第四号 親友の声
「……ユウ、マ」
暗闇の中で、悠真は息を止めた。
聞き間違えるはずがなかった。
何度も一緒に遊び、何度も喧嘩して、何度もくだらない話をしてきた。小さい頃からずっと隣にいた親友の声だ。
黒瀬蓮。
間違いない。
「……蓮?」
声に出しかけて、悠真は慌てて口を押さえた。
返事をしてはいけない。
そう思った理由は、自分でもわからなかった。ただ、さっきまでの出来事が頭をよぎった。顔のない怪物。こちらの反応をうかがうような動き。そして、扉の向こうから聞こえる、あまりにも都合のよすぎる声。
本当に蓮なのか。
もし違ったら。
悠真はベッドから降り、音を立てないように部屋の扉を開けた。
廊下は暗い。階下からも、母の寝室からも物音はしなかった。
玄関へ向かう途中、悠真はスマートフォンを確認した。
時刻は午前二時十三分。
蓮からの最後のメッセージは、数時間前の『ありがとう』だった。
新しい通知はない。
悠真は玄関から少し離れた壁際に身を寄せた。
「……悠真」
また聞こえた。
今度は、はっきりと。
「頼む……開けてくれ」
声が震えている。
まるで、本当に助けを求めているようだった。
悠真は唇をかんだ。
もし本当に蓮なら、ここで見捨てることになる。
あいつは、ひとりで何かと戦っているのかもしれない。怪我をしているのかもしれない。誰にも助けてもらえず、ようやく自分の家までたどり着いたのかもしれない。
なのに、自分は扉一枚を隔てて、ただ疑っている。
「……蓮。お前なのか?」
声を抑えて尋ねた。
扉の向こうは、しばらく静かだった。
そして。
「そうだよ」
返事があった。
「俺だ。蓮だ」
悠真は目を閉じた。
それだけでは、確かめられない。
「……俺たちが小学生のとき、初めて一緒に行った場所、覚えてるか?」
自分でも、なぜそんな質問をしたのかわからなかった。
ただ、何かを確かめたかった。
扉の向こうで、かすかな息遣いが聞こえる。
「……公園だろ」
悠真の胸が跳ねた。
「お前が転んで、膝をすりむいた。泣くのを我慢してたくせに、家に帰ってから大騒ぎしてさ」
思わず、笑いそうになった。
確かにそうだ。
あの日、蓮は自分の傷を見て、なぜか自分よりも慌てていた。
「……そうだよ」
悠真はつぶやいた。
「俺だよ、蓮」
扉の向こうの声が、少しだけ明るくなった。
「お願いだ。開けてくれ」
悠真は鍵へ手を伸ばした。
あと少しで届く。
鍵を開けて、扉を開けるだけだ。
けれど、その瞬間。
昼間の光景が脳裏によみがえった。
顔のない怪物が、玄関の前に立っていた。
あいつは、扉の取っ手を動かした。
まるで、人間がどうするのかを学ぶように。
そして、今。
扉の向こうにいる何者かは、悠真の質問に答えた。
本当に蓮だから答えられたのか。
それとも、何か別の方法で知ったのか。
悠真の手が止まった。
「……蓮。今、どこにいるんだ?」
「お前の家の前だよ」
「違う。何があったんだ?」
沈黙。
「……怪物に追われた。逃げてきたんだ」
「怪我は?」
「少しだけ」
「どこを?」
また沈黙した。
ほんの数秒。
それだけなのに、悠真にはひどく長く感じられた。
「……腕だよ」
悠真は眉をひそめた。
蓮が怪我をしていること自体は不思議ではない。あれほどの異変が起きているのだから、傷のひとつくらい負っていてもおかしくない。
だが、さっき蓮は、怪物に襲われた人を助けようとしたと話していた。
そして、怪物は蓮が近づくと逃げたとも言っていた。
何かがおかしい。
「蓮。俺、今から警察に連絡する」
とっさに口から出た言葉だった。
扉の向こうの気配が変わった。
「……なんで?」
「外が危険だからだ。お前が本当に蓮なら、助けが来るまで待ってくれ」
「悠真」
声が低くなった。
「開けてくれよ」
さっきまでの弱々しい声とは違う。
どこか、怒っているようにも聞こえた。
「俺だって、怖いんだよ」
悠真は答えられなかった。
「ひとりなんだ。もう、誰もいないんだよ」
扉の向こうから、何かが擦れる音がした。
「なあ、悠真。お前だけは、俺を信じてくれるって言っただろ?」
その言葉に、悠真の心が揺れた。
蓮は確かにそう言った。
もし自分が変わってしまっても、信じてくれと。
けれど、あの言葉は、こんな状況で扉を開けろという意味だったのだろうか。
違う。
悠真はそう思った。
あのときの蓮は、何かを恐れていた。
自分自身のことを。
だからこそ、悠真にあんな言葉を残したのではないか。
「……蓮」
悠真は、扉を見つめた。
「お前が本当に蓮なら、俺はお前を信じる」
扉の向こうが静かになった。
「でも、今は開けられない」
言い終えた瞬間、玄関の向こうから音が消えた。
息遣いも、衣擦れも、何も聞こえない。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
悠真はその場に立ち尽くした。
やがて、ゆっくりと後ずさる。
そして、玄関から目を離さないまま、スマートフォンを取り出した。
蓮とのメッセージ画面を開く。
『今、家の前にいるのか?』
送信。
既読はつかなかった。
一分。
二分。
五分。
何も返ってこない。
悠真は、昼間に届いたメッセージを見返した。
『俺が近づいたら、怪物が逃げた』
『助けようとした人が、俺を見て逃げたんだ』
そして、数時間前の『ありがとう』。
あれは、本当に蓮だったのだろうか。
考えたくなかった。
もし、さっきの声が蓮だったなら。
自分は、親友を家に入れなかったことになる。
もし、違ったなら。
あの何者かは、蓮の声をまねて、自分を扉の前まで誘い出そうとしたことになる。
どちらにしても、嫌な予感しかしなかった。
そのとき、二階から足音が聞こえた。
「悠真……?」
母が、寝ぼけた声で呼んでいる。
悠真は急いで玄関から離れた。
「どうしたの? こんな時間に」
「……何でもないよ。ちょっと目が覚めただけ」
母は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
悠真は母を部屋に戻し、自分も寝室へ向かった。
けれど、眠れるはずがなかった。
朝になってから、悠真はもう一度、玄関を確認した。
扉には、目立った傷はない。
鍵も壊れていない。
ただ、扉の下に、黒い粉のようなものが少しだけ落ちていた。
悠真はしゃがみ込み、それをじっと見つめた。
指で触れる気にはなれなかった。
昨日まで、こんなものはなかったはずだ。
ノートを開き、震える手で記録する。
『午前二時十三分頃、玄関の外から蓮の声が聞こえた』
『本人かどうかは不明』
『こちらの質問に答えたが、本人である証拠にはならない』
少し考えてから、最後に書き足した。
『声や記憶だけでは、相手を信用しない』
書き終えたところで、悠真はスマートフォンを手に取った。
蓮との画面を開く。
新しいメッセージが届いていた。
送信時刻は、午前二時十四分。
『悠真。今どこにいる?』
悠真の背筋が凍った。
あの声が玄関の外から聞こえたのは、午前二時十三分。
そして、このメッセージは、その一分後に送られている。
もし、玄関の外にいたのが本当に蓮なら。
なぜ、家の前にいるときに、悠真の居場所を尋ねたのか。
そして、もし、あれが蓮ではなかったなら。
なぜ、蓮がその直後にメッセージを送ってきたのか。
悠真は、画面を見つめたまま動けなかった。
さらに、続けて一通のメッセージが届いた。
『頼む。俺の声が聞こえても、絶対に扉を開けるな』
悠真は顔を上げた。
玄関の扉は、静かに閉じられている。
その向こうに何がいるのか、今はもうわからない。
ただひとつ、確かなことがあった。
この世界では、親友の声さえ、信じるための証拠にはならなくなったのだ。




