第六号 最初の一歩
世界が壊れてから、五日目。
悠真は朝五時半に目を覚ました。
目覚まし時計は鳴っていない。そもそも、学校へ行く必要もなくなった。
それなのに、身体はいつもと同じ時間に目を覚ました。
習慣というものは、世界が変わっても簡単には消えないらしい。
「……学校、どうなったんだろう」
つぶやいてから、悠真は苦笑した。
今さら学校の心配をしている場合ではない。
それでも、いつもの教室が頭に浮かんだ。机に突っ伏して寝ているクラスメイト。授業中にこっそり回ってくる手紙。休み時間の騒がしさ。
その中に、蓮もいた。
もう何日も会っていないのに、最後に見た姿だけが鮮明に残っている。
右手に浮かんだ黒い印。
怪物を吹き飛ばした、信じられない力。
そして、自分を探すなと告げたメッセージ。
悠真はベッドから起き上がり、顔を洗った。
考えているだけでは何も変わらない。
今日は、家の周囲を調べる。
もちろん、危険があればすぐに引き返す。
それが昨夜決めたことだった。
朝食のあと、悠真は母に計画を話した。
「家の周りを少しだけ見てきたい」
母の手が止まった。
「外に出るの?」
「うん。でも、遠くには行かない。道の様子と、近くに人がいるかどうかを確認したいんだ」
「危険じゃない?」
「危険だと思う。だから、無理はしない。変なものを見たらすぐ戻る」
母はしばらく考えていた。
「……ひとりで行くの?」
「すぐ近くだから」
「それでも心配よ」
そう言われると、何も言い返せなかった。
母が心配するのは当然だ。
自分だって、外へ出るのは怖い。
けれど、家の中に閉じこもったままでは、いずれ食料も水も尽きる。
そのときになって初めて外へ出るほうが、よほど危険だろう。
「まずは玄関から道路を見るだけにする。それで大丈夫そうなら、少しだけ進む」
悠真はそう説明した。
母は最後まで不安そうだったが、やがて小さくうなずいた。
「約束して。少しでも危険だと思ったら、必ず帰ってきて」
「約束する」
悠真は鞄に必要なものを入れた。
水の入ったペットボトル。
懐中電灯。
ノートとペン。
それから、家の鍵。
武器になりそうなものも考えたが、結局、家にあった短い金属製の工具を鞄の底に入れた。
これで怪物に勝てるとは思っていない。
あくまで、何かあったときの最後の手段だ。
玄関の前に立つ。
扉の向こうは静かだった。
あの夜の声を思い出し、悠真は一度だけ深呼吸した。
鍵を開ける。
扉を少しだけ開き、外の様子をうかがう。
誰もいない。
道路にも、玄関の前にも、怪物の姿はなかった。
悠真はゆっくりと外へ出た。
空気が冷たく感じられた。
いつもの住宅街。
見慣れた家々。
道端に置かれた植木鉢。
そのすべてが、どこか遠い世界のもののようだった。
道路の端には、車が一台放置されていた。運転席のドアは開いたまま。車内には誰もいない。
悠真は近づかず、離れた場所から観察した。
地面には、何かを引きずったような跡が残っている。
黒い粉も、ところどころに落ちていた。
「……やっぱり、いるんだ」
口に出すと、現実が少しだけ重くなった。
悠真はノートを取り出し、気づいたことを書いた。
『家の前の道路に黒い粉が落ちている』
『車が放置されている』
『引きずったような跡がある。何の跡かは不明』
記録を終え、周囲を見回す。
誰もいない。
静かすぎる。
遠くで犬が鳴いた。
その声に、悠真は顔を上げた。
犬の鳴き声は一度だけ聞こえ、そのあと途切れた。
悠真はしばらく待った。
何も起こらない。
ここに留まる理由はない。
家から見える範囲だけでも、十分な情報は得られた。
そう判断して戻ろうとしたとき、道の向こうから声がした。
「……誰か、いるのか?」
悠真は足を止めた。
電柱の陰から、ひとりの少年が姿を現した。
自分と同じくらいの年齢に見える。
制服を着ているが、シャツは汚れ、片方の靴がない。頬には擦り傷があり、疲れ切った顔をしていた。
少年は悠真を見ると、警戒するように一歩下がった。
「……人間?」
「そうだけど」
答えてから、悠真は少し後悔した。
相手が人間かどうか確かめる方法など、自分にもわからない。
少年も同じことを考えたのか、しばらく黙っていた。
「……名前は?」
少年が尋ねた。
「水瀬悠真」
「俺は、佐伯直人」
直人は周囲を見回してから、悠真に近づいた。
「食べ物、持ってない?」
悠真はすぐには答えなかった。
食料は限られている。
母と二人で生き延びるためにも、簡単に分けるわけにはいかない。
けれど、目の前の少年は明らかに疲れ切っていた。
「……最後に食べたのはいつ?」
「昨日の朝」
「家族は?」
直人は視線を落とした。
「わからない。逃げるときに、はぐれた」
それ以上、悠真は尋ねなかった。
「少し待ってて」
家に戻り、母に事情を説明する。
母は迷わず、保存していたビスケットと水を少し持ってきた。
「たくさんは渡せないけれど、これくらいなら」
「ありがとう」
悠真はそれを受け取り、直人のもとへ戻った。
直人はビスケットを受け取ると、しばらくじっと見つめた。
それから、何かをこらえるようにうつむいた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
直人は急いで食べようとしたが、悠真は慌てて止めた。
「ゆっくり食べたほうがいい。水も一気に飲まないで」
直人は驚いた顔をしたあと、言われたとおりにした。
食べ終わると、少しだけ表情が落ち着いた。
「……助かった」
「どこから来たの?」
「駅の向こう。昨日、怪物に追いかけられて、ずっと逃げてた」
「怪物を見たの?」
「見たよ。何匹もいた。人間みたいなやつもいた」
悠真の背筋が冷たくなった。
「人間みたいなやつ?」
「うん。でも、顔が変だった。こっちを見てるのに、目が合ってる感じがしないんだ」
昨夜の出来事がよみがえる。
蓮の声をまねた何者か。
顔のない怪物。
やはり、あれは自分の家だけで起きていることではない。
「……ここも危ないと思う」
直人が言った。
「昨日、遠くで大きな音がしたんだ。そのあと、黒い霧みたいなのが道を流れてきて……」
「黒い霧?」
「うん。そっちへ行った人が、急に倒れたんだ。何が起きたのかはわからないけど」
悠真はノートを取り出した。
「その場所、わかる?」
直人はうなずき、道路の先を指さした。
「この先。大きな交差点の近く」
悠真はその方向を見た。
今すぐ確かめに行くのは危険だ。
でも、黒い霧については記録しておく価値がある。
「教えてくれてありがとう。俺も、わかったことがあったら伝えるよ」
直人は少しだけ目を見開いた。
「……いいのか?」
「何が?」
「俺と、また会っても」
悠真は意味がわからず、首をかしげた。
直人は気まずそうに視線をそらした。
「俺、逃げてばっかりだから。誰かを助けることもできなかったし、何もできなかった」
その言葉に、悠真は返事を迷った。
自分も同じだった。
昨日、助けを求める人が走っているのを見たのに、何もできなかった。
蓮のように強くなれたら。
そう考えたこともある。
けれど、今の自分にできることは、強くなることではなく、まず生き残ることだった。
「俺だって、何もできてないよ」
悠真は正直に言った。
「でも、何が起きてるのか知ろうとはしてる。次に何かあったとき、少しでもましな判断ができるように」
直人は黙って聞いていた。
「だから、もしまた会ったら、そのときは一緒に考えよう」
悠真はそう言った。
直人はしばらくして、小さくうなずいた。
「……わかった」
二人は別れた。
直人は駅とは反対の道へ歩いていった。悠真はその背中を見送り、家へ戻った。
玄関の扉を閉め、鍵をかける。
それだけで、少しだけ安心した。
「どうだった?」
母が尋ねた。
「人に会った。俺と同じくらいの年齢の男の子」
「大丈夫そうだった?」
「うん。たぶん」
悠真はノートを開き、直人から聞いた話を書き留めた。
『佐伯直人。近隣で生存している少年』
『駅の近くで黒い霧を目撃』
『霧の近くにいた人が倒れたという証言。原因は不明』
書き終えたあと、悠真は窓の外を見た。
遠くの空には、あの亀裂がある。
昨日より広がったのかどうかは、まだわからない。
ただ、その向こう側に何かがあるという感覚だけが、日に日に強くなっていた。
悠真はノートの最後のページを開いた。
そこには、最初に書いた目標が残っている。
『生き残ること』
『蓮を探すこと』
『助けられる人を助けること』
悠真は、その下に新しい一文を書き足した。
『ひとりで生き残ることだけが、正解とは限らない』
ペンを置いたとき、スマートフォンが震えた。
蓮からのメッセージだった。
『悠真。ひとつ、わかったことがある』
悠真はすぐに画面を開いた。
続けて、もう一通届く。
『あの黒い印、昨日より広がってる』
そして、最後の一文。
『それと、俺の中から、知らない声が聞こえる』
悠真は画面を見つめたまま、動けなかった。
蓮の身に起きていることは、少しずつ悪化している。
そして、自分はまだ、その理由を何ひとつ知らない。
それでも。
悠真は返信欄を開いた。
『何があっても、必ず見つける』
送信してから、ノートを閉じた。
今はまだ、何の力もない。
何ができるのかもわからない。
それでも、最初の一歩は踏み出した。
親友を探すための、長い道のりの最初の一歩を。




