。
そうだった。
外を確認するだけでも、こちらの姿を見られる危険がある。
二人はカーテンの隙間から、そっと道路をのぞいた。
道路の向こう側を、男が走っていた。
昨日、玄関の前にいた男とは別の人物だ。
その後ろを、黒い影が追いかけている。
男は何度も転びそうになりながら、必死に走っていた。
「助けてくれ! 誰か!」
叫び声が住宅街に響く。
悠真は拳を握りしめた。
昨日と同じだ。
誰かが助けを求めている。
そして、自分は家の中にいる。
「……助けに行くの?」
母が尋ねた。
悠真はすぐには答えられなかった。
蓮なら、迷わず飛び出していくだろう。
でも、悠真が同じことをすれば、二人とも危険になるかもしれない。
男が道路の角を曲がった。
黒い影も、その後を追って消えた。
しばらくして、叫び声が途切れた。
静寂が戻る。
悠真はカーテンから手を離した。
助けられなかった。
いや、助けようとすらしなかった。
自分の判断が正しかったのか、わからない。
ただ、怖かった。
自分が死ぬことも、母を失うことも。
「……ごめん」
悠真がつぶやくと、母は首を横に振った。
「謝らなくていいの」
「でも、あの人……」
「あなたひとりで、すべての人を助けることはできないわ」
母の声は優しかった。
「それでも、助けられる方法を考えることはできる。今はそれでいいんじゃないかしら」
悠真は顔を上げた。
助けられる方法を考える。
蓮のように強くなくても。
怪物と戦う力がなくても。
自分にできることが、何かあるのかもしれない。
その日の昼過ぎ。
スマートフォンに、ようやく返信が届いた。
『昨日の夜、そっちには行ってない』
蓮からだった。
悠真はすぐに返信した。
『じゃあ、あれは何だったんだ?』
しばらくして、返事が届く。
『わからない。でも、俺の声だったんだろ?』
『うん』
既読がついた。
それから、蓮は少し時間を置いて、こう送ってきた。
『たぶん、俺だけじゃない』
悠真は画面を見つめた。
『どういう意味?』
『俺が見た怪物の中に、人間みたいな動きをするやつがいた』
『でも、人間じゃなかった』
『それと、俺の近くにいると、変なことが起きる』
そこでメッセージが途切れた。
悠真は急いで打ち込んだ。
『変なことって何だよ』
返事はすぐに来なかった。
一分。
二分。
五分。
そして、ようやく画面が光った。
『俺の影が、勝手に動くんだ』
悠真は息をのんだ。
『最初は気のせいだと思った。でも、違う』
『俺が止まっていても、影だけが動く』
『それに、鏡を見ると、たまに俺の顔が知らない人間に見える』
悠真の指が止まった。
何を言えばいいのかわからなかった。
蓮は、いったい何に変わりつつあるのだろう。
「……蓮」
悠真は小さくつぶやいた。
画面に、新しいメッセージが表示された。
『悠真。ひとつだけ約束してくれ』
『俺を探すために、無茶をしないでくれ』
悠真は、しばらく画面を見つめた。
それから、ゆっくりと返信した。
『約束はできない』
すぐに既読がついた。
『おい』
『でも、無茶はしない』
『ちゃんと考えて、生き残る』
『だから、お前も生きてろ』
送信してから、悠真はスマートフォンを握りしめた。
返事はすぐに来なかった。
けれど、しばらくして。
『……ああ』
たった一文字のような、短い返事が届いた。
それでも、悠真には十分だった。
蓮はまだ生きている。
少なくとも、今は。
悠真はノートを開き、新しいページに書き込んだ。
『目標』
『生き残ること』
『蓮を探すこと』
『そして、助けられる人を助けること』
最後の一文を書いたあと、悠真はペンを置いた。
窓の外では、夕日が街を赤く染めていた。
一見すると、世界は昨日までと何も変わらない。
けれど、遠くの空には、黒い亀裂が残っている。
その亀裂の向こう側で、何かが動いた。
悠真は気づかなかった。
ただ、ノートを閉じて、明日の準備を始めた。
彼はまだ知らない。
自分が記録している小さな異変の数々が、やがて世界の真実へとつながっていくことを。
そして、いつか自分自身が、その異変の中心に立つことになることを。




