第3話 少し焦げたパン
封筒が開かれる、小さな音がした。
ユリウスさんは、まるで壊れ物でも扱うかのように、一枚の便箋を取り出した。
その指先は、まだ震えている。
「……姉さん」
掠れた声が、静かな店内に落ちた。
僕は何も言わず、彼が手紙を読み始めるのを待った。
便箋を開いたユリウスさんは、そこに書かれた文字をじっと見つめていた。
「……相変わらず、字が丸いなあ」
ぽつりと呟く。
「昔からそうだったんです。姉さんの字って、なんだか子供みたいに丸くて……」
少しだけ笑った彼の表情は、どこか懐かしそうだった。
きっと、そこには僕の知らない姉弟の思い出があるのだろう。
「……声に出して読んでも、いいですか」
「はい。もちろんです」
僕が頷くと、ユリウスさんは小さく息を吸った。
そして、ゆっくりと手紙を読み始めた。
「ユリウスへ」
それは、もう二度と聞くことのできない姉からの言葉だった。
「元気にしているかしら。ちゃんとご飯は食べている? 夜更かしばかりしていない?」
最初の一文を読んだところで、ユリウスさんが小さく笑った。
「……まったく、姉さんは」
彼は目元を緩め、続きを読み始めた。
「なんて、もう子供じゃないんだから、こんなことを聞いたら怒られちゃうわね。でも、お姉ちゃんにとっては、あなたはいつまでも可愛い弟なの」
その言葉を聞きながら、僕も思わず微笑んでしまった。
ああ、本当にリラさんらしい。
彼女はいつだって、誰かのことばかり心配していた。
僕が少しでも無理をすると、すぐに気づいて叱ってくれたものだ。
ユリウスさんは一度言葉を切り、再び便箋へ目を落とす。
「あなたの焼くパンは、今でも少し焦げているのかしら」
そこで、彼の表情が変わった。
「……え?」
驚いたように目を瞬かせる。
それでも、続きを読む。
「覚えている? 初めて一人でパンを焼いたとき、あなたは真っ黒に焦がしてしまって、悔しくて泣いていたわね」
「……覚えてるよ」
小さな返事。
まるで、そこに姉がいるかのようだった。
「あのとき、私は美味しいって言ったでしょう。実はね、あれは嘘だったの。だって、本当に苦かったんだもの」
「……ははっ」
ユリウスさんが笑った。
「なんだよ、それ……」
けれど、その声は震えていた。
「でも、それから何度も練習して、少しずつ上手になっていくあなたを見ているのが、私はとても嬉しかった。だから、あなたが作る少し焦げたパンは、私の大好物になったのよ」
読み終えた彼は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……ずるいよ、姉さん」
その言葉が、妙に胸に残った。
ユリウスさんは俯き、また続きを読み始める。
「ユリウス。もし、これを読んでいるのなら、私はもう帰れないのでしょうね」
空気が変わった。
さっきまで微かに浮かんでいた笑顔が、消えていく。
「ごめんなさい。あなたに、寂しい思いをさせてしまうわね」
ユリウスさんの声が震え始めた。
「でも、ひとつだけお願いがあるの。私がいなくなっても、あなたはあなたの人生を生きてちょうだい」
便箋を握る手に、力が込められる。
「私のために夢を諦めたり、幸せになることを遠慮したりしないで。悲しいときは泣いていい。怒りたいときは怒っていい」
そこで、一度声が途切れた。
彼は唇を噛みしめ、ゆっくりと息を吸う。
「だけど……いつかまた、あなたが心から笑える日が来てくれたら嬉しい」
ぽたり。
便箋の端に、小さな雫が落ちた。
「ユリウス。あなたは、私の自慢の弟よ」
もう、声はほとんど出ていなかった。
「あなたのお姉ちゃんになれて……本当に幸せだった」
彼の頬を、涙が伝う。
「大好きよ。リラ・フェイルより」
最後の一文を読み終えたとき、ユリウスさんはその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「……なんだよ、それ」
震える声が漏れた。
「そんなこと……言うなよ……」
便箋を胸に抱きしめる。
「僕だって……姉さんの弟で、幸せだったよ……」
僕は、何も言えなかった。
「帰ってくるって……言ったじゃないか……」
ユリウスさんは、何度も首を横に振った。
「姉さんの好きなパン、もっと上手に焼けるようになったんだよ……」
床に涙が落ちる。
「新しいパンだって、いっぱい考えたんだ……」
声が詰まる。
「なのに……どうして……」
彼は手紙を強く抱きしめた。
「どうして、食べてくれないんだよ……!」
その叫びに、胸の奥が締めつけられた。
僕にも、分かる気がした。
帰ってきたら、してあげたかったこと。
一緒にやりたかったこと。
伝えたかった言葉。
そんなものが、僕にも山ほど残っている。
ナーグさんには、もっと美味しい料理を作ってあげたかった。
セシリアさんには、新しく覚えた道具の修理方法を見せたかった。
リラさんには、いつも心配ばかりかけていたから、もう大丈夫だと伝えたかった。
けれど、もう誰にも伝えられない。
僕はユリウスさんの隣にしゃがみ込んだ。
何か言葉をかけるべきなのかもしれない。
でも、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。
だから、ただ隣にいた。
泣き続ける彼のそばに。
それが今の僕にできる、精一杯のことだった。
どれくらい時間が経っただろう。
ユリウスさんはようやく顔を上げた。
「……すみません。みっともないところを見せました」
「いえ。そんなことありません」
彼は目元を拭い、少しだけ笑った。
「僕、ずっと怒っていたんです」
「……はい」
「姉さんが死んだことも、世界が平和になったって喜んでいる人たちのことも……全部、許せなかった」
その言葉に、僕は黙って耳を傾けた。
「でも、本当は……」
彼は手紙に視線を落とした。
「ただ、姉さんに帰ってきてほしかっただけなんです」
「……僕もです」
気づけば、そう答えていた。
ユリウスさんが顔を上げる。
「僕も、みんなに帰ってきてほしかったです」
声が少しだけ震えた。
「魔王なんて倒せなくてもいいから、また五人でご飯を食べたかった」
言ってから、胸が苦しくなった。
そんなことを願ってはいけないのかもしれない。
けれど、それが僕の本心だった。
「……そう、ですよね」
ユリウスさんは、寂しそうに微笑んだ。
「テオさんも、大切な人を亡くしたんですもんね」
「……はい」
僕たちは、それ以上何も言わなかった。
窓の外では、町の人々がいつもどおりの生活を送っている。
パンを買いに来た客の声。
遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
世界は今日も、何事もなかったかのように動いていた。
それでも、僕たちにとっては、何もかもが変わってしまっていた。
「……テオさん」
「はい?」
「姉さん、本当に僕のことをよく話していたんですか?」
僕は頷いた。
「はい。いつも嬉しそうに」
「……そっか」
彼は手紙を見つめた。
「僕も……大好きだったんです。姉さんのこと」
その言葉に、僕は小さく微笑んだ。
「きっと、リラさんも知っていたと思います」
ユリウスさんは、もう一度だけ涙を拭った。
そして、大切そうに手紙を折り畳んだ。
翌朝。
僕は宿を出ると、もう一度パン屋へ向かった。
昨日のことが気になっていたのもあるけれど、出発する前に一度、挨拶をしておきたかったのだ。
店に近づくと、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
扉を開ける。
カラン、と小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ……あっ」
カウンターの奥から顔を出したユリウスさんが、僕を見て目を丸くした。
「テオさん」
「おはようございます、ユリウスさん」
「おはようございます。もう出発されるんですか?」
「はい。次の町へ向かおうと思いまして」
「そうですか……」
ユリウスさんの目元は、まだ少し赤かった。
きっと、昨夜もたくさん泣いたのだろう。
それでも、昨日より表情が穏やかに見えた。
「……あの、テオさん」
「はい?」
「ちょっと待っていてもらえますか?」
そう言うと、彼は店の奥へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってきた彼の手には、一つのパンが載っていた。
蜂蜜の甘い香りが漂う、丸いパン。
けれど、その表面は少しだけ焦げていた。
「……失敗しちゃいました」
ユリウスさんが苦笑する。
「昨日、姉さんの手紙を何度も読み返していたんです。そしたら、どうしてもパンが焼きたくなって」
「……そうだったんですね」
「姉さんが好きだったパンを、もう一度作ってみようと思ったんですけど……」
彼は手元のパンを見つめる。
「ちょっと、焼きすぎちゃって」
僕は、そのパンをじっと見つめた。
リラさんが何度も話していた、弟の焼くパン。
いつか食べてみたいと思っていたものが、今、目の前にある。
「……よかったら、食べてもらえませんか?」
「僕が、ですか?」
「はい。姉さんの友達だったんですよね」
ユリウスさんは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「姉さんには、もう食べてもらえないから……」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
「……いただきます」
僕はパンを受け取った。
まだ、ほんのり温かい。
一口かじると、蜂蜜の優しい甘さが口いっぱいに広がった。
少し焦げた部分には、微かな苦味がある。
でも、その苦味が不思議と心地よかった。
「……美味しいです」
思わず、そう呟いた。
「本当ですか?」
「はい。とっても」
ユリウスさんは嬉しそうに笑った。
その笑顔が、あまりにもリラさんに似ていて。
僕は一瞬、言葉を失ってしまった。
『テオ君、私の弟が作るパンは、本当に美味しいのよ』
懐かしい声が、耳の奥によみがえる。
ああ。
リラさん。
あなたの言っていたことは、本当だったんですね。
僕はもう一口、パンを頬張った。
甘くて、少し苦い。
とても優しい味だった。
できることなら、あなたと一緒に食べたかったです。
「……テオさん?」
「あっ、すみません」
気づけば、ぼんやりとしていたらしい。
僕は慌てて笑った。
「リラさんが、このパンを好きだった理由が分かった気がします」
ユリウスさんは、少しだけ驚いた顔をした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その声は、とても穏やかだった。
パンを食べ終え、僕は出発することにした。
「それじゃあ、ユリウスさん。そろそろ行きますね」
「はい。本当に、ありがとうございました」
「いえ。僕は手紙を届けただけですから」
そう言って鞄を肩にかける。
すると、ユリウスさんが慌てたように声を上げた。
「あっ、テオさん!」
「はい?」
「……少しだけ、待ってもらえますか」
彼は店の奥へと向かった。
しばらくして戻ってきたその手には、一通の封筒が握られていた。
「……あの」
ユリウスさんは、少し迷うように視線を落とした。
「ひとつ、お願いがあるんです」
「何でしょう?」
彼は封筒を見つめたまま、小さく息を吸った。
「……姉さんに、返事を書いてもいいですか」
「返事、ですか?」
「はい」
彼は頷いた。
「昨日、姉さんの手紙を何度も読み返して……僕も、伝えたいことがあるって思ったんです」
差し出された封筒には、懐かしい名前が書かれていた。
リラ・フェイル。
「姉さんがもういないことは、分かっています」
ユリウスさんは寂しそうに笑った。
「でも、届かなくてもいいから……どうしても、伝えたくて」
「……」
「もしよかったら、姉さんのお墓に持っていってもらえませんか?」
僕は、その封筒を見つめた。
魔王城へ向かう前夜。
リラさんは僕に、一通の手紙を預けた。
それを届けることが、僕の最後の仕事だと思っていた。
でも、どうやら違ったらしい。
手紙を受け取った人にも、伝えたい言葉がある。
会いたくても会えない人へ。
もう二度と声を届けられない人へ。
それでも、伝えずにはいられない思いがあるのだ。
「……分かりました」
僕は、ゆっくりと手を伸ばした。
「僕が、責任を持って届けます」
「……本当ですか?」
「はい。約束します」
ユリウスさんは、ほっとしたように微笑んだ。
そして、深々と頭を下げる。
「……ありがとうございます、テオさん」
その言葉を聞いたとき。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
僕にも、できることがあった。
ただ、それだけのことが、今は何より嬉しかった。
僕は預かった封筒を防水布で包み、鞄の中へしまう。
三通あった手紙は、一通を届けたことで二通になった。
けれど今、そこには新しい一通が加わっている。
手紙の数は、結局変わらなかった。
それでも、何かが少しだけ変わった気がした。
「それじゃあ、行ってきます」
「はい。道中、お気をつけて」
僕は小さく頭を下げ、店の扉へと向かった。
そのとき。
「テオさん!」
再び呼び止められ、振り返る。
ユリウスさんは、カウンターの向こうで笑っていた。
まだ少しだけ寂しそうな、それでも確かな笑顔だった。
「姉さんの手紙を、届けてくれてありがとうございました!」
僕は、しばらくその顔を見つめた。
そして、自然と笑みがこぼれた。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
店の扉を開ける。
カラン、と鈴が鳴った。
外には、昨日と変わらない町並みが広がっていた。
石畳の道。
行き交う人々。
焼きたてのパンの香り。
何も変わっていないはずなのに、なぜだろう。
昨日より、少しだけ温かく感じられた。
僕は鞄の肩紐を握り直す。
その中には、ユリウスさんからリラさんへ宛てた手紙が入っている。
もう直接渡すことのできない手紙。
それでも、僕は大切に運ぼうと思う。
きっと、そこにも届ける意味があるはずだから。
「……リラさん」
僕は青い空を見上げた。
「あなたの弟さんが焼くパン、本当に美味しかったですよ」
風が吹いた。
柔らかな風が、頬を撫でていく。
「……できれば、一緒に食べたかったですけどね」
僕は小さく笑った。
それから、次の目的地へと向かって歩き始める。
次に届けるのは、魔道士セシリア・ルーンの手紙。
彼女の故郷には、もう長いこと顔を合わせていない父親が暮らしているという。
「……セシリアさん」
僕は鞄にそっと触れた。
「次は、あなたの番ですね」
三通の手紙を届けるために、僕は旅に出た。
その一通目を届けたはずなのに、鞄の中には新しい手紙が入っている。
リラさんへ宛てた、弟さんからの返事。
僕はまだ、この旅にどんな意味があるのか、よく分かっていない。
けれど。
少なくとも、ひとつだけ分かったことがある。
亡くなった人に伝えたい言葉は、残された人の中にも、まだたくさんあるのだ。
だから、僕は歩き続けようと思う。
みんなが残してくれた大切なものを、最後まで届けるために。




