第2話 姉のいないパン屋
王都を出発してから、四日が経った。
僕は今、リラさんの故郷である小さな町を目指して歩いていた。
街道の両脇には青々とした草原が広がり、遠くには緩やかな丘陵が連なっている。
魔王が討伐されてからというもの、街道を行き交う商人の数も増えたらしい。
道中、何度か親切な商人に馬車へ乗せてもらったおかげで、思っていたよりも早く目的地へ近づくことができた。
もっとも、右脚の調子はまだ万全ではない。
長時間歩いていると、古傷がじくじくと痛み始める。
「……やっぱり、少し無理しすぎたかな」
道端の木陰に腰を下ろし、軽く脚をさする。
医師からは無理をしないようにと、何度も念を押されていた。
レインさんにも同じことを言われたばかりだ。
それなのに、こうして歩いているのだから、我ながら困ったものだと思う。
「まあ、急ぐ必要もないしね」
誰にともなく呟き、水筒を取り出した。
鞄の中には、三通の手紙が入っている。
リラ・フェイル。
セシリア・ルーン。
ナーグ・タロスト。
三人がそれぞれ大切な人へ宛てて書いた手紙だ。
この手紙を届けるまでは、僕の旅は終わらない。
水を一口飲み、再び立ち上がる。
すると、丘の向こうに小さな町並みが見えてきた。
「あれが……」
リラさんが何度も話してくれた故郷。
僕は鞄の肩紐を握り直し、ゆっくりと歩き出した。
町の名前は、フェルミナ。
王都から遠く離れた、人口数千人ほどの小さな町だ。
石畳の道沿いには色とりどりの花が咲き、軒先には洗濯物が揺れている。
大通りでは商人たちが声を張り上げ、子供たちが楽しそうに駆け回っていた。
どこにでもある、ごく普通の町。
けれど、リラさんにとっては何よりも大切な場所だった。
『テオ君、私の故郷にはね、とっても美味しいパン屋さんがあるの』
ふと、懐かしい声が脳裏によみがえった。
あれは、魔王城へ向かう旅の途中だっただろうか。
野営の準備をしていた僕に、リラさんが嬉しそうに話しかけてきたのだ。
『弟が焼いているんだけどね、特に蜂蜜パンが美味しいのよ』
『へえ。リラさんの弟さんって、料理上手なんですね』
『ふふっ。今はね。昔なんて、パンを焼くたびに焦がしていたんだから』
そう言って、リラさんは楽しそうに笑っていた。
『でもね、あの子は本当に頑張り屋なの。きっと今頃、私よりずっと上手に焼けるようになっていると思うわ』
『それなら、いつか食べてみたいですね』
『ええ! 魔王を倒したら、みんなで行きましょう』
あのとき、僕は笑って頷いた。
きっと、そんな未来が待っていると信じていたから。
「……来ましたよ、リラさん」
小さく呟く。
返事は、当然なかった。
僕は胸の奥に生まれた寂しさを飲み込み、町の中央広場へと足を向けた。
通りかかった女性にパン屋の場所を尋ねると、すぐに教えてもらえた。
「ああ、フェイルさんのお店ね。それなら、この先を右に曲がったところよ」
「ありがとうございます」
「美味しいパンがたくさんあるから、ぜひ食べていってね」
女性は穏やかに微笑んだ。
僕も小さく頭を下げ、教えられた道を進む。
しばらくすると、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
その香りを辿るように歩いていくと、一軒の小さな店が見えてくる。
木製の看板には、パンを模した可愛らしい絵が描かれていた。
「……ここか」
僕は少しだけ深呼吸をして、店の扉に手をかけた。
カラン、と小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、若い男性の声が聞こえてくる。
店内には焼きたてのパンが並び、香ばしい匂いが満ちていた。
丸いパンに、果実を練り込んだパン。
棚の端には、小さな蜂蜜パンも置かれている。
そのどれもが美味しそうだった。
「お待たせしました。何になさいますか?」
カウンターの奥から姿を現したのは、僕と同じくらいの年齢の青年だった。
柔らかな茶色の髪。
少し垂れた目元。
その顔立ちに、思わず息を呑む。
似ている。
リラさんに、とてもよく似ていた。
「あの……」
「はい?」
「ユリウス・フェイルさん、でしょうか?」
青年は不思議そうに首を傾げた。
「ええ、そうですけど……」
「僕は、テオ・アルベルトといいます」
「テオさん……?」
彼は記憶を探るように眉を寄せた。
当然だろう。
僕たちは初対面なのだから。
僕は少し迷った後、ゆっくりと口を開いた。
「リラ・フェイルさんと、一緒に旅をしていました」
その瞬間。
ユリウスさんの表情が、ぴたりと止まった。
「……姉さんと?」
「はい。僕は勇者パーティで荷物持ちをしていました」
僕がそう告げると、彼はしばらく何も言わなかった。
ただ、僕の顔をじっと見つめている。
やがて、その視線がゆっくりと下がった。
「……そう、ですか」
絞り出すような声だった。
「あなたが……」
何かを言いかけて、口を閉じる。
そして、再び僕を見る。
「あなたは、生きて帰ってきたんですね」
「……はい」
「そうですか」
それきり、会話が途切れた。
店内には、壁時計の針が進む音だけが響いていた。
どう声をかければいいのか分からなかった。
彼にとって僕は、姉と一緒に旅をしていた人間だ。
そして、姉が帰ってこなかったのに、生きて帰ってきた人間でもある。
そんな僕が突然現れて、どんな顔をすればいいのだろう。
答えを見つけられないまま立ち尽くしていると、ユリウスさんがぽつりと尋ねた。
「……姉は」
「はい」
「姉さんは、どんな最期だったんですか?」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
一瞬、あの日の光景が脳裏をよぎる。
崩れ落ちる魔王城。
飛び交う魔法。
血に濡れた仲間たち。
そして、最後まで僕たちを助けようとしていたリラさんの姿。
「……リラさんは」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「最後まで、僕たちを助けようとしてくれました」
ユリウスさんの肩が、小さく震えた。
「……そうですか」
俯いたまま、彼は笑おうとした。
けれど、その表情はひどく歪んでいた。
「姉さんらしいですね」
「……はい」
「昔から、そうだったんです。困っている人を放っておけなくて、自分のことなんて後回しにして……」
彼はカウンターの縁を握りしめた。
「僕が風邪を引いたときも、夜通し看病してくれたんですよ。自分だって疲れていたはずなのに」
その声が、少しずつ震え始める。
「……どうして」
僕は顔を上げた。
「どうして、姉さんだったんですか」
ユリウスさんは僕を見つめていた。
その瞳には、悲しみと怒りが入り混じっていた。
「姉さんは、ただ人を助けるのが好きだっただけなのに」
「……」
「魔王が倒されて、世界が平和になったって、みんな喜んでいますよね」
「……はい」
「勇者様は英雄だって。世界を救った人たちは立派だって」
彼の声が大きくなる。
「でも、僕には関係ないんです」
握りしめた拳が震えていた。
「世界が平和になったからって、姉さんが帰ってくるわけじゃない!」
「ユリウスさん……」
「僕は……!」
彼は唇を噛みしめた。
そして、堪えきれなくなったように叫んだ。
「世界なんて救わなくたってよかった!」
店内に声が響く。
「姉さんが帰ってきてくれるなら、それでよかったんだ……!」
僕は、何も言い返せなかった。
世界が救われた。
そのことが、どれほど素晴らしいことなのかは理解している。
魔王が生きていたら、きっと大勢の人が死んでいただろう。
この町も、いつか戦火に包まれていたかもしれない。
だから、みんなが命を懸けて戦ったことは間違っていなかった。
そう思っている。
けれど。
僕だって、考えてしまったことがあるのだ。
魔王なんて倒せなくてもよかった。
世界なんて救えなくてもよかった。
だから、みんなに生きていてほしかった、と。
そんな身勝手なことを、何度も願ってしまった。
「……すみません」
ユリウスさんが、突然小さな声で言った。
顔を上げると、彼は僕の右脚を見つめていた。
「怪我……されたんですね」
「……はい。少しだけ」
「少し、ですか」
僕の立ち方を見れば、脚が万全ではないことは分かるのだろう。
ユリウスさんは苦しそうに顔を歪めた。
「あなたも、大変だったんですよね」
「……」
「なのに、こんなことを言ってしまって……」
彼は俯く。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「……今日は、もう帰ってもらえませんか」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
本当なら、すぐに帰るべきなのかもしれない。
けれど。
僕には、まだ渡さなければならないものがあった。
「……ユリウスさん」
「……何ですか」
「ひとつだけ、話してもいいですか?」
彼は答えなかった。
ただ、僕の方を向いた。
それを了承と受け取って、僕はゆっくりと言葉を続けた。
「リラさんは、よくあなたの話をしていました」
「……姉さんが?」
「はい」
僕は、小さく微笑んだ。
「ユリウスさんが初めてパンを焼いたときの話とか、お店を任されるようになったときの話とか」
「……」
「いつも、すごく嬉しそうに話していたんです」
リラさんは、弟の話になると決まって笑顔を浮かべていた。
普段から優しい人だったけれど、家族のことを話すときは、もっと柔らかな表情になっていた。
「リラさん、言っていました。弟は頑張り屋だから、きっと立派なパン職人になるって」
「……そんなことを?」
「はい。自慢の弟だって」
ユリウスさんは、何かを堪えるように俯いた。
「……僕なんて、まだまだですよ」
そう言って、彼は棚に並んだパンへ視線を向ける。
「姉さんには、いつも心配ばかりかけていましたから」
「でも、リラさんは誇らしそうでしたよ」
「……」
「それに、魔王城へ向かう前の夜にも言っていたんです」
ユリウスさんが顔を上げる。
「……何を?」
「弟さんのパンが食べたいって」
その瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
「姉さんが……?」
「はい。魔王を倒したら、また故郷に帰って食べたいって」
僕は懐かしい光景を思い出す。
焚き火を囲んで笑っていたリラさん。
帰ったら、みんなをパン屋へ案内したいと言っていた。
「僕も約束したんです。いつか一緒に食べに行こうって」
そこで、言葉が途切れた。
約束は、守れなかった。
リラさんと一緒に、この店を訪れることはできなかった。
それだけは、もうどうすることもできない。
「……ずるいよ」
不意に、ユリウスさんが呟いた。
「……姉さん」
彼は棚の端に並べられた蜂蜜パンを見つめていた。
僕には、その言葉の意味は分からなかった。
けれど、きっと彼にも、リラさんとの大切な思い出があるのだろう。
僕はそれ以上、何も言わなかった。
代わりに、肩にかけていた鞄を下ろす。
「……ユリウスさん」
「はい……?」
「実は、今日はこれを届けに来たんです」
鞄の内側から、防水布に包まれた一通の封筒を取り出した。
丁寧に布を解き、カウンターへ差し出す。
ユリウスさんは、最初、不思議そうにそれを見つめていた。
しかし、封筒に書かれた文字が目に入った瞬間。
その表情が凍りついた。
「……これ」
震える声。
「これ、は……」
封筒には、二つの名前が記されていた。
宛先は、ユリウス・フェイル。
差出人は、リラ・フェイル。
「魔王城へ向かう前の夜、リラさんから預かったんです」
僕は静かに告げた。
「もし自分が帰れなかったら、弟さんに届けてほしいって」
ユリウスさんは、何も言わなかった。
ただ、目の前の封筒を見つめている。
「……姉さんの、字だ」
掠れた声が漏れた。
「これ……本当に、姉さんが書いたんですね」
「はい」
僕は頷いた。
「僕は中を読んでいません。ユリウスさんに宛てた手紙ですから」
ユリウスさんは、恐る恐る手を伸ばした。
その指先は、小さく震えていた。
封筒を受け取ると、彼はまるで壊れ物を扱うように、そっと両手で包み込んだ。
「……姉さん」
小さな声。
もう二度と会えない人の名前。
僕は何も言わず、その姿を見つめていた。
しばらくして、ユリウスさんが顔を上げる。
「……読んでも、いいですか」
僕は静かに頷いた。
「もちろんです」
そして、少しだけ微笑んだ。
「そのために、僕はここまで来たんですから」
ユリウスさんは、もう一度封筒を見つめた。
震える指で、姉の名前をそっとなぞる。
それから、ゆっくりと封筒に手をかけた。




