第陸話「見捨てられた盾」
市場の向こうから響いた怒号。それは、野盗の襲撃などではなかった。
「退け! 道を開けてくれ! 姫様に急報である!」
泥だらけの馬に跨り、血相を変えて通りを駆けてきたのは、フラットペイン領の軍装を纏った若い伝令だった。馬から転げ落ちるように降りた彼は、駆け寄ったイルミナの前でその場に崩れ落ちた。
「王都からの使者か!? 援軍の返答はどうだった!」
「ひ、姫様……っ! 王都の門前払いに遭いました。国王陛下はおろか、軍務大臣の面会すら叶わず……!」
「なんだと……!?」
周囲に集まっていた領民たちの間に、絶望のどよめきが広がった。
伝令の男は、悔しさに顔を歪めて地面を叩く。
「中央の貴族どもは、東方のサッ・ローンド帝国の脅威など一向に意に介しておりません。それどころか、『フラットペインの私兵で勝手に防げ』と、嘲笑う始末で……!」
イルミナは血の気の引いた顔で、震える伝令の肩を抱きとめた。
竹子はその凄惨な光景を、ただ無言で見つめていた。大国の脅威を前にして、最前線の防波堤を中央政府が見捨てる。その異常な事態の裏には、単なる怠慢ではない、何かどす黒い悪意があるように感じられた。
***
その夜。
領主の館の執務室には、蝋燭の頼りない明かりだけが灯っていた。
山積みになった書類の山を前に、イルミナは力なくペンを置き、両手で顔を覆った。護衛として部屋の隅に控えていた竹子は、静かに歩み寄り、冷え切った彼女の肩に温かい布を掛けた。
「……タケコ様。お見苦しいところをお見せしました」
イルミナは虚ろな声で呟いた。
「我がリヴァーチュの国王陛下は、心優しき方ですが、実権はすでに有力貴族たちに握られています。彼らは目先の権力争いに明け暮れ、帝国という現実の脅威から目を背けている。……いいえ、分かっていて、私たちを切り捨てたのです」
「切り捨てた、とは」
「……私への、腹いせです」
イルミナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
彼女の口から語られたのは、あまりにも重い「罪の告白」であった。
一年前。まだ王都の学園に通っていたイルミナのもとに、軍部を牛耳る有力侯爵から政略結婚の打診があったという。相手は、彼女の父ほども年の離れた男。
単なる好色からではない。その侯爵の真の狙いは、イルミナを娶ることで、国境の要衝であるフラットペイン領を合法的に乗っ取り、自らの直轄地として搾取することにあった。
「父は病に伏せり、領地は困窮していました。侯爵は『結婚すれば、兵糧も武器もくれてやる』と。……でも、私は逃げたのです」
イルミナは、己の腕を掻き毟るように強く抱きしめた。
「彼らに支配されれば、領民たちは帝国の盾として最前線で使い潰される。それが分かっていたから、私は結婚を拒絶し、領地へ逃げ帰りました。……その結果が、これです」
面子を潰された侯爵は激怒し、中央からの兵糧、補給、そして国境への援軍を完全に遮断した。
その直後だった。あまりにも不自然なタイミングでサッ・ローンド帝国の先遣隊が国境を越えてきたのは。
「ひと月前……兄様は、わずかな手勢を率いて迎撃に出ました。援軍が来ると信じて。でも、王都からの兵は一兵たりとも来なかった。……兄様たちは孤立無援のまま、帝国の圧倒的な兵力の前に、なぶり殺しにされました」
イルミナは震える手で、机の引き出しを開けた。
そこから取り出されたのは、一振りの折れた剣。派手な装飾はなく、ただ長年の手入れによって鈍く光を放つ質素な柄には、フラットペインの家紋がひとつ、静かに刻まれているだけだった。
その柄革に、黒く変色した血がこびりついていた。
イルミナの呜咽が、夜の執務室に溶けた。
「兄様が帰ってきたのは……これだけです。遺体は帰って来ませんでした。……私が逃げなければ。我慢して嫁いでいれば、兄様は死なさずに済んだ。私の我が儘が、この領地を滅ぼすのです……!」
身を切り裂くような後悔と、自責の念。
泣き崩れる十六歳の少女の姿に、竹子はかつて仕えた主君の姿を、重ねずにはいられなかった。
孤立無援の中、家臣の死の報を聞くたび、人知れず血の涙を流していたという、あの御方の背中を。
「姫君」
竹子は、静かに、だが確かな熱を帯びた声で呼んだ。
イルミナの前に進み出ると、その両手を優しく、力強く包み込む。
「私の主君も……あなた様と同じように、己の義を貫いたがゆえに中央から見捨てられ、多くの家臣を喪って、血の涙を流されました」
「タケコ様の……主君が……」
「ええ。ですが、私はその方を恨んだことなど、一度たりとも御座りませぬ。死んでいった他の者たちも、みな同じ想いでした」
竹子は、涙で濡れたイルミナの碧い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「侯爵に嫁いでいれば、戦火は避けられたかもしれない。ですが、民の心は死んでいたでしょう。あなたは、ご自身の安逸よりも、この土地の誇りと民の命を守る道を選ばれた。それは決して、幼稚な矜持などではありません。上に立つ者としての、立派な『大義』です」
その大義のために戦い、散るのならば、武士として本望。
「姫君が背負う罪も、悲しみも、すべてこの竹子が共にお持ちいたします。ですから……どうか顔を上げ、フラットペインの主として、堂々と前をお向きください」
竹子の言葉は、魔法の結界や精霊樹の加護などではない、一人の武芸者が魂から絞り出した、真の「言霊」であった。
イルミナは目を丸くし、やがてポロポロと新しい涙をこぼしながら、竹子の手に縋り付くようにして頷いた。
「……はい。……はいっ、タケコ様……!」
見捨てられた辺境の地で、少女の領主と異界の戦士の心は、本当の意味で一つに結ばれた。
だが、感傷に浸る時間は長くはなかった。
王国の腐敗に乗じ、サッ・ローンド帝国の冷酷な爪牙は、すでにこの小さな領地の喉元まで迫っていたのである。




