名前のない通勤客
男を見つけるため、澪は翌朝も同じ電車へ乗った。
危険を知らせる言葉は決められなかった。あなたが死者の映像に写っている、と告げて信じる人はいない。信じたとして、その恐怖だけを渡すことになる。
男はいつもの位置にいた。紺色のコート、灰色の鞄、左手の結婚指輪。電車が新宿へ着くと、地下通路を都庁方面へ歩いた。
久瀬の部下が距離を取って追う。
改札を出たところで、男の鞄から着信音が鳴った。
男はスマートフォンを見て立ち止まり、眉をひそめた。画面を二度たたき、すぐ閉じる。それから周囲を見回した。
澪と目が合った。
「何か?」
澪は迷った末、佳奈の名前を出さずに尋ねた。
「知らない人の動画が、届きませんでしたか」
男の表情から警戒が消えた。代わりに、眠れていない者だけが持つ疲れが現れた。
「昨日からです。女の人が、廊下を歩いている」
男は大庭俊哉、三十六歳。佳奈とも澪とも接点はなかった。
そのスマートフォンの縮小画像には佳奈が映っていた。
映像の最後をまだ見ていないという。
それでも昨夜、彼の家の郵便受けには、見知らぬ自分の後ろ姿を印刷した写真が入っていた。
部屋の外では、誰かの日常が何事もなく続いていた。エレベーターが止まり、配達員が階段を上り、遠くで車の扉が閉まる。そのどの音にも異常はない。異常なのは、死者の時間だけが現在へ届き続けていることだった。
澪は見えた事実と、自分がそう思っただけのことをノートの左右へ分けた。恐怖に理由を与えれば、一晩だけは眠れるかもしれない。だが誤った理由は、次に選ばれた人をもっと危険な場所へ連れていく。だから分からないものは、分からないまま残した。




