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第二号適合者  作者: kabirun


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1/6

第一号 世界が壊れた日

六月十七日、午後四時十二分。

その日、世界は何の前触れもなく壊れた。

少なくとも、水瀬悠真にとってはそうだった。

空が割れる瞬間まで、彼の世界はひどく退屈で、どこにでもある日常の中にあった。

数学の授業は眠くなるほど長く、給食のカレーはいつもより少し辛かった。帰りの会では、クラスメイトが提出物を忘れたことを先生に叱られていた。

明日もきっと、同じような一日が来る。

悠真は疑いもしなかった。

「悠真、帰るぞ」

教室の後ろから声がした。

振り返ると、黒瀬蓮が立っていた。

黒い髪に、少しだけ鋭い目つき。身長は同年代の中でも高く、運動神経は抜群。勉強も、やれば大抵のことはできる。教師からの評判も悪くない。

そのくせ、本人は自分の才能を大したものだと思っていない。

悠真とは小学生の頃からの付き合いだった。

「先に帰ってていいって言っただろ。ノート写してるんだから」

「お前、昨日も同じこと言ってたぞ」

「昨日は昨日、今日は今日」

「その理屈で生きてたら、いつか絶対に困るぞ」

「もう困ってる。お前が急かすから」

蓮は呆れたように笑った。

悠真はノートを閉じ、筆箱を鞄に押し込んだ。

「はいはい。帰りますよ、黒瀬くん」

「よろしい」

「何様だよ」

いつもの会話だった。

特別に仲がいいと意識したことはない。家が近く、趣味が合い、気づけば一緒にいる時間が長くなっていただけだ。

ただ、ひとつだけ、悠真には蓮にかなわないと思っていることがあった。

蓮は、誰かが困っていると放っておけない。

それが自分より強い相手でも、明らかに勝ち目のない状況でも、蓮は迷わず前に出る。

悠真には、それができなかった。

困っている人を見れば助けたいとは思う。けれど、相手が怖そうな人間だったら。自分まで巻き込まれそうだったら。

きっと、足が止まる。

そして、そんな自分を嫌いになりながら、結局は何もしない。

蓮は違う。

だからこそ、悠真は蓮のことを少しだけ眩しく感じていた。

「なあ、悠真」

「ん?」

「今日、なんか変じゃないか?」

校舎を出たところで、蓮が空を見上げた。

悠真もつられて顔を上げる。

六月の空は、よく晴れていた。

雲は少ない。風も穏やかで、遠くから野球部の掛け声が聞こえてくる。

「別に。普通じゃね?」

「いや……」

蓮は何かを探すように、しばらく空を見つめていた。

「気のせいか」

「何だよ。幽霊でも見えた?」

「お前じゃあるまいし」

「俺でも幽霊なんて見えねえよ」

「じゃあ、なんで昨日、暗い廊下を走って帰ったんだ?」

「それは……電気が切れてたから」

「怖かったんだろ」

「違う」

「はいはい」

蓮が先に歩き出す。

悠真はその背中を追った。

このとき、もう少しだけ蓮の言葉を気にしていれば。

空を、注意深く観察していれば。

何かが変わっていたのだろうか。

後になって何度も考えた。

けれど、どれだけ考えても答えは出なかった。

そのときの悠真には、何もわからなかったのだから。

午後四時十二分。

最初に異変に気づいたのは、悠真だった。

「……え?」

横断歩道の手前で、悠真は足を止めた。

空に、黒い線が走っていた。

飛行機雲ではない。

雲の切れ目でもない。

青い空そのものに、細い亀裂が入っていた。

まるで、透明なガラスの向こう側から、誰かが世界を叩き割ろうとしているようだった。

「蓮、あれ……」

指をさそうとした瞬間、亀裂が伸びた。

一本だった線が二本になり、三本になり、枝分かれするように広がっていく。

音はなかった。

だからこそ、異様だった。

空があれほど大きく変化しているのに、耳に届くのは車の走行音と、近くを歩く人々の話し声だけ。

誰もが、何が起きているのかわからずに立ち尽くしていた。

次の瞬間、世界中の音が消えた。

車のエンジン音も、人の声も、鳥の鳴き声も。

何も聞こえない。

悠真は自分の耳を押さえた。

隣にいる蓮が何かを叫んでいる。口の動きでわかった。

けれど、声は聞こえなかった。

そして、空が割れた。

ガラスが砕けるような光景だった。

青い空の向こうに、青ではない何かが広がっていた。

黒い。

ただ黒いのではない。

光が存在することを忘れたような、底の見えない暗闇。

その暗闇の中を、無数の白い点が動いていた。

星のように見えた。

しかし、星にしては近すぎる。

そして、あまりにも多すぎた。

音が戻ってきた。

悲鳴だった。

「なんだよ、あれ!」

「逃げろ!」

「撮れ! 動画撮れ!」

誰かが走り出した。

それを見た別の誰かも走り出す。

何が危険なのかもわからないまま、人々は互いを押しのけ、逃げ始めた。

悠真も逃げようとした。

けれど、足が動かなかった。

空の亀裂から、何かが落ちてきていた。

黒い雨。

細かな粒子のようなものが、ゆっくりと街へ降り注いでいる。

地面に触れた粒子は、跡形もなく消えた。

その直後だった。

道路の真ん中を歩いていた男性が、突然立ち止まった。

「……え?」

男性の身体が、ぶれた。

映像の一部だけが乱れたように、輪郭が歪む。

次の瞬間、男性の姿が消えた。

悲鳴すらなかった。

そこには、落とした鞄だけが残されていた。

「……は?」

悠真は目を見開いた。

見間違いだ。

そう思いたかった。

だが、周囲の人々も同じものを見ていた。

誰かが泣き叫び、誰かがその場に座り込み、誰かが必死にスマートフォンを操作している。

男性が立っていた場所には、黒い染みのようなものが残っていた。

それが、ゆっくりと地面に広がっていく。

「悠真!」

蓮に腕をつかまれた。

「走れ!」

その声で、ようやく身体が動いた。

二人は道路を離れ、近くの商店街へ走った。

後ろから悲鳴が聞こえる。

何度も振り返りそうになったが、蓮が腕を引っ張っているため、悠真は前を向くしかなかった。

「何なんだよ、あれ! 何が起きてるんだよ!」

「わからない!」

「わからないって、お前……!」

「俺だってわからないんだよ!」

蓮が声を荒らげた。

その声を聞いて、悠真は初めて気づいた。

蓮も怖いのだ。

何でもできるように見えた親友も、この状況では何ひとつ理解できていない。

それでも、蓮は走り続けていた。

悠真を置いていかないために。

商店街の角を曲がったとき、前方から女性の悲鳴が響いた。

二人は足を止めた。

路地の向こう側に、人だかりができていた。

その中心に、何かがいた。

人間のような形をしていた。

背丈は二メートルほど。全身は黒く、表面には濡れた泥のような光沢がある。

顔に目はなかった。

口も、鼻もない。

ただ、頭部の中央に、縦に裂けた白い線が一本だけ走っていた。

その線が、ゆっくりと開いた。

人間の口に似た形だった。

怪物は、目の前にいる男性へ腕を伸ばした。

男性は逃げようとしていた。

しかし、足が動かないらしい。

「助け……」

言葉の途中で、男性の身体が宙に浮いた。

そして、黒い粒子となって消えた。

今度は、はっきりと見えた。

人間が、消えた。消えたんだ。

悠真の胃がひっくり返りそうになった。

頭の中が真っ白になる。

怪物が、ゆっくりとこちらを向いた。

白い裂け目が、二人を捉える。

「……逃げるぞ」

蓮が言った。

しかし、その直後。

「いやあああっ!」

背後から子供の泣き声が響いた。

振り返ると、小さな女の子が路上に転んでいた。

母親らしき女性が、数メートル先で立ち尽くしている。恐怖で身体が動かないのか、何度も手を伸ばしているのに、一歩も踏み出せずにいた。

怪物は、女の子へ向かって歩き始めた。

蓮が動いた。

「蓮!」

呼び止める間もなかった。

蓮は走った。

女の子を抱き上げ、母親の方へ投げるようにして渡す。

「逃げてください!」

女性が女の子を抱きしめた。

怪物が腕を振り上げる。

蓮は、その前に立った。

悠真は動けなかった。

逃げろ。

頭の中で警告が鳴っていた。

今すぐ逃げろ。

あんなものに勝てるわけがない。

蓮だって、ただの人間だ。

運動が得意で、勉強ができて、少しばかり度胸があるだけの、中学生なのだ。

なのに。

蓮は、逃げなかった。

「……ふざけんなよ」

蓮の声が聞こえた。

怪物の腕が振り下ろされる。

その瞬間、蓮の右手が黒く光った。

手の甲に、見たことのない紋様が浮かび上がる。

幾重にも重なった円と、そこから伸びる細い線。

まるで、皮膚の下に何かが刻み込まれているようだった。

蓮自身も、それを見て驚いていた。

しかし、次の瞬間にはもう、怪物の腕を片手で受け止めていた。

衝撃で、地面がひび割れた。

風圧が商店街を駆け抜け、近くの看板が吹き飛ぶ。

悠真は思わず腕で顔を覆った。

何が起きたのか、理解できなかった。

蓮が、怪物を押し返している。

人間の身体で、あんな化け物を。

「蓮……?」

怪物が甲高い音を発した。

蓮の右手から、黒い光が噴き出す。

次の瞬間、怪物の身体が大きく弾き飛ばされた。

壁に激突し、黒い破片をまき散らす。

周囲の人々が息を呑んだ。

蓮もまた、自分の手を見つめていた。

その表情には、喜びも、誇らしさもなかった。

ただ、困惑があった。

自分の身体に、何が起きているのかわからない。

その顔を、悠真は確かに見た。

けれど、考える時間はなかった。

怪物が起き上がった。

頭部の白い裂け目が、以前より大きく開いている。

そして、怪物の背後で、地面が盛り上がった。

一体ではなかった。

二体目。

三体目。

商店街の奥から、同じような怪物が次々と現れた。

「嘘だろ……」

蓮が呟いた。

その瞬間、空から巨大な影が落ちてきた。

地面が揺れた。

商店街の建物の窓が、一斉に砕け散る。

人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う。

そこに現れたのは、先ほどの怪物とは比較にならないほど巨大な存在だった。

四本の脚。

異様に長い腕。

胴体には無数の白い線が走り、頭部には、いくつもの裂け目が開いていた。

その姿を見た瞬間、悠真は理解した。

あれには、勝てない。

蓮でさえ、勝てない。

根拠はなかった。

ただ、本能がそう告げていた。

蓮も同じことを感じたのか、動きを止めていた。

怪物の頭部が、ゆっくりと蓮へ向いた。

そして、笑った。

顔などないはずなのに、悠真には確かにそう見えた。

次の瞬間、怪物の身体から黒い光が放たれた。

蓮が吹き飛ばされた。

「蓮!」

悠真は叫んだ。

蓮の身体が商店街の壁に叩きつけられる。

地面に落ちた蓮は、しばらく動かなかった。

悠真の足が震えた。

逃げなければならない。

わかっている。

ここにいたら死ぬ。

それでも、目の前で親友が倒れている。

悠真は走り出そうとした。

そのとき、蓮が顔を上げた。

「来るな!」

聞いたことのない声だった。

怒鳴り声というより、悲鳴に近かった。

「悠真、来るな! 絶対にこっちに来るな!」

蓮の右手が、再び黒く光った。

紋様が手の甲から手首へと広がっている。

蓮は苦しそうに右腕を押さえた。

その腕が、震えていた。

「蓮、何が……!」

「わからない!」

蓮は歯を食いしばった。

「俺にも、わからないんだよ……!」

黒い光が、蓮の身体を包み込んだ。

巨大な怪物が動きを止める。

そして、空の亀裂が大きく開いた。

黒い雲の向こう側から、何かがこちらを覗いている。

悠真には、それが人間の目に見えた。

巨大な、あまりにも巨大な目。

その目が、蓮を見ていた。

蓮もまた、空を見上げていた。

その表情を、悠真は一生忘れないだろう。

恐怖。

絶望。

そして、何かを諦めたような、静かな顔。

「……そっか」

蓮が、小さく呟いた。

「俺が、そうなのか」

「蓮……?」

「悠真」

蓮は、こちらを見た。

いつもの蓮だった。

放課後に一緒に帰り、くだらない話をして、明日も会うことを疑わなかった親友。

その顔を見て、悠真は走り出そうとした。

しかし、間に合わなかった。

蓮の身体が、黒い光に包まれた。

光が弾ける。

視界が真っ白になった。

耳をつんざくような音が響き、悠真は地面に叩きつけられた。

どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。

目を開けたとき、商店街は崩壊していた。

建物は倒れ、道路には深い亀裂が走り、空からは黒い粒子が降り続いている。

巨大な怪物の姿はなかった。

そして、蓮もいなかった。

そこには、誰もいなかった。

「……蓮?」

返事はない。

「おい、蓮……」

悠真は立ち上がろうとした。

足に力が入らず、何度も転んだ。

それでも、探した。

崩れた壁の向こうを。

倒れた看板の下を。

黒い染みが広がる道路の上を。

どこにもいなかった。

蓮の鞄も、制服の切れ端も、何ひとつ残っていなかった。

まるで、最初から存在しなかったかのように。

悠真は、その場に膝をついた。

何も考えられなかった。

さっきまで隣にいた。

くだらない話をしていた。

一緒に帰っていた。

それなのに。

「……なんでだよ」

声が震えた。

「なんで、お前なんだよ……」

答える者はいなかった。

空の亀裂は、今も広がり続けていた。

午後五時三十六分。

悠真は、自宅に戻っていた。

どうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。

途中で何度も人にぶつかり、何度も転び、何度も立ち止まった。

街は混乱していた。

道路には放置された車が並び、遠くでは火の手が上がっていた。

スマートフォンは、緊急速報の通知で埋め尽くされている。

しかし、通信はほとんどつながらなかった。

テレビをつけると、緊急報道が流れていた。

『現在、全国各地で正体不明の現象が確認されています。政府は、屋外にいる方に対し、直ちに頑丈な建物へ避難するよう呼びかけています』

画面の向こうでは、アナウンサーが必死に言葉をつないでいた。

その背後に映っている映像は、信じられないものばかりだった。

東京の上空に広がる巨大な亀裂。

道路を横切る黒い影。

逃げ惑う人々。

そして、映像の途中で、突然画面が乱れた。

アナウンサーの姿が消えた。

画面が暗転する。

しばらくして、別の映像に切り替わった。

悠真はリモコンを握りしめた。

手が震えていた。

「……何なんだよ、これ」

そのとき、玄関の扉が開いた。

「悠真!」

母親だった。

顔は青ざめ、髪は乱れ、肩で息をしている。

仕事先から、必死に帰ってきたのだろう。

「よかった……! 本当によかった……!」

母親は悠真を抱きしめた。

その腕の強さに、悠真はようやく、自分がどれほど怖かったのかを理解した。

泣きたかった。

けれど、涙は出なかった。

「お父さんは?」

悠真が尋ねると、母親の表情が曇った。

「まだ連絡が取れないの」

「……そっか」

「大丈夫。きっと大丈夫だから」

母親はそう言った。

けれど、その声は震えていた。

悠真は何も言えなかった。

大丈夫だと信じたかった。

しかし、今日という一日が、その言葉を簡単には信じさせてくれなかった。

夜になっても、停電は続いた。

スマートフォンの充電は残りわずかだった。

窓の外では、時折、遠くから爆発音のようなものが聞こえた。

母親はリビングの明かり代わりに懐中電灯を置き、玄関の近くに必要な荷物をまとめていた。

悠真は、自分の部屋に戻った。

机の上には、今日の数学のノートが開いたままだった。

途中まで解いた問題。

消しゴムのかす。

昨日、蓮に借りたままのシャープペンシル。

いつもと何も変わらない部屋だった。

世界のほうが変わってしまったのだ。

悠真は椅子に座り、スマートフォンを手に取った。

蓮とのメッセージ画面を開く。

最後のやり取りは、昨日の夜だった。

『明日、宿題見せろ』

『自分でやれ』

『お前の写すからいいだろ』

『それを自分でやれって言ってんだよ』

くだらない会話だった。

いつもの会話だった。

悠真は、画面を見つめた。

そして、メッセージを送った。

『おい』

送信済み。

既読はつかない。

しばらく待ってから、もう一度送った。

『どこにいるんだよ』

送信済み。

返事はない。

さらに一通。

『死んでるのなら返事しろ』

送信済み。

画面の上には、最後に蓮がオンラインだった時刻が表示されていた。

午後四時十八分。

世界が壊れ始めてから、わずか六分後だった。

悠真は、スマートフォンを握りしめた。

そのとき、画面が光った。

通知音は鳴らなかった。

ただ、メッセージが一通届いていた。

『悠真、無事か?』

蓮からだった。

「……蓮!」

悠真はすぐに返信した。

『無事だ。今、家にいる。お前は?』

既読がついた。

数秒後、返事が来た。

『俺も、たぶん無事』

その文章に、悠真は少しだけ息を吐いた。

生きている。

蓮は、生きている。

それだけで、胸の奥に張り詰めていた何かが、ほんの少し緩んだ。

しかし、次のメッセージを見た瞬間、指が止まった。

『悠真、ひとつ聞いてくれ』

『何だよ』

既読。

返事が来るまで、少し時間がかかった。

『俺の近くにいる人間が、次々に死んでる』

悠真は、画面を見つめた。

意味がわからなかった。

いや、言葉の意味はわかる。

わかるからこそ、理解したくなかった。

『どういうことだよ』

すぐに返信した。

『さっきから、近くにいる人が消えていく。俺が近づくと、何かがおかしくなるんだ』

『何かって何だよ』

『わからない』

その返事を最後に、しばらくメッセージは途絶えた。

悠真は、何度も画面を更新した。

返事は来ない。

不安が膨らんでいく。

蓮がいる場所はどこなのか。

どうして人が死ぬのか。

あの黒い光と関係があるのか。

考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。

やがて、再び画面が光った。

『だから、絶対に俺を探すな』

悠真は眉をひそめた。

『何言ってんだよ』

『頼む』

『ふざけんな。どこにいるか教えろ』

既読。

返事はなかった。

悠真は歯を食いしばった。

探すなと言われて、はいそうですかと引き下がれるわけがない。

十年以上、一緒にいた親友だ。

何が起きているのかもわからないのに、放っておけるはずがない。

そのとき、最後のメッセージが届いた。

『悠真。もし俺が変わってしまっても、お前だけは、俺を信じてくれ』

悠真は息を止めた。

画面を何度も読み返した。

もし俺が変わってしまっても。

どういう意味なのか、わからない。

何が起きているのかも、わからない。

ただ、その言葉だけが、胸の奥に深く刺さった。

『おい、蓮』

返信する。

『ちゃんと説明しろよ』

『お前、どこにいるんだよ』

『俺はお前を探すからな』

送信済み。

既読はつかなかった。

それが、蓮との最後のやり取りになった。

三日後。

日本政府は、事態を「広域異常災害」と発表した。

空の亀裂は全国各地で確認され、正体不明の怪物による被害は拡大し続けていた。

原因は不明。

怪物の生態も不明。

消えた人々の行方も不明。

避難指示は何度も変更され、通信網は地域によって途絶えた。

世界は、元に戻る気配を見せなかった。

父親から連絡が来たのは、その日の夜だった。

短い電話だった。

無事であること。

今は職場の近くで避難していること。

すぐには帰れないこと。

それだけを伝え、電話は切れた。

母親は泣いていた。

悠真も、ようやく少しだけ泣いた。

蓮のことを考えない日はなかった。

スマートフォンに新しい通知が届くたび、期待した。

けれど、蓮からの連絡はなかった。

それでも、悠真は信じていた。

蓮は生きている。

きっと、どこかで生き延びている。

そうでなければ、あの最後のメッセージに意味がなくなってしまう。

四日目の朝、悠真は机の引き出しから、使っていなかったノートを取り出した。

表紙には何も書かれていない。

ページを開き、シャープペンシルを握った。

最初に何を書くべきか、少しだけ迷った。

自分が見たもの。

聞いたこと。

わかったこと。

そして、わからないこと。

全部、残しておこうと思った。

感情だけで動いていたら、きっといつか間違える。

自分は蓮のように強くない。

怪物と戦える力もない。

誰かを守れる保証もない。

それでも、何も考えずに逃げ続けるだけでは、いつか生き残れなくなる。

悠真は、ノートの一ページ目に書いた。

『六月十七日以降に起きた異常現象について』

その下に、最初の項目を並べる。

『一、黒い粒子が空から降ってくる』

『二、粒子が降っている場所で、人間が消失する場合がある』

『三、黒い人型の怪物が出現する』

『四、怪物は人間を襲う。接触した人間がどうなるかは不明』

『五、空の亀裂と怪物の関係は不明』

そこまで書いて、悠真は手を止めた。

わからないことばかりだった。

何ひとつ、確かなことはない。

それでも、書き出してみると、頭の中で渦巻いていた恐怖が、ほんの少しだけ整理された気がした。

ノートの下部に、もう一行書き加える。

『六、黒瀬蓮の消息不明』

その文字を見た瞬間、胸が痛んだ。

悠真は目を閉じた。

あの日、蓮は自分を逃がそうとしていた。

最後まで、そうだった。

ならば。

自分にできることは何だろう。

蓮を見つけること。

それは、変わらない。

けれど、そのためには、まず生き残らなければならない。

悠真はノートの最後に、一文を書いた。

『黒瀬蓮を探す。そのために、まず生き残る』

シャープペンシルを置いた。

窓の外には、黒い空が広がっていた。

あの日から、空は一度も元の色に戻っていない。

悠真は知らなかった。

自分がこれから何を失い、何を知り、どれほど変わっていくのか。

この世界で生き延びることが、どれほど難しいのか。

そして、十年後。

再び蓮と出会ったとき、自分がどんな選択を迫られるのか。

まだ、何も知らなかった。

同じ頃。

どこかの街で、一人の少年が目を覚ました。

周囲には、崩れた建物が並んでいた。

道路は裂け、空には巨大な亀裂が走っている。

少年は、ゆっくりと身体を起こした。

「……ここ、どこだ?」

声が掠れていた。

頭が痛い。

身体のあちこちが軋む。

何が起きたのか、思い出せなかった。

ただ、ひとつだけ覚えていることがあった。

自分は、誰かを守ろうとしていた。

その誰かの顔を思い出そうとした。

けれど、記憶に霧がかかったように、うまく浮かんでこない。

少年は右手を見た。

手の甲に、黒い紋様が刻まれていた。

それは、皮膚の上に描かれた模様ではなかった。

脈打っていた。

生き物のように。

少年が手を握りしめると、紋様がわずかに広がった。

その瞬間、頭の中に声が響いた。

『第零号適合者。覚醒を確認』

少年は息を呑んだ。

「誰だ……?」

『観測を開始する』

「おい、待て! 何なんだよ、これは!」

返事はなかった。

代わりに、空の亀裂がゆっくりと動いた。

まるで、何かがこちらを見下ろしているようだった。

少年は立ち上がろうとした。

しかし、足に力が入らず、再び膝をついた。

「……悠真」

その名前だけは、すぐに出てきた。

顔も、声も、思い出せる。

一緒に帰ったこと。

くだらない話をしたこと。

最後に、何かを伝えようとしたこと。

けれど、そこから先の記憶が途切れていた。

少年は、右手を強く握りしめた。

「悠真……俺、どうすればいいんだよ……」

声は、崩壊した街に吸い込まれていった。

誰も答えなかった。

ただ、空の向こう側で。

何かが、笑った気がした。

それは、十年にわたる物語の始まりだった。

そして、二人が再び出会うまでの長い時間の、最初の一日だった。

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