第7話 三通の返事
エルナ村を出発してから、五日が過ぎた。
王都へと続く街道には、穏やかな陽光が降り注いでいた。
道の両脇には青々とした草原が広がり、遠くでは農夫たちが畑を耕している。荷馬車が通り過ぎるたびに乾いた土埃が舞い、風に乗って草の匂いが運ばれてきた。
僕は右脚の具合を確かめながら、ゆっくりと歩いていた。
治療院を出たばかりの頃に比べれば、ずいぶん長い距離を歩けるようになった。もっとも、夕方になると古傷が疼くことはあるし、無理をすれば翌朝まで痛みが残る。
それでも、こうして自分の足で歩けている。
半年前には、想像もできなかったことだった。
「……いい天気だなあ」
思わず呟く。
見上げた空には、薄い雲がゆっくりと流れていた。
魔王が討伐されてから、世界は少しずつ平和を取り戻している。
街道を行き交う商人たちの表情も明るい。以前なら魔物の襲撃を恐れて護衛を何人も雇っていた商隊が、今では気楽に旅の話をしている。
そんな光景を眺めながら、僕はこれまで訪れた町のことを思い出していた。
フェルミナの小さなパン屋。
ユリウスさんが焼いてくれた、少し焦げた蜂蜜パン。
古い時計工房で、懐中時計を見つめながら涙を流していたダリオさん。
そして、壊れた木馬を大切に抱きしめていたミナちゃん。
三人とも、きっと今日もどこかで暮らしている。
ユリウスさんは、朝早くからパンを焼いているだろうか。
ダリオさんは、あの懐中時計のねじを巻いているだろうか。
ミナちゃんは、修理した木馬で遊んでいるだろうか。
「……元気にしているといいな」
自分でも気づかないうちに、口元が緩んでいた。
あの人たちの悲しみが消えたわけではない。
大切な人が帰ってこないという事実は、何ひとつ変わっていない。
それでも、彼らは明日を迎えようとしていた。
僕には、それが眩しく思えた。
鞄の肩紐を握り直す。
内側には、防水布で丁寧に包んだ三通の手紙が入っている。
リラさんへ。
セシリアさんへ。
ナーグさんへ。
最初に預かった手紙は、すべて届け終えた。
今、僕が運んでいるのは、残された人たちからの返事だった。
王都までは、あと二日ほどだろう。
「……もう少しか」
呟いてから、なぜか足が重くなった。
長い旅だった。
何度も道を間違え、知らない土地で宿を探し、傷ついた脚を庇いながら歩いてきた。
ようやく帰れるというのに。
僕は、なぜだか少しも急ぐ気になれなかった。
その日の夕方、僕は街道から少し外れた林で野営の準備を始めた。
近くには小川が流れていて、背の高い木々が風を遮ってくれる。
以前にも、ここで一晩を過ごしたことがある。
もっとも、あのときは一人ではなかったけれど。
「……この辺りだったかな」
地面の傾斜を確かめ、平らな場所に荷物を下ろす。
薪を集めて火を起こし、小川から汲んできた水を鍋に注いだ。
こうした作業には慣れている。
野営地を見つけることも、食事を作ることも、旅の間は僕の仕事だった。
今日は野菜と干し肉のスープにしよう。
人参を刻み、芋の皮を剥き、干し肉を細かく切っていく。
身体が覚えている手順に従って作業を進めていたのだけれど、途中でふと手が止まった。
「……あれ?」
まな板の上に並んだ野菜を見つめる。
人参が二本。
芋が四つ。
干し肉も、ずいぶん多い。
どう考えても、一人分の量ではなかった。
「……しまった」
僕は思わず苦笑した。
また、やってしまった。
野菜を切りながら、無意識に五人分の食事を用意しようとしていたのだ。
もう半年以上も経つというのに、昔の癖はなかなか抜けないらしい。
『テオ! 今日は肉を多めに頼むぞ!』
不意に、懐かしい声がよみがえった。
『ナーグ、あなた昨日も同じことを言っていたじゃない』
『がははっ! 美味いものは何度食べたっていいんだよ!』
『もう。テオ君を困らせたら駄目でしょう?』
『いやあ、リラ。テオの料理は本当に美味いからな!』
いつも、そんなやり取りがあった。
ナーグさんは必ず大盛りを頼んで、セシリアさんに呆れられていた。
リラさんは二人を宥めながら、料理を運ぶ僕を手伝ってくれた。
そして、レインさんは。
『ありがとう、テオ。今日も助かるよ』
必ず、そう言ってくれた。
僕が何を作っても、最初に礼を言ってくれる人だった。
「……そうだったな」
包丁を置く。
目の前には、切り分けられた大量の野菜。
その向こうでは、焚き火が静かに揺れている。
いつもなら、そろそろナーグさんが鍋を覗き込みに来る頃だ。
セシリアさんに叱られても、懲りずにつまみ食いをしようとする。
僕はそんな姿を思い浮かべて、少しだけ笑った。
「……もう、五人分もいらないんだった」
口に出した途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。
分かっていたことなのに。
ずっと前から、分かっていたはずなのに。
僕は、余った野菜を布に包んで鞄へ戻した。
鍋には一人分より少し多いくらいの材料を入れる。
残りは明日の朝に食べればいい。
ナーグさんがいたら、きっと全部平らげてしまっただろう。
そんなことを考えながら、木べらで鍋の中身をかき混ぜた。
やがて、スープが完成した。
僕は器に盛りつけ、焚き火の前に腰を下ろす。
「……いただきます」
小さく呟いて、スプーンを口へ運んだ。
温かい。
塩加減もちょうどいい。
干し肉の旨味が野菜に染み込んでいて、なかなか美味しくできたと思う。
それなのに。
「……静かだなあ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
向かい側には誰も座っていない。
隣にも、誰もいない。
聞こえるのは、小川のせせらぎと薪の爆ぜる音ばかりだった。
食事をしているとき、僕はいつもみんなの顔を見ていた。
美味しそうに食べてくれるだけで、嬉しかった。
明日は何を作ろう。
どんな料理なら喜んでもらえるだろう。
そんなことを考えるのが、好きだった。
僕はもう一口、スープを飲んだ。
いつもと同じ味がした。
ただ、それを美味しいと言ってくれる声が、どこにもなかった。
夜になると、空には無数の星が輝いていた。
僕は食器を片づけ、焚き火に薪を足してから、寝袋の上に腰を下ろした。
空を見上げる。
「あれが、北を示す星……だったかな」
そう呟いてから、少しだけ首を傾げた。
セシリアさんなら、すぐに教えてくれただろう。
『そこじゃないわよ。もう少し右。まったく、何度教えれば覚えるのかしら』
きっと、そんなふうに呆れるのだ。
けれど、僕がちゃんと見つけられるまで、何度でも付き合ってくれたはずだった。
「……セシリアさん」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
僕は星空から視線を下ろし、膝を抱えた。
ふと、昔のことを思い出した。
勇者パーティに加わったばかりの頃のことだ。
僕はずっと、自分があの場所にいていいのか分からなかった。
孤児院で育った僕には、特別な才能なんてなかった。
剣も得意じゃない。
魔法なんて、簡単な生活魔法すら満足に使えない。
昔から手先は少し器用だったけれど、それくらいのことが何の役に立つのかと思っていた。
孤児院の生活は、決して悪いものではなかった。
先生たちは優しかったし、一緒に育った友達もいた。
けれど、大きくなるにつれて、みんな少しずつ自分の道を見つけていった。
職人の弟子になった者。
商人の店で働き始めた者。
遠い町へ旅立った者。
僕も孤児院を出て、働きながら暮らしていた。
ただ、自分がどこへ向かえばいいのか、よく分からなかった。
そんなときに出会ったのが、レインさんだった。
『テオ。よかったら、俺たちと一緒に来ないか?』
最初は冗談だと思った。
勇者パーティに僕なんかが加わっても、足手まといになるだけだと思ったからだ。
でも、レインさんは笑って言ってくれた。
『俺たちには、戦い以外のことを任せられる仲間が必要なんだ』
その言葉が嬉しくて、僕は荷物持ちになった。
もちろん、最初からうまくいったわけじゃない。
荷物の積み方を間違えて食料を駄目にしたこともあるし、野営地を選び損ねて全員を雨に濡らしたこともある。
そんなある晩、僕はとうとう尋ねてしまった。
『……僕みたいなのが、本当にここにいてもいいんでしょうか』
みんな、きょとんとしていた。
そしてナーグさんが笑った。
『何言ってんだ! お前がいなかったら、俺たちはまともに飯も食えねえぞ!』
『食事だけじゃないでしょう。道具の管理だって、全部テオがやってくれているじゃない』
セシリアさんが呆れたように言う。
『そうよ。テオ君は大切な仲間なんだから』
リラさんが微笑んだ。
最後に、レインさんが僕の肩を叩いた。
『これからも頼りにしているぞ、テオ』
僕は、そのときのことを今でも覚えている。
嬉しかった。
それまで、自分がいてもいなくても大して変わらないと思っていた。
けれど、あの人たちは違った。
僕の作った料理を美味しいと言ってくれた。
修理した道具を大切に使ってくれた。
失敗して落ち込んだときには、笑って励ましてくれた。
五人で囲む焚き火が、いつの間にか大好きになっていた。
あそこが、僕の居場所だった。
「……帰る場所、か」
焚き火を見つめながら、呟いた。
孤児院には、今でもお世話になった人たちがいる。
王都にはレインさんもいる。
きっと、訪ねれば喜んで迎えてくれるだろう。
けれど。
僕が荷物を置いて、明日もここにいようと思える場所は、どこにあるのだろう。
五人で旅をしていた頃は、そんなことを考える必要もなかった。
明日もみんなと歩く。
明後日も、その次の日も。
それだけでよかった。
「……僕は、これからどうしたらいいんでしょうね」
焚き火に向かって、ぽつりと問いかけた。
当然、答えてくれる人はいなかった。
僕は鞄から、三通の手紙を取り出した。
防水布を解き、膝の上へ並べる。
ユリウスさんが書いた、リラさんへの返事。
ダリオさんが書いた、セシリアさんへの返事。
クララさんとミナちゃんが書いた、ナーグさんへの返事。
どれも封をしたままだ。
僕は中身を知らない。
けれど、その手紙を書く人たちの姿は見てきた。
だから、どれほど大切な言葉が綴られているのか、少しだけ分かる気がした。
「……僕も、書いてみようかな」
ふと、そんなことを思った。
鞄から予備の便箋を取り出す。
小さなインク瓶を開け、筆を握った。
まずは、リラさんへ。
そう考えて、手が止まる。
何を書けばいいのだろう。
ありがとう。
いつも助けてくれて、ありがとうございました。
あなたのおかげで、僕は何度も救われました。
セシリアさんにも、ナーグさんにも、伝えたいことはたくさんある。
でも。
それだけじゃない。
謝りたかった。
みんなを助けられなくて、ごめんなさい。
最後まで、守られてばかりでごめんなさい。
僕だけが生き残って、ごめんなさい。
そこまで考えたところで、筆先が震えた。
白い便箋に、一滴のインクが落ちる。
「……あ」
黒い染みが、ゆっくりと広がっていった。
僕は慌てて布で拭ったけれど、染みは消えなかった。
しばらく、その汚れを見つめていた。
ふと、ナーグさんの最期がよみがえる。
ひび割れた盾。
血に濡れた鎧。
震える手。
『……生きろよ、テオ』
あの人は、そう言った。
僕を守るために、自分の命を懸けた。
そのことを、忘れた日は一日だってない。
けれど、今でも考えてしまう。
もし、僕がもっと強かったら。
もし、あのとき怪我をしていなかったら。
もし、僕がもっと早く動けていたら。
ナーグさんは、家族のもとへ帰れたのではないか。
そんなことを考えても、何も変わらない。
分かっている。
けれど、どうしても考えてしまうのだ。
「……ごめんなさい」
小さく呟く。
謝っても、誰も帰ってこない。
それでも、その言葉しか出てこなかった。
僕は筆を置き、汚れた便箋を折り畳んだ。
結局、一文字も書けなかった。
そのとき、不意に気づいた。
僕は、手紙を届け終えることを怖がっている。
みんなとの約束を守りたいと思っていた。
それは、嘘じゃない。
でも、それだけではなかったのだ。
手紙を運んでいる間は、まだ僕には仕事があった。
リラさんに頼まれたこと。
セシリアさんから預かったもの。
ナーグさんと交わした約束。
それを果たしている間は、まだみんなの荷物持ちでいられた。
けれど、この三通の返事を届けてしまったら。
僕は、もう誰の荷物を運べばいいのだろう。
誰のために、料理を作ればいいのだろう。
明日の朝、誰を起こせばいいのだろう。
「……そっか」
僕は、膝の上の手紙を見つめた。
「僕、終わらせたくなかったんだ」
なんて情けないのだろう。
ユリウスさんも、ダリオさんも、クララさんたちも、勇気を振り絞って返事を書いてくれた。
僕はそれを届けると約束した。
なのに、その約束を果たすことが怖い。
届け終えたら、僕と三人をつないでいる最後の糸まで切れてしまうような気がした。
「……みんな」
顔を上げる。
焚き火の向こうには、誰もいない。
「僕、どうしたらいいんでしょうね……」
答えは返ってこなかった。
ただ、夜風に揺られた炎が、小さく音を立てていた。
僕は三通の手紙を丁寧に包み直し、鞄の奥へしまった。
それから、火が消えるまでずっと、焚き火を見つめていた。
王都の城壁が見えたのは、それから二日後のことだった。
見慣れた大きな門を前に、僕はしばらく立ち止まった。
「……帰ってきたんだ」
独り言が、風に紛れて消えていく。
門番にレインさんから預かった通行証を見せ、王都へ入った。
大通りは、相変わらず賑やかだった。
市場には新鮮な野菜や果物が並び、商人たちが声を張り上げている。
子供たちが笑いながら走り回り、広場では旅芸人が楽器を奏でていた。
魔王がいなくなった世界。
人々は、それぞれの日常を生きている。
僕は立ち止まり、しばらくその光景を眺めていた。
以前なら、こんな景色を見るたびに胸が苦しくなった。
みんなが笑っている。
みんなが平和を喜んでいる。
けれど、その平和のために命を落とした人たちは、もう笑うことができない。
そんなふうに考えてしまっていた。
今でも、寂しさが消えたわけではない。
でも。
フェルミナのパン屋には、ユリウスさんがいる。
あの時計工房には、ダリオさんがいる。
エルナ村には、クララさんとミナちゃんがいる。
彼らが暮らす明日も、みんなが守ってくれたものなのだ。
「……そうですよね」
僕は、静かに呟いた。
リラさん。
セシリアさん。
ナーグさん。
あなたたちが守ってくれた世界には、ちゃんと笑顔が残っていますよ。
そう伝えたかった。
歩き始めようとしたところで、通りの端にある花屋が目に入った。
木製の棚に、色とりどりの花が並んでいる。
僕は、少し迷ってから店へ足を向けた。
「いらっしゃい。何かお探しかい?」
店番の女性が、笑顔で声をかけてくる。
「あの……花を、三人分お願いできますか?」
「もちろん。どんな花がいいんだい?」
僕は棚を見渡した。
白い花。
青い花。
黄色い花。
どれも、陽の光を浴びて綺麗に咲いている。
「……これを、お願いします」
まず、白い花を選んだ。
柔らかな花弁を持つ、小さな花だった。
リラさんには、これが似合う気がした。
誰かが怪我をすると、自分のことを後回しにして駆け寄ってくれた、あの優しい人に。
次に選んだのは、青い花。
細い花弁が、星のように広がっている。
セシリアさんなら、きっと気に入ってくれるだろう。
『あら、なかなか趣味がいいじゃない』
そんなふうに言ってくれるかもしれない。
最後に、黄色い花を選んだ。
大きく開いた、明るい色の花。
ナーグさんの豪快な笑顔を思い出した。
『おいおい、テオ! 花より美味い飯を持ってきてくれよ!』
そんな声が聞こえてきそうで、思わず笑ってしまった。
「……ふふっ」
「どうしたんだい?」
「あっ、いえ」
僕は慌てて首を振った。
「ちょっと、昔のことを思い出してしまって」
「そうかい」
女性はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、三種類の花を丁寧に束ねてくれた。
「はい。お待たせ」
「ありがとうございます」
代金を払い、花束を受け取る。
「どなたかに贈るのかい?」
僕は、少しだけ考えた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……はい。大切な仲間たちに」
そう答えると、女性は優しく微笑んだ。
僕は花束を抱え、店を後にした。
今まで、誰かから預かったものばかり運んできた。
けれど、この花だけは違う。
僕自身が、みんなに贈りたいと思って選んだものだった。
「……喜んでくれるといいな」
そう呟いて、少しだけ笑った。
王都の墓地は、町の北側にある小高い丘の上に建てられている。
三人の墓も、そこにあった。
僕は花束を抱え、墓地へ続く坂道を歩いていた。
石畳の両脇には背の高い木々が並び、木漏れ日が地面に模様を描いている。
風が吹くたびに枝葉が揺れ、さらさらと乾いた音がした。
あと少し。
この坂を上れば、三人が眠る場所へ辿り着ける。
鞄には、三通の返事が入っている。
手には、三人のために選んだ花がある。
準備は、すべて整っていた。
あとは、それを届けるだけ。
それだけのはずだった。
「……あれ?」
不意に、足が止まった。
右脚が痛んだわけではない。
息が切れたわけでもない。
ただ、どうしても先へ進めなかった。
僕は坂道の先を見つめた。
この向こうに、三人の墓がある。
リラさん。
セシリアさん。
ナーグさん。
みんなが、あそこに眠っている。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく苦しくなった。
「……もう、終わっちゃうんだ」
小さな声が漏れた。
手紙を届けるために始めた旅。
その旅も、あと少しで終わる。
仲間たちとの最後の約束。
それを果たしてしまえば、僕にはもう、みんなから頼まれた仕事が残っていない。
頭では分かっている。
僕たちの旅は、半年前に終わっているのだ。
魔王城で三人が命を落とした、あの日に。
どれほど手紙を運んでも、あの時間が戻ってくることはない。
それでも。
僕は、まだ認めたくなかった。
「……怖いな」
ぽつりと呟く。
魔王城へ向かうときも、怖かった。
死ぬのが怖かった。
仲間を失うのが怖かった。
でも、今は少し違う。
僕は、みんながいない明日を生きていくことが、怖かった。
右手が、無意識に鞄の肩紐を握りしめていた。
まだ少しだけ、この鞄を背負っていたかった。
まだ、みんなの荷物持ちでいたかった。
誰かに名前を呼ばれて、振り返れば、そこにみんながいる。
そんな日々が、終わってしまったことを。
僕は、まだ受け入れられずにいた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
僕は、花束を抱き直した。
白い花が、風に揺れている。
青い花も、黄色い花も。
みんなのために選んだ花だ。
だから、届けたい。
けれど、今日の僕には、どうしてもあの坂を上ることができなかった。
しばらく立ち尽くしているうちに、空が少しずつ茜色に染まり始めた。
僕は、ゆっくりと息を吐いた。
「……明日」
小さく呟く。
「明日、必ず届けますから」
約束を破るつもりはなかった。
三通の返事を、ちゃんとみんなのもとへ届ける。
その気持ちは、今も変わっていない。
ただ、もう一晩だけ。
もう少しだけ、時間がほしかった。
僕は墓地へ続く道から視線を外し、ゆっくりと踵を返した。
宿に戻ると、僕は花瓶を借りて、三つの花束を水に挿した。
白と青と黄色。
小さな部屋の窓辺に並んだ花は、夕日に照らされて静かに揺れていた。
僕は鞄を椅子の上に置き、寝台へ腰を下ろした。
部屋には、僕一人しかいない。
いつものことだ。
それなのに、今夜はいつも以上に広く感じられた。
鞄から、三通の返事を取り出す。
一通ずつ封筒を確かめ、そっと指で撫でる。
「……リラさん」
白い花へ目を向ける。
「ユリウスさん、立派なパン職人になっていましたよ」
少し焦げた蜂蜜パンの味を思い出す。
「セシリアさん」
青い花を見る。
「ダリオさんの時計、ちゃんと動くようになりました」
あの小さな懐中時計の音が、耳の奥によみがえった。
「ナーグさん」
最後に、黄色い花へ視線を移した。
「ミナちゃんの木馬、直しましたよ」
小さな少女の笑顔が浮かぶ。
「……みんな、あなたたちのことを大切に思っていました」
それは、確かなことだった。
時間が経っても。
会えなくなっても。
忘れたくないと、願っている人たちがいた。
僕も、同じだった。
「……明日、会いに行きます」
三通の手紙を、丁寧に鞄へしまう。
「だから、もう少しだけ……待っていてください」
もちろん、返事はなかった。
僕は窓辺の花を見つめた。
旅の間、何度も思い出した三人の顔。
優しく笑っていたリラさん。
呆れたようにため息をついていたセシリアさん。
豪快に笑っていたナーグさん。
その誰もが、僕の大切な仲間だった。
そして、明日。
僕は、みんなとの最後の約束を果たす。
きっと、それが終われば。
僕は本当に、みんながいない明日を歩き始めなければならない。
その先に何があるのか、今はまだ分からない。
それでも。
この手紙だけは、最後まで届けよう。
みんなが僕を信じて、預けてくれたものなのだから。
「……おやすみなさい、みんな」
僕は小さく呟き、窓辺の花をもう一度見つめた。
明日の朝。
今度こそ、あの坂道を上ろう。
そして、三人の前で、ちゃんと伝えよう。
あなたたちの大切な人たちは、今も元気に暮らしていること。
あなたたちが守った世界には、たくさんの笑顔が残っていること。
そして。
僕は、みんなと旅ができて、本当に幸せだったことを。
窓の外では、王都の灯りが静かに瞬いていた。
僕はその光を眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。
明日になれば、きっと。
僕たち五人の旅は、本当に終わるのだろう。




