第漆話「サッ・ローンド帝国の爪牙」
フラットペイン領の国境から東へ数里離れた、サッ・ローンド帝国の前線基地。
辺境軍司令官であるメビック伯爵は、執務机に広げられた補給路の地図を睨みつけ、苛立たしげに舌打ちをした。
「……忌々しい。辺境の小領地一つ落とすのに、これほどの足止めを食うとはな」
本来であれば、ひと月前にはフラットペイン領を無血で呑み込んでいるはずだった。王国中央の貴族たちとはすでに裏で話がついており、援軍が来ないことは確定していたからだ。
誤算だったのは、フラットペイン領の当主であったイルミナの兄、ビルドーの「狂気」である。
彼はわずか三百の精鋭を率いて国境に現れると、帝国軍の圧倒的な本隊には目もくれず、背後の仮設補給陣地へ向けて特攻を仕掛けたのだ。自らの命を散らしながら放たれた決死の炎魔法は、帝国の兵糧と魔石の備蓄を灰燼に帰した。
結果として、メビックの部隊は後方からの再補給を待つため、このひと月、進軍の停止を余儀なくされていたのである。
「戦とは、一戦では終わらぬ。自らの命を投げ打って、妹たちにわずかな寿命を与えたところで、結果は何も変わらんというのに」
メビックが毒づいた、その時だった。
天幕の入り口で控えていた偵察兵が、足早に歩み寄って片膝をついた。
「閣下、ご報告が。物資調達のため、国境付近の街道を荒らさせていた野盗に扮した部隊が、何者かによって全滅させられたとのことです」
「調達部隊が? 捨て置け。所詮は懲罰逃れの兵ども。フラットペインの残存兵が意地を見せたのだろう」
「いえ……生き残りの話によれば、奇妙な装束を纏った『女』がたった一人で」
偵察兵の言葉に、メビックは怪訝そうに眉をひそめた。
「たかが女一人に、二十人近い兵士が遅れをとったというのか。高位の魔法使いか?」
「それが、違うのです。その女は呪文も詠唱せず、ただの長柄の刃物で……炎の魔法を、真っ向から斬り裂いたと」
「馬鹿な。魔法を物理的に斬るなど、神話の魔法具でも用いない限り不可能だ。恐怖のあまり幻覚でも見たのだろう」
メビックが鼻で笑い飛ばそうとした、その直後。
「――待たんか、おんし」
天幕の奥。薄暗い影の中から、場違いな足音が響いた。
草鞋が絨毯を擦る音。現れたのは、帝国の軍装とは似ても似つかない、みすぼらしい着流し姿の男だった。
無造作に束ねられた髪。土気色の肌。そして、腰に差した反りのある一振りの刀。男の両眼には、飢えた獣のような昏い殺気が宿っていた。
「い、以蔵殿……」
偵察兵が怯えたように身をすくめる。
メビックでさえ、この男が放つ異質な空気に、無意識に身をこわばらせていた。皇帝の処刑刀として送り込まれてきたこの男の正体を、メビックも深くは知らない。
岡田以蔵は、猫のように音もなく偵察兵の目の前まで歩み寄ると、その胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「その女が持っちょったちゅう長柄の刃物……棒の先に、反った刀がついちゅうような代物じゃなかったか?」
「ひっ……は、はい! その通りです! 身の丈ほどもある柄で……」
「くく……」
以蔵の喉の奥から、乾いた笑い声が漏れた。
偵察兵を突き飛ばすと、以蔵は天幕の天井を仰ぎ見て、ひらがなを潰したような歪な笑みを顔いっぱいに張り付けた。
「薙刀……。女……。魔法を斬る気迫……。そんな真似をする連中を、わしは一つしか知らん。間違いねえ、わしと同じ『こっち側』に落ちてきやがったんじゃ」
「以蔵殿? いったい何の話をしているのだ」
「閣下には分からんぜよ。こりゃあ、わしの国の話じゃき」
以蔵は腰の刀の柄を、親指でチャキ、チャキと鳴らした。
脳裏に蘇るのは、かつての故郷。血を血で洗う幕末の京都。
以蔵の目が、三日月のように細められた。
「補給が済み次第、進軍を再開するんじゃろう。その時はわしも先陣を切らせてもらうぜよ」
「……以蔵殿。好きに暴れるのは構わん。だが我が軍の作戦を乱すなら、その首はこちらで刎ねる」
以蔵は振り返り、メビックに向かって獣の笑みを向けた。
「その女を斬るんは、わしじゃ。手ぇ出すな」
それだけ言い残し、以蔵は天幕を出ていった。
メビックは、その背中を睨みつけながら、部下の一人に短く命じた。
「あの男の素性を、もう一度洗え。皇帝陛下から預けられた駒とはいえ、どこの馬の骨とも知れぬ男に、我が軍を引っ掻き回されては敵わん」
「はっ。しかし……調査班によれば、以蔵殿の記録は帝国の名簿のどこにもございません。ただ、二年前、東の海岸に『天から降ってきた』と……」
「戯言を」――メビックは吐き捨てたが、その眉間には、隠しきれぬ動揺が刻まれていた。




