第6話 お父さんの約束
「クララ、ミナへ」
クララさんの声が、静かな部屋に響いた。
窓から差し込む夕日が、広げられた便箋を柔らかく照らしている。
ミナちゃんは母親の隣に座り、大切そうに木馬を抱きしめていた。
「二人とも元気にしているか?」
少し不格好な文字で書かれた、ナーグさんからの手紙。
クララさんは、一文字ずつ確かめるように読み進めていく。
「まずは、手紙なんて柄にもないものを書いている俺を笑ってくれ。きっとクララは、字が汚いって文句を言うんだろうな」
そこまで読んだところで、クララさんが小さく笑った。
「……本当に、あの人ったら」
その声は、少しだけ震えていた。
「いつも言っていたんです。もう少し綺麗な字を書いてくださいって」
「……ナーグさん、手紙を書くのは苦手でしたから」
僕がそう答えると、クララさんは懐かしそうに微笑んだ。
「ええ。昔からそうでした」
それから、もう一度便箋へ視線を落とす。
「まあ、そのくらいは勘弁してくれ。もし、この手紙を読んでいるなら、どうやら俺は約束を守れなかったらしい」
そこで、声が止まった。
「……すまない。必ず帰ると言ったのにな」
クララさんの指先が、わずかに震える。
ミナちゃんは母親の顔を見上げていた。
「……お母さん?」
「大丈夫よ、ミナ」
クララさんは娘の頭を優しく撫でる。
そして、小さく息を吸って続きを読み始めた。
「クララ。お前の作る料理が、俺は大好きだった。特にあの野菜のスープだ。旅先でも何度も思い出したよ」
「……野菜の、スープ」
クララさんが呟いた。
「あんな、どこにでもある料理を……」
その頬に、一筋の涙が伝う。
「いつも当たり前みたいに食べていたけど、もっと美味いって言っておけばよかったな。それから、ありがとう。俺みたいな不器用な男と結婚してくれて」
クララさんは、手紙を握りしめた。
「……私こそ」
小さな声だった。
「私こそ、ありがとうって……もっと言えばよかったのに……」
僕は何も言わなかった。
ただ、静かに二人を見守っていた。
しばらくして、クララさんは涙を拭う。
「……次は、ミナへの言葉ね」
「わたし?」
「ええ。お父さんが、ミナに書いてくれているわ」
ミナちゃんは背筋を伸ばした。
その小さな手には、相変わらず壊れた木馬が握られている。
「ミナ。お父さんが帰ったら木馬を直してやるって約束したの、覚えているか?」
「……うん」
少女が小さく頷く。
「覚えてるよ、お父さん」
「……あれも、守れなくなっちまったな。本当にごめんな」
ミナちゃんは木馬を抱きしめた。
「お父さんは、お前が大きくなっていくところを、もっと見ていたかった。初めて学校へ行く日も、好きな人ができた日も、大人になった日も、全部そばで見ていたかった」
クララさんの声が、少しずつ震え始める。
「でも、それができなくなっちまった」
ミナちゃんは、じっと母親の顔を見つめていた。
「なあ、ミナ。お父さんは、世界で一番強い騎士なんかじゃない。怖いことだってたくさんある。本当は、戦いなんかより、お前と遊んでいる時間の方がずっと好きなんだ」
その言葉に、僕は思わず俯いた。
ナーグさん。
あなたは、いつも強かった。
どんな魔物を前にしても、大きな盾を構え、豪快に笑っていた。
けれど、本当は。
あの人だって、怖かったのだ。
「それでも、お父さんが戦ったのは、お前とお母さんが明日も安心して暮らせるようにしたかったからだ」
クララさんは、ゆっくりと読み進める。
「二人とも。これから先、悲しいことがあったら、我慢しなくていい。俺のことを思い出して泣いてもいいし、楽しいことがあったら、遠慮せず笑ってくれ」
ミナちゃんの瞳に、涙が浮かんでいた。
「俺は、二人が幸せでいてくれることが何より嬉しい」
そして。
「最後に、もう一つだけ」
クララさんの声が止まる。
彼女は一度目を閉じ、深く息を吸った。
「もし、もう一度だけ願いが叶うなら」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「俺は世界一の英雄になることでも、立派な騎士として讃えられることでもなく……あの家に帰りたい」
ぽたり。
便箋の上に、涙が落ちた。
「いつもの椅子に座って、三人で夕飯を食べたい」
僕は、部屋の端に置かれた大きな椅子へ視線を向けた。
ナーグさんが使っていた椅子。
今はもう、誰も座っていない椅子。
「ただいまって言って、お前たちに会いたい」
クララさんの声が震える。
「それが……俺の、一番の願いだった」
それきり、しばらく言葉が続かなかった。
ミナちゃんが母親の服をぎゅっと握る。
クララさんは娘を抱き寄せ、最後の一文を読み上げた。
「クララ。ミナ。俺の家族になってくれて、ありがとう。心から愛している。ナーグ・タロストより」
手紙を読み終えた後も、誰も口を開かなかった。
壁に掛けられた時計が、規則正しく時を刻んでいる。
窓の外からは、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
そのどれもが、あまりにも穏やかだった。
「……あの人、本当に……」
クララさんが小さく呟く。
「最後まで、私たちのことばかり……」
彼女は便箋を胸に抱きしめた。
「……帰ってきて、ほしかったわ」
その声を聞いたとき、僕は何も言えなかった。
なぜなら。
僕だって、同じことを思っていたから。
「……ねえ、お母さん」
しばらくして、ミナちゃんが口を開いた。
「なあに?」
「お父さん、帰りたかったんだね」
クララさんは、小さく頷いた。
「……ええ。そうね」
「……そっか」
ミナちゃんは、膝の上の木馬を見つめていた。
その小さな背中が、いつもより寂しそうに見えた。
そして、不意に僕の方を向く。
「……テオお兄ちゃん」
「なに、ミナちゃん?」
「お父さんって……最後まで、帰りたいって言ってた?」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
忘れられるはずがなかった。
あの日のことを。
あの人が、最後に残した言葉を。
魔王城の最深部。
そこは、地獄のような場所だった。
崩れ落ちた天井。
砕け散った石柱。
辺りには血の匂いが漂い、魔力の残滓が空気を震わせていた。
リラさんは、もう動かなかった。
セシリアさんも、二度と目を開けることはなかった。
レインさんは、傷だらけの身体で魔王と戦い続けていた。
そして僕は、床に倒れ込んでいた。
右脚は折れ、身体中が痛む。
呼吸をするだけで、胸の奥に鋭い痛みが走った。
「……テオ」
そんな僕の前に、ナーグさんが立っていた。
大きな盾を構えた、聖騎士の姿。
けれど、その鎧は血に濡れ、盾には無数の亀裂が走っていた。
「……ナーグ、さん」
「喋るな。傷に響くぞ」
いつものように笑おうとしたのだろう。
しかし、その表情はひどく疲れていた。
そして。
僕は、気づいてしまった。
盾を握るナーグさんの手が、震えていることに。
「……なあ、テオ」
「……はい」
ナーグさんが、小さく口を開いた。
「俺はよ……帰りてえな」
その声は、いつもの豪快なものではなかった。
ひどく弱々しい声だった。
「クララの飯が、食いてえ」
「……はい」
「ミナの木馬も……直してやらねえとな」
僕は必死に頷いた。
「……帰りましょう、ナーグさん」
「ああ……」
「みんなで、帰りましょう……!」
ナーグさんは、小さく笑った。
「……そうだな」
けれど。
その直後だった。
魔王が放った、凄まじい魔力の奔流。
それが、僕たちの方へと迫ってきた。
逃げなければ。
そう思った。
けれど、身体が動かなかった。
傷ついた脚では、立ち上がることさえできなかった。
「……っ!」
視界が、眩い光で埋め尽くされる。
その瞬間。
ナーグさんが、僕の前に立った。
「……ナーグさん!?」
彼は盾を構えた。
傷だらけの、ひび割れた大盾。
それを両手で支え、迫り来る魔力を受け止めた。
凄まじい衝撃が、城内を揺らす。
「ぐっ……!」
ナーグさんの身体が、大きく震えた。
盾に、新たな亀裂が走る。
「ナーグさん! もういいです! 逃げてください!」
「……馬鹿野郎」
掠れた声が返ってきた。
「お前を置いて……逃げられるかよ……!」
僕は必死に手を伸ばした。
けれど、届かない。
ナーグさんは最後の力を振り絞り、僕の身体を危険な場所から押し出した。
そして。
「……生きろよ、テオ」
それが、最後だった。
砕け散った盾の向こうで、あの大きな背中が崩れ落ちていく。
僕は、叫んだ。
何度も、何度も名前を呼んだ。
けれど。
ナーグさんは、二度と立ち上がらなかった。
「……うん」
僕は、ゆっくりと頷いた。
目の前には、ミナちゃんがいる。
ナーグさんが、誰よりも大切にしていた娘。
「ナーグさんは……最後まで、帰りたいって言ってたよ」
少女の瞳が揺れた。
「……ほんと?」
「うん。本当だよ」
僕は、できるだけ穏やかな声で続けた。
「クララさんの料理が食べたいって。ミナちゃんの木馬を直してあげたいって」
「……そっか」
「ナーグさんはね、すごく強い人だった。でも、怖いものがない人じゃなかったんだ」
僕は、あの震えていた手を思い出す。
「それでも、最後まで僕たちを守ってくれた」
ミナちゃんは、何も言わなかった。
ただ、壊れた木馬をぎゅっと抱きしめている。
「……お父さん」
小さな声が漏れた。
「わたしも……」
ぽたり。
木馬の背中に、涙が落ちた。
「わたしも……帰ってきてほしかった……!」
少女の声が震える。
「お父さんに……会いたいよ……!」
クララさんが、娘を抱き寄せた。
「……ええ」
その声も、震えていた。
「お母さんも、会いたいわ……」
ミナちゃんは母親の胸に顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
僕は、その姿を見つめていた。
胸の奥に、どうしようもない痛みが広がっていく。
ナーグさん。
あなたが守ろうとした人たちは、今もあなたのことを想っています。
今でも、帰ってきてほしかったと願っています。
そして、僕も。
僕も、あなたに帰ってきてほしかった。
もう一度、あの豪快な笑い声を聞きたかった。
ただ、それだけだった。
翌朝。
僕は、もう一度ナーグさんの家を訪れていた。
昨日は手紙を読み終えた後、クララさんの勧めもあり、村の宿へ戻ることにした。
あの二人にも、きっと家族だけで過ごす時間が必要だと思ったからだ。
今日は、別れの挨拶をするために来た。
「テオお兄ちゃん!」
家の前に着くと、ミナちゃんが駆け寄ってきた。
「おはよう、ミナちゃん」
「おはよう!」
昨日はあれほど泣いていた少女が、今日は少しだけ穏やかな顔をしていた。
もちろん、悲しみが消えたわけではないだろう。
けれど、僕はその笑顔を見られたことが嬉しかった。
「……あのね、テオお兄ちゃん」
「なに?」
ミナちゃんは、少しだけ迷うように俯いた。
その手には、昨日と同じ木馬が握られている。
「……これ」
小さな手が、僕の方へ伸びる。
「直してくれる?」
僕は、思わず目を瞬かせた。
「……いいの?」
「うん」
ミナちゃんは小さく頷いた。
けれど、すぐに不安そうな顔になる。
「……でもね」
「うん?」
「これを直したら……お父さんとの約束、なくなっちゃう?」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
ああ。
そうだったんだ。
この子は、ずっと怖かったのだ。
木馬を直してしまえば、お父さんが帰ってきたら直してくれるという約束まで、消えてしまうような気がして。
だから、壊れたまま大切に抱えていたのだろう。
「……なくならないよ」
僕は、ゆっくりと答えた。
「ほんと?」
「うん」
僕は、木馬へ視線を落とす。
「だって、これはナーグさんがミナちゃんのために作ってくれた木馬でしょう?」
「……うん」
「脚を直しても、ナーグさんが作ってくれたことは変わらないよ」
ミナちゃんは、じっと木馬を見つめた。
「……そっか」
「それに、ナーグさんはきっと、ミナちゃんがこの木馬で遊んでくれたら嬉しいと思うんだ」
その言葉に、少女は少しだけ笑った。
「……うん」
そして、もう一度木馬を差し出す。
「じゃあ、直してほしい」
「……分かった」
僕は、その木馬を両手で受け取った。
「任せて」
そう答えると、ミナちゃんは嬉しそうに笑った。
木馬の修理は、思っていたよりも難しくなかった。
クララさんに工具を借り、庭先の小さな机で作業を始める。
折れていた脚の接合部分を整え、木材を補強する。
古くなった留め具も、必要なところだけ交換した。
僕が作業している間、ミナちゃんはずっと隣に座っていた。
「テオお兄ちゃん、すごいね!」
「そうかな?」
「うん! お父さんも、こういうの作るの得意だったんだよ!」
「……そうなんだ」
僕は思わず笑ってしまった。
ナーグさんが手先の器用な人ではなかったことを、よく知っていたからだ。
それでも、この木馬を作った。
きっと、娘のために何度も失敗しながら、一生懸命作ったのだろう。
『俺はよ、こういう細かい作業が苦手なんだ』
ふと、懐かしい声がよみがえる。
『でも、ミナが喜んでくれるなら、何度だって作ってやるさ!』
そう言って、豪快に笑っていた。
ナーグさん。
あなたは、本当に娘さんが大好きだったんですね。
僕は、最後の部品を取り付けた。
木馬の表面には、昔からついていた小さな傷が残っている。
形も、少しだけ不格好なままだ。
けれど、それでよかった。
これは、ナーグさんが娘のために作った木馬なのだから。
「……できたよ」
僕は、修理を終えた木馬を差し出した。
ミナちゃんは、恐る恐る受け取る。
そして、地面の上に置いた。
木馬は、しっかりと四本の脚で立っていた。
「……わあ」
少女の目が、大きくなる。
「直った……!」
「うん。もう大丈夫だよ」
ミナちゃんは、嬉しそうに木馬を抱き上げた。
そして。
「お父さん!」
空へ向かって、大きな声を上げた。
「お馬さん、直ったよ!」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
青い空が広がっている。
雲がゆっくりと流れ、柔らかな風が庭の花々を揺らしていた。
「……ありがとう、テオお兄ちゃん!」
ミナちゃんは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔が、あまりにもナーグさんに似ていて。
僕は、少しだけ胸が温かくなった。
「……どういたしまして」
僕は、ゆっくりと微笑んだ。
「……テオさん」
木馬の修理を終えた頃、クララさんが家から出てきた。
その手には、一通の封筒が握られている。
「少し、お願いしてもよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう?」
クララさんは、静かに封筒を差し出した。
「……主人に、手紙を書いたんです」
「ナーグさんに……?」
「ええ」
彼女は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「昨日、あの人の手紙を何度も読み返していたら、私も伝えたいことがたくさんあると気づいて」
封筒を見つめる。
「もう、直接伝えることはできませんけど……」
クララさんは、ゆっくりと顔を上げた。
「それでも、伝えたくて」
僕は、静かに頷いた。
「……はい」
「もしよかったら、主人のお墓へ届けていただけませんか」
その言葉に、僕は小さく微笑んだ。
「もちろんです」
すると、隣にいたミナちゃんが嬉しそうに声を上げた。
「わたしも書いたんだよ!」
「ミナちゃんも?」
「うん!」
少女は胸を張った。
「お母さんに教えてもらいながら、一生懸命書いたの!」
クララさんが微笑む。
「まだ字を覚え始めたばかりなので、少し読みにくいかもしれませんけど」
「そんなことありませんよ」
僕は、封筒を受け取った。
中には二枚の便箋が入っているらしい。
一枚はクララさんから。
もう一枚は、ミナちゃんから。
ナーグさんへ宛てた、二人の大切な言葉だ。
「……テオお兄ちゃん」
「なに?」
「お父さんに、届けてくれる?」
僕は、ゆっくりと頷いた。
「うん。必ず届けるよ」
「ほんと?」
「本当だよ。約束する」
ミナちゃんは、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お父さんによろしくね!」
「……うん」
僕は封筒を大切に鞄へしまった。
「ちゃんと、伝えてくるよ」
クララさんは、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、テオさん」
「いえ。僕は、手紙を運ぶことしかできませんから」
そう言うと、クララさんは小さく首を横に振った。
「……それだけでは、ありませんよ」
「え?」
「あなたが来てくださって、ミナは久しぶりに主人の話をしながら笑えました」
クララさんは、娘へ視線を向けた。
「私も……あの人のことを、少しだけ穏やかな気持ちで思い出せました」
その声には、確かな温かさがあった。
「……本当に、ありがとうございました」
僕は、何も言えなくなった。
ただ、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
僕にも、誰かのためにできることがあったのだろうか。
そう思うと、少しだけ嬉しかった。
別れの時間がやってきた。
クララさんは、旅の途中で食べられるようにと、焼き菓子や保存食を包んでくれた。
「こんなにいただいて、いいんですか?」
「ええ。主人がお世話になったお礼です」
「……ありがとうございます」
僕は深く頭を下げた。
そして、鞄を背負う。
「それでは、そろそろ失礼します」
「はい。道中、お気をつけて」
クララさんは優しく微笑んだ。
僕も頷き、村へ続く道へ足を向ける。
そのとき。
「テオお兄ちゃん!」
後ろから、小さな声が響いた。
振り返ると、ミナちゃんが駆け寄ってきていた。
その手には、修理したばかりの木馬が握られている。
「……どうしたの?」
「あのね!」
ミナちゃんは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「また、お父さんのお話してくれる?」
僕は、一瞬だけ言葉を失った。
けれど、すぐに微笑んだ。
「……うん。もちろん」
「ほんと!?」
「うん。ナーグさんの話なら、まだまだいっぱいあるからね」
ミナちゃんは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また来てね!」
「……うん」
僕は、小さく頷く。
「約束するよ」
「約束!」
ミナちゃんは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見ていると、不思議とナーグさんの姿が重なって見えた。
きっと、あの人も。
こんな笑顔が見たくて、戦っていたのだろう。
「……それじゃあ、行ってきます」
「うん! いってらっしゃい!」
少女の元気な声に見送られ、僕は歩き始めた。
エルナ村を出て、しばらく歩いたところで足を止めた。
振り返ると、遠くに小さな村が見える。
ナーグさんが帰りたがっていた場所。
妻と娘が暮らす、温かな家。
僕は、そっと鞄を下ろした。
そして、中から三通の手紙を取り出す。
リラさんへ宛てた、弟ユリウスさんからの手紙。
セシリアさんへ宛てた、父ダリオさんからの手紙。
ナーグさんへ宛てた、妻クララさんと娘ミナちゃんからの手紙。
最初に預かった三通の手紙は、すべて届けられた。
けれど、僕の鞄には今も三通の手紙が入っている。
亡くなった仲間たちへ宛てた、残された人々からの返事。
もう、直接渡すことのできない手紙。
それでも、確かに届けたい思いが込められている。
「……みんな」
僕は、青い空を見上げた。
「ちゃんと、届けましたよ」
風が吹く。
柔らかな風が、頬を撫でていった。
「リラさんの弟さんは、今もパンを焼いています」
少し焦げた、優しい味の蜂蜜パン。
「セシリアさんのお父さんは、時計を直しました」
長い間止まっていた、小さな懐中時計。
「ナーグさんの娘さんは……」
僕は、少しだけ笑った。
「あなたが作った木馬を、とても大切にしていますよ」
目を閉じる。
懐かしい声が、聞こえたような気がした。
リラさんの優しい声。
セシリアさんの呆れたような声。
ナーグさんの豪快な笑い声。
みんな、もういない。
それでも、彼らが残したものは、確かにこの世界にある。
大切な人たちの中に。
今も、息づいている。
「……さて」
僕は三通の手紙を防水布に包み直した。
そして、大切に鞄へしまう。
まだ、旅は終わっていない。
この手紙を、みんなの眠る場所へ届けなければならないから。
「……帰ろう」
僕は、王都へ続く道を見つめた。
「みんなのところへ」
鞄の肩紐を握り直す。
来たときと、重さはほとんど変わらない。
それでも、中に入っているものは確かに変わっていた。
僕は荷物持ちだ。
剣も魔法も使えない、ただの荷物持ち。
けれど。
みんなが残してくれた大切な思いを、最後まで届けることだけはできる。
僕は、再び歩き始めた。
三人との約束を、今度こそ果たすために。




