第伍拾肆話「水を汲む少年」
第一防衛線、中央。前線指揮所。
竹子は、壁に背を預けたまま、動けずにいた。
膝の脇に落ちている夜叉霧の文様が、鈍く脈打っていた。
しかし、その脈動さえ、今の竹子には遠かった。
指揮所の外から、伝令の声が聞こえてくる。
「――魔導障壁、第二射、受け止め完了!」
「――狙撃班、敵砲兵指揮官、三名撃破!」
「――前衛、位置を維持!」
「――後方、負傷兵受け入れ開始!」
竹子がいなくても、隊は動いていた。
カラミーテが指揮を執り、皆がそれに応えている。
自分が倒れても、隊は止まらない。本来なら、それでよかった。それは、竹子が望んでいたことのはずだった。
なのに。
「――私は、いなくとも、隊は動いておる」
口の中で呟く。
「――カラミーテ殿が、指揮を執り、皆、それに応えておる」
視線が、夜叉霧へ落ちる。
「――ならば、私は」
言葉が、そこで途切れた。
「――私は、もう、要らぬのか」
返事はない。
夜叉霧だけが、脈打っている。
「――私は、名を守ると言うた。――イルミナ様と約束を致した」
『名を守る』とそう決め、そう言った。
なのに。
「――砲声、一つで、こうなる」
指が震える。
「――母上……妹よ……」
目を閉じる。
あの時と同じだ。名を呼ばれている。なのに、応えられない。
「――また、私は……貴女らの、名を呼ぶ側に、なれなんだ」
冷たい涙が、頬を伝った。
以蔵の声が、耳の奥で蘇る。
――おんしは、彷徨うだけの亡霊じゃ。
「……そうだ」
竹子は、膝の上で拳を握った。
「――あの男は、正しかった」
その時、指揮所の入口に、影が立った。
竹子は顔を上げなかった。
ラピエラか。あるいは、ディローザか。誰であろうと、今は応える気力がない。
「――タケコ様」
若い声だった。
竹子は、顔を上げた。
入口に一人の少年が、水桶を両手で抱えて立っている。
頬には、涙の跡があった。
「……トレク、殿」
「はい」
竹子は、しばらく少年を見つめた。
「――なぜ、ここにおる」
「副長様が、通してくれました」
「――前線に上がってはならぬと、伝令が行ったはずだ」
「上がってません」
トレクは水桶を、静かに地面へ置いた。
「ここは、カラミーテ様の後方指揮の、そのもっと後ろです。……前線じゃないです」
竹子は、答えられなかった。
トレクは水桶の傍ら、竹子と正面から向き合う形で正座した。
頬の涙は、まだ乾いていなかった。それでも、その目は真っ直ぐだった。
「――タケコ様」
「……」
「俺、覚えてます」
「……何を」
「あの日、タケコ様が俺たちを追い返した時のこと」
竹子の指が、僅かに動いた。
「『戦は、子どもの仕事ではござらぬ』って、言いました」
「……そうだ」
「でも、その後で教えてくれた」
トレクは、水桶の縁に指を置いた。
「『戦のない街を守るのが、大人の仕事』」
「……」
「『戦の後の街を生きるのが、子どもの仕事』」
竹子は、目を伏せた。
あの言葉を――あの日の、何気ない言葉を、この少年は覚えていた。
「――タケコ様は、今、大人の仕事をしてる」
「……」
「俺は、子どもの仕事をしてる」
トレクは水桶を見る。
「水を運ぶ仕事です」
「……」
「でも」
少年の声が震えた。
「――タケコ様が、大人の仕事をできなくなったら」
竹子が、顔を上げる。
「俺は、水桶を置いて、ここに来る」
「……」
「そして、言います」
トレクは、竹子を見た。
「――『大人の仕事をしてください』って」
「……」
「だから、来ました」
竹子は、少年を見つめた。
真っ直ぐな目。
だが、その奥には、隠しきれない恐怖がある。
「――トレク殿」
「はい」
「――そなた、怖いのだな」
「……はい」
少年は、素直に頷いた。
「すごく、怖いです」
「……」
「砲が鳴るたび、腰が抜けそうになります」
水桶の縁を握る指が、白くなる。
「……でも」
少年は、顔を上げた。
「俺、タケコ様に教えてもらったんです」
「……何を」
「俺の名前を」
竹子は、息を止めた。
「俺、この街の路地裏で拾われた子どもです。父も母もいません」
トレクは、自分の膝を見る。
「孤児院で育ちました」
「……」
「そこでは、俺は三十四番でした」
竹子の指が震えた。
「三十四番、前へ。三十四番、片付けろ。……そういうふうに呼ばれてました」
少年は、少し笑った。寂しい笑いだった。
「俺、『自分の名前』を知らなかったんです」
「……」
「孤児院を出てから、街の井戸端で水汲みを手伝ってた時でした」
トレクは顔を上げる。
「婆さまが、『あんた、名前は?』って聞いたんです」
「……」
「俺、答えられなかった」
少しだけ間を置く。
「だから、その婆さまが言ったんです」
トレクは、笑った。
「『じゃあ、あんたは今日からトレクだ』って」
竹子は、黙って聞いていた。
「それから俺は、トレクです」
少年は、自分の胸に手を置いた。
「三十四番じゃなくて、トレクです」
竹子は、動けなかった。
「――タケコ様。タケコ様がこの街に来てくれてから、俺は、トレクのまま生きられました」
少年の声が、少しずつ震える。
「もし、タケコ様がいなかったら……この街は、なくなってたかもしれない。俺も、また、三十四番だったかもしれない」
トレクは、深く頭を下げた。
「――だから」
震える声で、言った。
「タケコ様」
「……」
「俺の名を、守ってください」
竹子の目が、見開かれた。
「――俺の名を守る、大人の仕事をしてください」
「……」
「お願いします」
竹子は、しばらく動かなかった。
深く下げられた少年の頭。震える肩。細い首筋。
――名を、守る。
昨夜、イルミナと交わした言葉。
義とは、位を守ることではない。義とは――名を守ること。
その「名」が、今、目の前にある。
三十四番ではない。誰かに与えられた番号でもない。
トレク。
この少年は、そう呼ばれている。
竹子の指が、ゆっくりと動いた。地面に落ちた夜叉霧へ伸びる。
柄に触れた。
翠緑の文様が、掌の下で脈打つ。最初は僅かに。次にはっきりと。
そしてその脈動が胸の奥へ届いた。
「――トレク殿」
「……はい」
「――頭を上げよ」
少年が顔を上げる。
竹子は、夜叉霧の柄を握った。まだ、指は震えている。
それでも握れた。
「――そなたの名は、守る」
トレクの目が、大きくなる。
「――私が守る」
少年の目から、涙が溢れた。けれど顔は笑っていた。
「――はい、タケコ様」
竹子は、小さく頷いた。
「……」
「俺、水、汲んできます」
「……水?」
「はい」
トレクは、水桶を持ち上げた。
「タケコ様、喉、渇いたでしょう」
竹子は、一瞬だけ目を見開いた。
それから。
「……うむ」
小さく笑った。
「頼む」
トレクは、水桶を抱えて指揮所の外へ出ていった。
外では、街の民が待っていた。
水桶を抱えてトレクが出てくる。少年は、皆を見渡し頷いた。それだけでよかった。
女たちが、水桶を担ぐ。老人たちが、包帯を抱える。亜人の少女たちが、薬草の煮汁を運ぶ。
誰も、前線には行かない。彼らは、後方二十歩の位置で、動き続ける。
その中から、ぽつりと声が上がった。
「――タケコ様、水、置いとくよ」
別の声が返る。
「――パンもあるからね」
「――タケコ様、街は大丈夫だよ」
「――隊長様!」
「――タケコ様!」
声は揃わない。号令でもない。
誰かが命じたわけでもない。それぞれの声で。それぞれの間で。ただ、名前を呼んでいた。
その声を竹子は指揮所の中で聞いていた。夜叉霧の柄を、もう手放さなかった。
そして東の空で、再び砲声が鳴った。




