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魔王討伐から半年。勇者パーティの荷物持ちだった僕は、亡き仲間の手紙を届ける旅に出る  作者: 海鳴雫


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第4話 止まった時計

カーン、カーン、と鐘の音が響いていた。


顔を上げると、町の中央にそびえ立つ時計塔が目に入った。


大きな文字盤には、正午を少し過ぎた時刻が示されている。


「……立派な時計だなあ」


思わず感嘆の声が漏れた。


フェルミナの町を出発してから、五日。


僕は二通目の手紙を届けるため、魔道士セシリア・ルーンの故郷を訪れていた。


この町は古くから職人の町として知られており、時計や魔道具を製作する工房が数多く軒を連ねている。


通りを歩けば、金属を打つ音や木材を削る音が聞こえてくる。


魔王討伐の旅では、こうした町に立ち寄ることも少なくなかった。


そのたびに、セシリアさんは決まって魔道具屋へ足を運んでいたものだ。


『セシリアさんって、本当に魔道具が好きですよね』


『好きというより、興味があるのよ。こういうものは構造を理解するだけでも勉強になるから』


『僕には難しいことは分かりませんけど、壊れた道具を修理するのは好きですよ』


『そうでしょうね。あなた、妙なところで器用だもの』


あれは、旅の途中で壊れた魔道灯を修理していたときだった。


僕が内部の部品を交換していると、セシリアさんが隣にしゃがみ込んできたのだ。


『もっと勉強すれば、魔道具職人にだってなれるんじゃない?』


『いやいや、僕なんてまだまだですよ』


『……そういうところ、本当に変わらないわね』


呆れたようにため息をついた彼女は、ふと手元の部品を見つめて微笑んだ。


『まあ、私も昔はよく、父さんの仕事を眺めていたものだけど』


『お父さん、ですか?』


『ええ。時計職人なのよ。小さい頃はよく工房に入り浸っていたわ』


『へえ! じゃあ、セシリアさんが魔道具に詳しいのも、お父さんの影響なんですね』


『……どうかしらね』


そう言って、彼女は少しだけ遠い目をした。


『昔の話よ』


それ以上、彼女は父親について語ろうとはしなかった。


僕も、深く聞くことはなかった。


けれど今なら、少しだけ分かる気がする。


あのときのセシリアさんは、きっと故郷のことを思い出していたのだ。


「……セシリアさん」


僕は鞄の肩紐を握り直した。


「お父さんに、会いに来ましたよ」


返事はない。


代わりに、再び時計塔の鐘が鳴った。


僕はその音に背中を押されるように、町の奥へと歩き始めた。


ルーン時計工房。


古びた木製の看板には、そう書かれていた。


大通りから少し外れた場所にある、小さな工房だった。


建物そのものは年季が入っているものの、窓や扉は丁寧に手入れされている。


僕は一度深呼吸をしてから、扉を開いた。


カラン、と鈴が鳴る。


その直後、耳に飛び込んできたのは無数の時計の音だった。


カチ、カチ、カチ。


壁には大小さまざまな時計が掛けられ、棚には置き時計や懐中時計が並んでいる。


まるで、部屋そのものが時を刻んでいるかのようだった。


「……いらっしゃい」


工房の奥から、低い声が聞こえてきた。


作業台に向かっていたのは、白髪交じりの男性だった。


細い眼鏡をかけ、小さな工具を手に何かを修理している。


「あの、すみません」


「修理なら、そこに置いておいてくれ。急ぎの仕事は受けておらん」


「いえ、今日は修理の依頼ではなくて……」


男性の手が止まる。


「……何だ?」


「ダリオ・ルーンさんでしょうか?」


「そうだが」


僕は姿勢を正した。


「初めまして。僕はテオ・アルベルトといいます」


「……テオ?」


男性は顔を上げない。


僕は少しだけ迷ってから、言葉を続けた。


「セシリア・ルーンさんと、一緒に旅をしていました」


カチリ。


工具が作業台に置かれた。


ダリオさんはゆっくりと顔を上げ、僕を見つめる。


「……そうか」


それだけだった。


驚く様子も、怒る様子もない。


ただ、深い皺の刻まれた顔に、わずかな影が差した。


「勇者一行の、生き残りか」


「……はい」


「それで、何の用だ」


僕は鞄に視線を落とした。


「セシリアさんから、預かっているものがあるんです」


ダリオさんの眉が、ぴくりと動いた。


「……あいつから?」


「はい。魔王城へ向かう前に、僕へ預けてくれたものです」


しばらく、沈黙が続いた。


壁に掛けられた時計だけが、規則正しく音を立てている。


やがて、ダリオさんは口を開いた。


「……帰ってくれ」


「え……?」


「聞こえなかったのか。帰ってくれと言ったんだ」


思わず言葉を失った。


ダリオさんは再び作業台へ向き直る。


「今さら、あいつのことを聞いたところで、どうにもならん」


「……ダリオさん」


「娘が死んだことくらい、知っている」


低い声だった。


「王国から知らせが届いた。勇者一行が魔王を討伐したことも、その戦いで三人が死んだこともな」


工具を握る手に、力が込められる。


「……だから、もういい」


僕は何も言えなかった。


フェルミナで出会ったユリウスさんのことを思い出す。


彼は、姉を失った悲しみを怒りとして吐き出していた。


けれど、目の前のダリオさんは違う。


何も聞きたくない。


何も知りたくない。


まるで、娘の死から目を背けようとしているようだった。


「……分かりました」


僕は小さく頭を下げた。


「でも、その前にひとつだけ、セシリアさんの話をしてもいいですか?」


ダリオさんは答えなかった。


ただ、作業台の上に置かれた時計を見つめている。


僕は、その沈黙を拒絶とは受け取らなかった。


「セシリアさんは、本当にすごい魔道士でした」


ゆっくりと話し始める。


「僕なんかには理解できないような魔法も、簡単に使ってしまうんです。それに、とても物知りで……」


「……知っている」


ダリオさんが、小さく呟いた。


「あいつが魔法の才能に恵まれていたことくらい、わしだって知っている」


「……はい」


「それで?」


ぶっきらぼうな言葉。


けれど、先ほどのように帰れとは言われなかった。


僕は少しだけ安堵し、話を続けた。


「セシリアさん、口は少し厳しかったですけど、とても優しい人でした」


「……あいつが?」


「はい。僕が道具の修理に失敗すると、いつも呆れながら手伝ってくれたんです」


思い出すと、自然と笑みがこぼれた。


「それから、夜空を見るのが好きでした」


その瞬間。


ダリオさんの手が止まった。


「……星か?」


「はい。野営をしていると、よく一人で空を見上げていました」


「……そうか」


彼はゆっくりと工具を置いた。


「わしが、教えたんだ」


「え?」


「小さい頃、よく一緒に星を見た。北を示す星も、季節ごとに変わる星座も……あいつは全部覚えておった」


その声には、ほんの少しだけ懐かしさが滲んでいた。


「まだ小さかった頃は、毎晩のように星を見せてくれとせがまれたものだ」


ダリオさんは、窓の向こうへ視線を向けた。


「……あいつは、そんなことまで覚えていたのか」


「はい。お父さんから教わったんだって、話していました」


「…………」


「それに、魔王城へ向かう前の夜にも言っていたんです」


僕は、あの日の光景を思い出す。


焚き火から少し離れた場所。


星空を見上げていたセシリアさん。


『セシリアさん、どうしたんですか?』


『……別に。ちょっと考え事よ』


『緊張してるんですか?』


『当然でしょう。明日は魔王との決戦なんだから』


そう答えた彼女は、少しだけ笑った。


『まあ、帰ったら父さんとちゃんと話さないとね』


『お父さんと?』


『ええ。いつまでも意地を張っているのも馬鹿らしいもの』


そう言って、再び空を見上げた。


あのときの彼女の表情を、僕は今でも覚えている。


「……セシリアさん、帰りたかったんだと思います」


僕がそう告げると、ダリオさんは俯いた。


その手は、もう動かなかった。


「……あいつはな」


長い沈黙の後、ダリオさんが口を開いた。


「家を出ていくとき、わしと大喧嘩したんだ」


僕は黙って耳を傾けた。


「魔道士になりたいと言い出した。しかも、魔物討伐にも赴くような仕事に就きたいとな」


「……はい」


「わしは反対した。あいつには、もっと安全な生き方をしてほしかったんだ」


ダリオさんは苦々しげに笑った。


「だが、あいつも頑固だった。何を言っても聞き入れようとしなかった」


少しだけ、声が震える。


「最後には、わしが怒鳴った」


彼は作業台を見つめたまま、呟いた。


「そんなに出ていきたいなら、二度と帰ってくるな、と」


僕は息を呑んだ。


「……あいつは、本当に帰ってこなかった」


その言葉には、怒りも憎しみもなかった。


ただ、どうしようもない後悔だけが残されていた。


僕は鞄を下ろし、二通目の手紙を取り出す。


「……ダリオさん」


丁寧に包んでいた防水布を解く。


「これを、受け取っていただけませんか」


封筒には、セシリア・ルーンの名前が記されていた。


ダリオさんは、じっとそれを見つめる。


「……あいつの字だ」


掠れた声だった。


やがて彼は、震える手を伸ばした。


僕はそっと封筒を渡す。


ダリオさんは、しばらく何も言わずにそれを眺めていた。


そして、ゆっくりと封を開いた。


中から取り出された一枚の便箋。


そこに目を落とした瞬間、彼の表情が歪んだ。


「……まったく」


小さく呟く。


「自分のことより、わしの飯の心配か……」


その口元に、一瞬だけ苦笑が浮かんだ。


きっと、普段のセシリアさんらしい言葉が書かれていたのだろう。


僕は何も聞かなかった。


これは、父親に宛てられた娘の手紙だ。


僕が知る必要のない言葉だって、きっとある。


ダリオさんは黙ったまま便箋を読み進める。


やがて、その唇が小さく動いた。


「……自分の選んだ道を、後悔していない……か」


時計の音が響いていた。


「だが……父さんと仲直りできなかったことだけは、後悔している……」


そこで、言葉が途切れた。


ダリオさんは眼鏡を外し、目元を押さえた。


長い沈黙。


そして。


「……馬鹿な娘だ」


低い声が漏れた。


「そんなこと……わざわざ書かなくても、よかっただろうに……」


便箋を握る手が震えていた。


「……わしだって」


ぽつりと、言葉が落ちる。


「わしだって、謝りたかったんだ……」


ダリオさんは俯いた。


「何度も手紙を書こうとした。帰ってこいと……一度くらい顔を見せろと……」


声が掠れる。


「だが、どうしても書けなかった。先に謝るのが、悔しかったんだ」


彼は、自嘲するように笑った。


「……馬鹿なのは、わしの方だな」


僕は何も言わなかった。


どんな言葉をかけても、今の彼を慰めることはできないと思ったから。


ダリオさんは、もう一度手紙へ目を落とす。


そして、最後の一文を小さく読み上げた。


「……父さんの娘に生まれて、私は幸せでした」


その瞬間。


彼の頬を、一筋の涙が伝った。


「……セシリア」


震えた声。


「わしも……お前の父親で、幸せだったよ……」


その言葉は、もう娘には届かない。


けれど、ダリオさんは何度も、何度も繰り返していた。


しばらくして、ダリオさんは工房の奥へと向かった。


戻ってきた彼の手には、小さな木箱が握られていた。


「……君に、見せたいものがある」


「僕に、ですか?」


「ああ」


彼は木箱を作業台に置き、ゆっくりと蓋を開いた。


中に入っていたのは、一つの懐中時計だった。


銀色の装飾が施された、美しい時計。


しかし、ガラスにはひびが入り、針は途中で止まっている。


「……これは?」


「昔、セシリアに作ってやったものだ」


ダリオさんは時計を手に取った。


「十二歳の誕生日にな。あいつは、それはもう喜んでおった」


懐かしそうに微笑む。


「学校へ行くときも、買い物へ行くときも、肌身離さず持っていたんだ」


「……そうだったんですね」


「だが、家を出る日に置いていった」


彼は時計の裏蓋を指で撫でた。


「言い争いの最中、作業台へ叩きつけるように置いてな。それ以来、ずっとこのままだ」


僕は懐中時計を見つめた。


時計職人であるダリオさんなら、きっと簡単に修理できたはずだ。


けれど、彼はそうしなかった。


「……直してやろうと思ったことは、何度もある」


まるで僕の考えを読んだかのように、ダリオさんが口を開いた。


「だが、どうしても手をつけられなかった」


彼は時計を作業台へ置く。


「……今日は、直してみようと思う」


そう言うと、小さな工具を取り出した。


僕は黙って、その様子を見守ることにした。


ダリオさんは慎重に裏蓋を開き、中の部品を取り出していく。


小さな歯車。


曲がった針。


長い間動かされていなかった機構。


それらをひとつずつ確かめ、丁寧に修理していく。


途中、僕も工具を渡すのを手伝った。


「……君は、こういうものに慣れているのか?」


「はい。勇者パーティでは、道具の修理も僕の仕事でしたから」


「そうか」


ダリオさんは小さく頷いた。


「……セシリアは、そういう仕事を君に任せていたのか」


「ええ。たまに手伝ってくれましたけど」


「……あいつらしいな」


それだけ言って、また作業へ戻る。


窓から差し込む陽光が、少しずつ傾いていった。


時計の修理は、思っていたよりも時間がかかった。


何度も部品を調整し、ときには交換して。


けれど、ダリオさんは一度も諦めなかった。


そして、夕暮れが近づいた頃。


カチリ。


小さな音がした。


止まっていた針が、ゆっくりと動き始める。


「……あ」


僕は思わず声を漏らした。


カチリ、カチリ。


時計は、規則正しく時を刻んでいる。


「……直った」


ダリオさんが呟いた。


その声は、ひどく掠れていた。


「こんな……簡単なことだったのにな」


彼は懐中時計を両手で包み込んだ。


「……わしは、時計職人なんだ」


「……はい」


「壊れた歯車も、曲がった針も、わしなら直してやれる」


カチリ、カチリ。


小さな音が響く。


「けれど……」


ダリオさんの声が震えた。


「あの日、娘に言ってしまった言葉だけは……どうしても、直せんのだ……」


ぽたり。


時計の上に、涙が落ちた。


「……帰ってこいと、言えばよかった」


彼は俯いた。


「行くなと、言えばよかった。気をつけて帰ってこいと……ただ、それだけでよかったのに……」


握りしめた時計が、小さく震えている。


「……すまなかった、セシリア」


僕は、何も言えなかった。


工房の壁に掛けられた時計たちは、変わらず時を刻み続けていた。


壊れた時計は、直すことができる。


けれど、過ぎ去った時間は戻らない。


どれほど後悔しても、言ってしまった言葉を取り消すことはできない。


そんな当たり前のことが、今はひどく悲しかった。


やがて、ダリオさんは小さく息を吐いた。


「……すまなかったな、君まで付き合わせてしまって」


「いえ。僕は何もしていませんから」


「そんなことはない」


彼は静かに首を振った。


「君が来てくれなければ、わしはきっと、あの時計を直せなかった」


「……そうでしょうか」


「ああ」


ダリオさんは、修理した懐中時計を大切そうに見つめた。


「……なあ、テオ君」


「はい?」


「セシリアの墓は、どこにあるんだ?」


「王都にあります。亡くなった三人のお墓が、同じ場所に建てられているんです」


「……そうか」


ダリオさんはしばらく考え込んでいた。


そして、懐中時計を持ち上げる。


「これを、娘の墓へ持っていってもらおうかと思ったんだが……」


僕は小さく首を横に振った。


「その時計は、ダリオさんが持っていてください」


「……わしが?」


「はい」


僕は、セシリアさんが夜空を見上げていた姿を思い出す。


「セシリアさん、旅先でもお父さんの話をしていました。きっと、大切に思っていたんだと思います」


「……」


「だから、その時計も、ダリオさんが持っていてあげてほしいです」


ダリオさんは、しばらく時計を見つめていた。


やがて、小さく頷く。


「……そうだな」


その声は、先ほどよりも穏やかだった。


「なら、別のものを届けてもらってもいいか?」


「別のもの、ですか?」


「ああ。少し待っていてくれ」


そう言うと、彼は机から便箋を取り出した。


そして、ゆっくりと筆を走らせ始める。


僕は何も言わずに待っていた。


時計の針が進む。


一文字、一文字。


何度も筆を止めながら、ダリオさんは手紙を書き続けた。


やがて、彼は便箋を折り畳み、封筒へとしまった。


そこに記された名前は、セシリア・ルーン。


「……娘に、届けてくれないか」


ダリオさんが、封筒を差し出した。


「今さら、こんなものを書いたところで、どうにもならんのは分かっている」


彼は寂しそうに笑った。


「だが……どうしても、伝えておきたくてな」


僕は、その手紙を両手で受け取った。


「……分かりました」


大切に鞄へとしまう。


「必ず、届けます」


ダリオさんは、深く頭を下げた。


「……ありがとう」


その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。


僕は、セシリアさんとダリオさんの長いすれ違いを、何も知らない。


きっと、僕には分からない思い出も、後悔も、たくさんあるのだろう。


それでも。


少なくとも、今日だけは。


二人の間にあった、ほんの少しの距離を縮めることができたのかもしれない。


そんなふうに思った。


工房を出る頃には、空が茜色に染まっていた。


町の中央では、時計塔の鐘が鳴っている。


僕はその音を聞きながら、ゆっくりと歩き出した。


「……セシリアさん」


空を見上げる。


「お父さん、ちゃんとあなたのことを大切に思っていましたよ」


返事はない。


けれど、不思議と寂しいだけではなかった。


僕は鞄にそっと手を触れる。


中には、三通の手紙が入っている。


リラさんの弟、ユリウスさんから預かった返事。


セシリアさんの父親、ダリオさんから預かった返事。


そして。


まだ届けられていない、最後の一通。


ナーグ・タロスト。


勇者パーティの聖騎士。


いつも豪快に笑っていた、大きな身体の騎士。


彼の手紙の宛先は、妻のクララさんと、六歳になる娘のミナちゃんだった。


『テオ! 見てくれ! うちの娘だ! 可愛いだろう!』


あの人は、何度も僕に家族の肖像画を見せてくれた。


そして、そのたびに決まって言っていた。


『魔王を倒したら、真っ先に家へ帰るんだ。ミナのやつ、きっと俺を見るなり飛びついてくるぞ!』


嬉しそうに笑っていたナーグさん。


僕は、その姿を思い出す。


「……ナーグさん」


小さく呟いた。


「次は、あなたの家族に会いに行きます」


夕暮れの空を、風が吹き抜けていく。


僕は鞄の肩紐を握り直し、宿へ向かって歩き始めた。


明日になれば、また旅が始まる。


最後の手紙を届けるための旅が。


ふと、先ほど修理された懐中時計の音が、耳の奥によみがえった。


カチリ、カチリ。


止まっていた時計は、再び動き始めた。


けれど、過ぎ去った時間を取り戻すことはできない。


セシリアさんも、もう帰ってこない。


それでも、ダリオさんは時計を直した。


娘が残していったものを、もう一度大切にしようと決めた。


きっと、明日からも寂しい日は続くのだろう。


後悔する夜だって、何度も訪れるはずだ。


それでも。


止まってしまった時間を取り戻すことはできないけれど、人はもう一度、歩き始めることができるのだと思った。

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