第一号 世界が壊れた日
六月十七日、午後四時十二分。
その日、世界は何の前触れもなく壊れた。
少なくとも、水瀬悠真にとってはそうだった。
空が割れる瞬間まで、彼の世界はひどく退屈で、どこにでもある日常の中にあった。
数学の授業は眠くなるほど長く、給食のカレーはいつもより少し辛かった。帰りの会では、クラスメイトが提出物を忘れたことを先生に叱られていた。
明日もきっと、同じような一日が来る。
悠真は疑いもしなかった。
「悠真、帰るぞ」
教室の後ろから声がした。
振り返ると、黒瀬蓮が立っていた。
黒い髪に、少しだけ鋭い目つき。身長は同年代の中でも高く、運動神経は抜群。勉強も、やれば大抵のことはできる。教師からの評判も悪くない。
そのくせ、本人は自分の才能を大したものだと思っていない。
悠真とは小学生の頃からの付き合いだった。
「先に帰ってていいって言っただろ。ノート写してるんだから」
「お前、昨日も同じこと言ってたぞ」
「昨日は昨日、今日は今日」
「その理屈で生きてたら、いつか絶対に困るぞ」
「もう困ってる。お前が急かすから」
蓮は呆れたように笑った。
悠真はノートを閉じ、筆箱を鞄に押し込んだ。
「はいはい。帰りますよ、黒瀬くん」
「よろしい」
「何様だよ」
いつもの会話だった。
特別に仲がいいと意識したことはない。家が近く、趣味が合い、気づけば一緒にいる時間が長くなっていただけだ。
ただ、ひとつだけ、悠真には蓮にかなわないと思っていることがあった。
蓮は、誰かが困っていると放っておけない。
それが自分より強い相手でも、明らかに勝ち目のない状況でも、蓮は迷わず前に出る。
悠真には、それができなかった。
困っている人を見れば助けたいとは思う。けれど、相手が怖そうな人間だったら。自分まで巻き込まれそうだったら。
きっと、足が止まる。
そして、そんな自分を嫌いになりながら、結局は何もしない。
蓮は違う。
だからこそ、悠真は蓮のことを少しだけ眩しく感じていた。
「なあ、悠真」
「ん?」
「今日、なんか変じゃないか?」
校舎を出たところで、蓮が空を見上げた。
悠真もつられて顔を上げる。
六月の空は、よく晴れていた。
雲は少ない。風も穏やかで、遠くから野球部の掛け声が聞こえてくる。
「別に。普通じゃね?」
「いや……」
蓮は何かを探すように、しばらく空を見つめていた。
「気のせいか」
「何だよ。幽霊でも見えた?」
「お前じゃあるまいし」
「俺でも幽霊なんて見えねえよ」
「じゃあ、なんで昨日、暗い廊下を走って帰ったんだ?」
「それは……電気が切れてたから」
「怖かったんだろ」
「違う」
「はいはい」
蓮が先に歩き出す。
悠真はその背中を追った。
このとき、もう少しだけ蓮の言葉を気にしていれば。
空を、注意深く観察していれば。
何かが変わっていたのだろうか。
後になって何度も考えた。
けれど、どれだけ考えても答えは出なかった。
そのときの悠真には、何もわからなかったのだから。
午後四時十二分。
最初に異変に気づいたのは、悠真だった。
「……え?」
横断歩道の手前で、悠真は足を止めた。
空に、黒い線が走っていた。
飛行機雲ではない。
雲の切れ目でもない。
青い空そのものに、細い亀裂が入っていた。
まるで、透明なガラスの向こう側から、誰かが世界を叩き割ろうとしているようだった。
「蓮、あれ……」
指をさそうとした瞬間、亀裂が伸びた。
一本だった線が二本になり、三本になり、枝分かれするように広がっていく。
音はなかった。
だからこそ、異様だった。
空があれほど大きく変化しているのに、耳に届くのは車の走行音と、近くを歩く人々の話し声だけ。
誰もが、何が起きているのかわからずに立ち尽くしていた。
次の瞬間、世界中の音が消えた。
車のエンジン音も、人の声も、鳥の鳴き声も。
何も聞こえない。
悠真は自分の耳を押さえた。
隣にいる蓮が何かを叫んでいる。口の動きでわかった。
けれど、声は聞こえなかった。
そして、空が割れた。
ガラスが砕けるような光景だった。
青い空の向こうに、青ではない何かが広がっていた。
黒い。
ただ黒いのではない。
光が存在することを忘れたような、底の見えない暗闇。
その暗闇の中を、無数の白い点が動いていた。
星のように見えた。
しかし、星にしては近すぎる。
そして、あまりにも多すぎた。
音が戻ってきた。
悲鳴だった。
「なんだよ、あれ!」
「逃げろ!」
「撮れ! 動画撮れ!」
誰かが走り出した。
それを見た別の誰かも走り出す。
何が危険なのかもわからないまま、人々は互いを押しのけ、逃げ始めた。
悠真も逃げようとした。
けれど、足が動かなかった。
空の亀裂から、何かが落ちてきていた。
黒い雨。
細かな粒子のようなものが、ゆっくりと街へ降り注いでいる。
地面に触れた粒子は、跡形もなく消えた。
その直後だった。
道路の真ん中を歩いていた男性が、突然立ち止まった。
「……え?」
男性の身体が、ぶれた。
映像の一部だけが乱れたように、輪郭が歪む。
次の瞬間、男性の姿が消えた。
悲鳴すらなかった。
そこには、落とした鞄だけが残されていた。
「……は?」
悠真は目を見開いた。
見間違いだ。
そう思いたかった。
だが、周囲の人々も同じものを見ていた。
誰かが泣き叫び、誰かがその場に座り込み、誰かが必死にスマートフォンを操作している。
男性が立っていた場所には、黒い染みのようなものが残っていた。
それが、ゆっくりと地面に広がっていく。
「悠真!」
蓮に腕をつかまれた。
「走れ!」
その声で、ようやく身体が動いた。
二人は道路を離れ、近くの商店街へ走った。
後ろから悲鳴が聞こえる。
何度も振り返りそうになったが、蓮が腕を引っ張っているため、悠真は前を向くしかなかった。
「何なんだよ、あれ! 何が起きてるんだよ!」
「わからない!」
「わからないって、お前……!」
「俺だってわからないんだよ!」
蓮が声を荒らげた。
その声を聞いて、悠真は初めて気づいた。
蓮も怖いのだ。
何でもできるように見えた親友も、この状況では何ひとつ理解できていない。
それでも、蓮は走り続けていた。
悠真を置いていかないために。
商店街の角を曲がったとき、前方から女性の悲鳴が響いた。
二人は足を止めた。
路地の向こう側に、人だかりができていた。
その中心に、何かがいた。
人間のような形をしていた。
背丈は二メートルほど。全身は黒く、表面には濡れた泥のような光沢がある。
顔に目はなかった。
口も、鼻もない。
ただ、頭部の中央に、縦に裂けた白い線が一本だけ走っていた。
その線が、ゆっくりと開いた。
人間の口に似た形だった。
怪物は、目の前にいる男性へ腕を伸ばした。
男性は逃げようとしていた。
しかし、足が動かないらしい。
「助け……」
言葉の途中で、男性の身体が宙に浮いた。
そして、黒い粒子となって消えた。
今度は、はっきりと見えた。
人間が、消えた。消えたんだ。
悠真の胃がひっくり返りそうになった。
頭の中が真っ白になる。
怪物が、ゆっくりとこちらを向いた。
白い裂け目が、二人を捉える。
「……逃げるぞ」
蓮が言った。
しかし、その直後。
「いやあああっ!」
背後から子供の泣き声が響いた。
振り返ると、小さな女の子が路上に転んでいた。
母親らしき女性が、数メートル先で立ち尽くしている。恐怖で身体が動かないのか、何度も手を伸ばしているのに、一歩も踏み出せずにいた。
怪物は、女の子へ向かって歩き始めた。
蓮が動いた。
「蓮!」
呼び止める間もなかった。
蓮は走った。
女の子を抱き上げ、母親の方へ投げるようにして渡す。
「逃げてください!」
女性が女の子を抱きしめた。
怪物が腕を振り上げる。
蓮は、その前に立った。
悠真は動けなかった。
逃げろ。
頭の中で警告が鳴っていた。
今すぐ逃げろ。
あんなものに勝てるわけがない。
蓮だって、ただの人間だ。
運動が得意で、勉強ができて、少しばかり度胸があるだけの、中学生なのだ。
なのに。
蓮は、逃げなかった。
「……ふざけんなよ」
蓮の声が聞こえた。
怪物の腕が振り下ろされる。
その瞬間、蓮の右手が黒く光った。
手の甲に、見たことのない紋様が浮かび上がる。
幾重にも重なった円と、そこから伸びる細い線。
まるで、皮膚の下に何かが刻み込まれているようだった。
蓮自身も、それを見て驚いていた。
しかし、次の瞬間にはもう、怪物の腕を片手で受け止めていた。
衝撃で、地面がひび割れた。
風圧が商店街を駆け抜け、近くの看板が吹き飛ぶ。
悠真は思わず腕で顔を覆った。
何が起きたのか、理解できなかった。
蓮が、怪物を押し返している。
人間の身体で、あんな化け物を。
「蓮……?」
怪物が甲高い音を発した。
蓮の右手から、黒い光が噴き出す。
次の瞬間、怪物の身体が大きく弾き飛ばされた。
壁に激突し、黒い破片をまき散らす。
周囲の人々が息を呑んだ。
蓮もまた、自分の手を見つめていた。
その表情には、喜びも、誇らしさもなかった。
ただ、困惑があった。
自分の身体に、何が起きているのかわからない。
その顔を、悠真は確かに見た。
けれど、考える時間はなかった。
怪物が起き上がった。
頭部の白い裂け目が、以前より大きく開いている。
そして、怪物の背後で、地面が盛り上がった。
一体ではなかった。
二体目。
三体目。
商店街の奥から、同じような怪物が次々と現れた。
「嘘だろ……」
蓮が呟いた。
その瞬間、空から巨大な影が落ちてきた。
地面が揺れた。
商店街の建物の窓が、一斉に砕け散る。
人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う。
そこに現れたのは、先ほどの怪物とは比較にならないほど巨大な存在だった。
四本の脚。
異様に長い腕。
胴体には無数の白い線が走り、頭部には、いくつもの裂け目が開いていた。
その姿を見た瞬間、悠真は理解した。
あれには、勝てない。
蓮でさえ、勝てない。
根拠はなかった。
ただ、本能がそう告げていた。
蓮も同じことを感じたのか、動きを止めていた。
怪物の頭部が、ゆっくりと蓮へ向いた。
そして、笑った。
顔などないはずなのに、悠真には確かにそう見えた。
次の瞬間、怪物の身体から黒い光が放たれた。
蓮が吹き飛ばされた。
「蓮!」
悠真は叫んだ。
蓮の身体が商店街の壁に叩きつけられる。
地面に落ちた蓮は、しばらく動かなかった。
悠真の足が震えた。
逃げなければならない。
わかっている。
ここにいたら死ぬ。
それでも、目の前で親友が倒れている。
悠真は走り出そうとした。
そのとき、蓮が顔を上げた。
「来るな!」
聞いたことのない声だった。
怒鳴り声というより、悲鳴に近かった。
「悠真、来るな! 絶対にこっちに来るな!」
蓮の右手が、再び黒く光った。
紋様が手の甲から手首へと広がっている。
蓮は苦しそうに右腕を押さえた。
その腕が、震えていた。
「蓮、何が……!」
「わからない!」
蓮は歯を食いしばった。
「俺にも、わからないんだよ……!」
黒い光が、蓮の身体を包み込んだ。
巨大な怪物が動きを止める。
そして、空の亀裂が大きく開いた。
黒い雲の向こう側から、何かがこちらを覗いている。
悠真には、それが人間の目に見えた。
巨大な、あまりにも巨大な目。
その目が、蓮を見ていた。
蓮もまた、空を見上げていた。
その表情を、悠真は一生忘れないだろう。
恐怖。
絶望。
そして、何かを諦めたような、静かな顔。
「……そっか」
蓮が、小さく呟いた。
「俺が、そうなのか」
「蓮……?」
「悠真」
蓮は、こちらを見た。
いつもの蓮だった。
放課後に一緒に帰り、くだらない話をして、明日も会うことを疑わなかった親友。
その顔を見て、悠真は走り出そうとした。
しかし、間に合わなかった。
蓮の身体が、黒い光に包まれた。
光が弾ける。
視界が真っ白になった。
耳をつんざくような音が響き、悠真は地面に叩きつけられた。
どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。
目を開けたとき、商店街は崩壊していた。
建物は倒れ、道路には深い亀裂が走り、空からは黒い粒子が降り続いている。
巨大な怪物の姿はなかった。
そして、蓮もいなかった。
そこには、誰もいなかった。
「……蓮?」
返事はない。
「おい、蓮……」
悠真は立ち上がろうとした。
足に力が入らず、何度も転んだ。
それでも、探した。
崩れた壁の向こうを。
倒れた看板の下を。
黒い染みが広がる道路の上を。
どこにもいなかった。
蓮の鞄も、制服の切れ端も、何ひとつ残っていなかった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
悠真は、その場に膝をついた。
何も考えられなかった。
さっきまで隣にいた。
くだらない話をしていた。
一緒に帰っていた。
それなのに。
「……なんでだよ」
声が震えた。
「なんで、お前なんだよ……」
答える者はいなかった。
空の亀裂は、今も広がり続けていた。
午後五時三十六分。
悠真は、自宅に戻っていた。
どうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。
途中で何度も人にぶつかり、何度も転び、何度も立ち止まった。
街は混乱していた。
道路には放置された車が並び、遠くでは火の手が上がっていた。
スマートフォンは、緊急速報の通知で埋め尽くされている。
しかし、通信はほとんどつながらなかった。
テレビをつけると、緊急報道が流れていた。
『現在、全国各地で正体不明の現象が確認されています。政府は、屋外にいる方に対し、直ちに頑丈な建物へ避難するよう呼びかけています』
画面の向こうでは、アナウンサーが必死に言葉をつないでいた。
その背後に映っている映像は、信じられないものばかりだった。
東京の上空に広がる巨大な亀裂。
道路を横切る黒い影。
逃げ惑う人々。
そして、映像の途中で、突然画面が乱れた。
アナウンサーの姿が消えた。
画面が暗転する。
しばらくして、別の映像に切り替わった。
悠真はリモコンを握りしめた。
手が震えていた。
「……何なんだよ、これ」
そのとき、玄関の扉が開いた。
「悠真!」
母親だった。
顔は青ざめ、髪は乱れ、肩で息をしている。
仕事先から、必死に帰ってきたのだろう。
「よかった……! 本当によかった……!」
母親は悠真を抱きしめた。
その腕の強さに、悠真はようやく、自分がどれほど怖かったのかを理解した。
泣きたかった。
けれど、涙は出なかった。
「お父さんは?」
悠真が尋ねると、母親の表情が曇った。
「まだ連絡が取れないの」
「……そっか」
「大丈夫。きっと大丈夫だから」
母親はそう言った。
けれど、その声は震えていた。
悠真は何も言えなかった。
大丈夫だと信じたかった。
しかし、今日という一日が、その言葉を簡単には信じさせてくれなかった。
夜になっても、停電は続いた。
スマートフォンの充電は残りわずかだった。
窓の外では、時折、遠くから爆発音のようなものが聞こえた。
母親はリビングの明かり代わりに懐中電灯を置き、玄関の近くに必要な荷物をまとめていた。
悠真は、自分の部屋に戻った。
机の上には、今日の数学のノートが開いたままだった。
途中まで解いた問題。
消しゴムのかす。
昨日、蓮に借りたままのシャープペンシル。
いつもと何も変わらない部屋だった。
世界のほうが変わってしまったのだ。
悠真は椅子に座り、スマートフォンを手に取った。
蓮とのメッセージ画面を開く。
最後のやり取りは、昨日の夜だった。
『明日、宿題見せろ』
『自分でやれ』
『お前の写すからいいだろ』
『それを自分でやれって言ってんだよ』
くだらない会話だった。
いつもの会話だった。
悠真は、画面を見つめた。
そして、メッセージを送った。
『おい』
送信済み。
既読はつかない。
しばらく待ってから、もう一度送った。
『どこにいるんだよ』
送信済み。
返事はない。
さらに一通。
『死んでるのなら返事しろ』
送信済み。
画面の上には、最後に蓮がオンラインだった時刻が表示されていた。
午後四時十八分。
世界が壊れ始めてから、わずか六分後だった。
悠真は、スマートフォンを握りしめた。
そのとき、画面が光った。
通知音は鳴らなかった。
ただ、メッセージが一通届いていた。
『悠真、無事か?』
蓮からだった。
「……蓮!」
悠真はすぐに返信した。
『無事だ。今、家にいる。お前は?』
既読がついた。
数秒後、返事が来た。
『俺も、たぶん無事』
その文章に、悠真は少しだけ息を吐いた。
生きている。
蓮は、生きている。
それだけで、胸の奥に張り詰めていた何かが、ほんの少し緩んだ。
しかし、次のメッセージを見た瞬間、指が止まった。
『悠真、ひとつ聞いてくれ』
『何だよ』
既読。
返事が来るまで、少し時間がかかった。
『俺の近くにいる人間が、次々に死んでる』
悠真は、画面を見つめた。
意味がわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
わかるからこそ、理解したくなかった。
『どういうことだよ』
すぐに返信した。
『さっきから、近くにいる人が消えていく。俺が近づくと、何かがおかしくなるんだ』
『何かって何だよ』
『わからない』
その返事を最後に、しばらくメッセージは途絶えた。
悠真は、何度も画面を更新した。
返事は来ない。
不安が膨らんでいく。
蓮がいる場所はどこなのか。
どうして人が死ぬのか。
あの黒い光と関係があるのか。
考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。
やがて、再び画面が光った。
『だから、絶対に俺を探すな』
悠真は眉をひそめた。
『何言ってんだよ』
『頼む』
『ふざけんな。どこにいるか教えろ』
既読。
返事はなかった。
悠真は歯を食いしばった。
探すなと言われて、はいそうですかと引き下がれるわけがない。
十年以上、一緒にいた親友だ。
何が起きているのかもわからないのに、放っておけるはずがない。
そのとき、最後のメッセージが届いた。
『悠真。もし俺が変わってしまっても、お前だけは、俺を信じてくれ』
悠真は息を止めた。
画面を何度も読み返した。
もし俺が変わってしまっても。
どういう意味なのか、わからない。
何が起きているのかも、わからない。
ただ、その言葉だけが、胸の奥に深く刺さった。
『おい、蓮』
返信する。
『ちゃんと説明しろよ』
『お前、どこにいるんだよ』
『俺はお前を探すからな』
送信済み。
既読はつかなかった。
それが、蓮との最後のやり取りになった。
三日後。
日本政府は、事態を「広域異常災害」と発表した。
空の亀裂は全国各地で確認され、正体不明の怪物による被害は拡大し続けていた。
原因は不明。
怪物の生態も不明。
消えた人々の行方も不明。
避難指示は何度も変更され、通信網は地域によって途絶えた。
世界は、元に戻る気配を見せなかった。
父親から連絡が来たのは、その日の夜だった。
短い電話だった。
無事であること。
今は職場の近くで避難していること。
すぐには帰れないこと。
それだけを伝え、電話は切れた。
母親は泣いていた。
悠真も、ようやく少しだけ泣いた。
蓮のことを考えない日はなかった。
スマートフォンに新しい通知が届くたび、期待した。
けれど、蓮からの連絡はなかった。
それでも、悠真は信じていた。
蓮は生きている。
きっと、どこかで生き延びている。
そうでなければ、あの最後のメッセージに意味がなくなってしまう。
四日目の朝、悠真は机の引き出しから、使っていなかったノートを取り出した。
表紙には何も書かれていない。
ページを開き、シャープペンシルを握った。
最初に何を書くべきか、少しだけ迷った。
自分が見たもの。
聞いたこと。
わかったこと。
そして、わからないこと。
全部、残しておこうと思った。
感情だけで動いていたら、きっといつか間違える。
自分は蓮のように強くない。
怪物と戦える力もない。
誰かを守れる保証もない。
それでも、何も考えずに逃げ続けるだけでは、いつか生き残れなくなる。
悠真は、ノートの一ページ目に書いた。
『六月十七日以降に起きた異常現象について』
その下に、最初の項目を並べる。
『一、黒い粒子が空から降ってくる』
『二、粒子が降っている場所で、人間が消失する場合がある』
『三、黒い人型の怪物が出現する』
『四、怪物は人間を襲う。接触した人間がどうなるかは不明』
『五、空の亀裂と怪物の関係は不明』
そこまで書いて、悠真は手を止めた。
わからないことばかりだった。
何ひとつ、確かなことはない。
それでも、書き出してみると、頭の中で渦巻いていた恐怖が、ほんの少しだけ整理された気がした。
ノートの下部に、もう一行書き加える。
『六、黒瀬蓮の消息不明』
その文字を見た瞬間、胸が痛んだ。
悠真は目を閉じた。
あの日、蓮は自分を逃がそうとしていた。
最後まで、そうだった。
ならば。
自分にできることは何だろう。
蓮を見つけること。
それは、変わらない。
けれど、そのためには、まず生き残らなければならない。
悠真はノートの最後に、一文を書いた。
『黒瀬蓮を探す。そのために、まず生き残る』
シャープペンシルを置いた。
窓の外には、黒い空が広がっていた。
あの日から、空は一度も元の色に戻っていない。
悠真は知らなかった。
自分がこれから何を失い、何を知り、どれほど変わっていくのか。
この世界で生き延びることが、どれほど難しいのか。
そして、十年後。
再び蓮と出会ったとき、自分がどんな選択を迫られるのか。
まだ、何も知らなかった。
同じ頃。
どこかの街で、一人の少年が目を覚ました。
周囲には、崩れた建物が並んでいた。
道路は裂け、空には巨大な亀裂が走っている。
少年は、ゆっくりと身体を起こした。
「……ここ、どこだ?」
声が掠れていた。
頭が痛い。
身体のあちこちが軋む。
何が起きたのか、思い出せなかった。
ただ、ひとつだけ覚えていることがあった。
自分は、誰かを守ろうとしていた。
その誰かの顔を思い出そうとした。
けれど、記憶に霧がかかったように、うまく浮かんでこない。
少年は右手を見た。
手の甲に、黒い紋様が刻まれていた。
それは、皮膚の上に描かれた模様ではなかった。
脈打っていた。
生き物のように。
少年が手を握りしめると、紋様がわずかに広がった。
その瞬間、頭の中に声が響いた。
『第零号適合者。覚醒を確認』
少年は息を呑んだ。
「誰だ……?」
『観測を開始する』
「おい、待て! 何なんだよ、これは!」
返事はなかった。
代わりに、空の亀裂がゆっくりと動いた。
まるで、何かがこちらを見下ろしているようだった。
少年は立ち上がろうとした。
しかし、足に力が入らず、再び膝をついた。
「……悠真」
その名前だけは、すぐに出てきた。
顔も、声も、思い出せる。
一緒に帰ったこと。
くだらない話をしたこと。
最後に、何かを伝えようとしたこと。
けれど、そこから先の記憶が途切れていた。
少年は、右手を強く握りしめた。
「悠真……俺、どうすればいいんだよ……」
声は、崩壊した街に吸い込まれていった。
誰も答えなかった。
ただ、空の向こう側で。
何かが、笑った気がした。
それは、十年にわたる物語の始まりだった。
そして、二人が再び出会うまでの長い時間の、最初の一日だった。




