第二号 生き残るための条件
世界が壊れてから、四日目。
朝、目を覚ました悠真は、しばらく天井を見つめていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと変わらない。遠くから聞こえる鳥の声も、近所の家から聞こえる生活音も、昨日までと同じだった。
なのに、もう以前の日常には戻れない。
スマートフォンを手に取り、蓮とのメッセージ画面を開く。
最後のメッセージは、三日前のまま。
『悠真。もし俺が変わってしまっても、お前だけは、俺を信じてくれ』
何度読み返しても、意味がわからなかった。
変わるって、どういうことだ。
あの蓮が、誰かを傷つけるような人間になるはずがない。困っている人を見つければ、危険を顧みず助けに行く。昔からそういうやつだった。
だからこそ、心配だった。
蓮が何かに巻き込まれているのなら、助けに行きたい。
でも、今の自分に何ができる?
考えても答えは出なかった。
「悠真、ご飯できたわよ」
母の声が階下から聞こえた。
「今行く」
返事をして、悠真はノートを開いた。
昨日の夜、思いつくままに書き出した異変の記録。その最後に、新しい項目を付け加える。
『生存のために必要なこと』
一、食料と水を確保する。
二、危険な場所には近づかない。
三、情報を集め、記録する。
四、無理をしない。
五、蓮の居場所につながる情報を探す。
最後の一行を書き終えたところで、悠真はペンを止めた。
これで本当に生き残れるのだろうか。
わからない。
けれど、何も考えずに外へ出るよりはましなはずだ。
ノートを鞄に入れ、悠真は階段を下りた。
食卓には、トーストと目玉焼き、それから小さなサラダが並んでいた。
「お父さん、まだ連絡ないの?」
母が静かに尋ねた。
「昨日の電話からは、何も」
悠真は首を横に振った。
父は無事だと言っていた。少なくとも、電話をしてきたときは。
それでも、いつまた連絡が途絶えるかわからない。
「お父さんもきっと大丈夫よ」
母はそう言って微笑んだ。
その笑顔が、いつもより少しだけぎこちなく見えた。
悠真は何も言えなかった。
食事を終えると、母は玄関の近くに置いてあった買い物袋を手に取った。
「ちょっと外を見てこようと思うの。近所の人たちも心配だし」
「待って。ひとりで行くの?」
「すぐそこよ。大丈夫」
「でも……」
「悠真は家にいて。何かあったら、すぐ戻るから」
母はそう言って、玄関の扉に手をかけた。
悠真は引き止めようとして、言葉を飲み込んだ。
外の状況はわからない。
母の言うとおり、家の周辺だけなら安全かもしれない。
でも、もし何かあったら。
「……スマホ、持っていって。何かあったらすぐ電話して」
「わかったわ」
母が出ていったあと、悠真は玄関の扉を閉めた。
そして、鍵をかけた。
たったそれだけの動作なのに、妙に重い音がした。
家の中が静かになる。
悠真は窓から外を見た。
道路には、放置された自転車が一台倒れていた。少し離れた場所には、誰かが落としたらしい買い物袋が転がっている。
その中身は、もう空だった。
人の姿はない。
いや、正確には、見えないだけなのかもしれない。
悠真は窓から離れ、鞄を肩にかけた。
家にある食料は、何日もつだろう。
母が戻ってきたら、備蓄を確認しよう。
それから、近所の様子を少しずつ調べる。
危険があるなら、避ける方法を考える。
今できることは、それくらいだった。
そのとき、玄関の外から音がした。
コン、コン。
誰かが扉を叩いている。
悠真は動きを止めた。
「……誰?」
返事はない。
コン、コン。
もう一度、音がした。
母だろうか。
いや、帰ってくるには早すぎる。
悠真は足音を立てないように玄関へ近づき、扉の横にある小さな覗き穴から外を見た。
そこには、ひとりの男が立っていた。
見覚えのない男だった。
年齢は三十代くらい。服は汚れ、右腕を押さえている。顔色も悪かった。
男は扉を叩くのをやめ、周囲を何度も振り返った。
そして、ようやく口を開いた。
「……誰か、いませんか」
声はかすれていた。
「お願いです。助けてください」
悠真は息をのんだ。
男の背後、道路の向こう側。
電柱の影に、何かが立っていた。
人間の形をしている。
だが、頭が不自然に傾き、腕が地面に届きそうなほど長い。
そいつは男を見ていた。
いや、違う。
その顔らしき部分が、ゆっくりとこちらへ向いた。
覗き穴越しに、目が合った気がした。
悠真は反射的に身を引いた。
心臓がうるさい。
息をすることさえ忘れそうだった。
あの化け物は、まだこちらに気づいていないのか。
それとも、最初から気づいているのか。
扉の向こうで、男が再び声を上げた。
「お願いです! 誰か……!」
悠真は拳を握りしめた。
助けなければ。
そう思った。
けれど、扉を開ければ、あの化け物まで家に入ってくるかもしれない。
男を見捨てれば、助かる可能性がある。
助けようとすれば、自分も母も危険にさらされる。
どうすればいい。
蓮なら、きっと迷わず扉を開けるだろう。
目の前で困っている人を放っておけない。自分が傷つくことも恐れない。
でも、悠真は蓮じゃない。
自分には、あいつのような力も勇気もない。
だからこそ、考えなければならなかった。
悠真は玄関から離れ、窓のそばへ移動した。
化け物の位置を確認する。
電柱の影から、少しだけ動いている。
男との距離は、およそ十メートル。
家の玄関までは、さらに数メートル。
男がこちらへ逃げ込めば、化け物も追ってくるかもしれない。
なら、別の場所へ誘導できれば。
悠真は台所へ向かい、棚の中を探した。
手に取ったのは、金属製の空き缶だった。
これで化け物の注意をそらせるだろうか。
わからない。
でも、何もしないよりは可能性がある。
悠真は裏口へ向かい、扉の鍵を確認した。
外へ出るつもりはない。
あくまで、家の中から音を出すだけだ。
缶を握りしめ、悠真はもう一度、玄関のほうへ耳を澄ませた。
男の声が聞こえる。
「誰か……助けて……」
その声が、少しずつ弱くなっていく。
悠真は目を閉じた。
そして、缶を床に落とした。
ガシャン、と大きな音が響いた。
男が息をのむ音がした。
電柱の向こうにいた化け物が、ぴたりと動きを止める。
次の瞬間、その長い腕が、ゆっくりと音のした方向へ伸びた。
悠真は床に落ちた缶を見つめた。
成功したのか。
それとも、ただ音に反応しただけなのか。
まだわからない。
けれど、化け物の注意がわずかにそれた。
その隙に、男が走り出す。
足を引きずりながら、道路の反対側へと逃げていった。
化け物は男を追おうとした。
しかし、数歩進んだところで、再び動きを止めた。
そして、ゆっくりと首を回した。
今度は、まっすぐ悠真の家を見ていた。
悠真は息を止めた。
カーテンは閉めていない。
窓越しに、化け物の姿が見える。
その顔には、目も鼻も口もない。
それなのに、確かにこちらを見ている。
やがて、化け物は一歩、こちらへ近づいた。
悠真は後ずさった。
もう一歩。
さらに一歩。
化け物は、玄関へ向かって歩き始めた。
その瞬間、家の奥から母の声がした。
「悠真? ただいま」
玄関の鍵が、回る音がした。
悠真の血の気が引いた。
「お母さん、待って!!」
叫んだときには、もう遅かった。




