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【会津の烈女】 介錯された会津藩士の娘、辺境伯令嬢に拾われる ~薙刀一つで新・娘子隊を作ります~  作者: 真野真名
第六章 亡霊たちの夜明け 〜思想の衝突と、覚醒〜

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第伍拾肆話「水を汲む少年」




 第一防衛線、中央。前線指揮所。


 竹子は、壁に背を預けたまま、動けずにいた。


 膝の脇に落ちている夜叉霧の文様が、鈍く脈打っていた。

 しかし、その脈動さえ、今の竹子には遠かった。


 指揮所の外から、伝令の声が聞こえてくる。


「――魔導障壁、第二射、受け止め完了!」


「――狙撃班、敵砲兵指揮官、三名撃破!」


「――前衛、位置を維持!」


「――後方、負傷兵受け入れ開始!」



 竹子がいなくても、隊は動いていた。

 カラミーテが指揮を執り、皆がそれに応えている。


 自分が倒れても、隊は止まらない。本来なら、それでよかった。それは、竹子が望んでいたことのはずだった。


 なのに。


「――私は、いなくとも、隊は動いておる」


 口の中で呟く。


「――カラミーテ殿が、指揮を執り、皆、それに応えておる」


 視線が、夜叉霧へ落ちる。


「――ならば、私は」


 言葉が、そこで途切れた。


「――私は、もう、要らぬのか」


 返事はない。


 夜叉霧だけが、脈打っている。


「――私は、名を守ると言うた。――イルミナ様と約束を致した」


 『名を守る』とそう決め、そう言った。


 なのに。


「――砲声、一つで、こうなる」


 指が震える。


「――母上……妹よ……」


 目を閉じる。


 あの時と同じだ。名を呼ばれている。なのに、応えられない。


「――また、私は……貴女らの、名を呼ぶ側に、なれなんだ」


 冷たい涙が、頬を伝った。


 以蔵の声が、耳の奥で蘇る。


 ――おんしは、彷徨うだけの亡霊じゃ。


「……そうだ」


 竹子は、膝の上で拳を握った。


「――あの男は、正しかった」


 その時、指揮所の入口に、影が立った。


 竹子は顔を上げなかった。

 ラピエラか。あるいは、ディローザか。誰であろうと、今は応える気力がない。


「――タケコ様」


 若い声だった。


 竹子は、顔を上げた。

 入口に一人の少年が、水桶を両手で抱えて立っている。


 頬には、涙の跡があった。


「……トレク、殿」


「はい」


 竹子は、しばらく少年を見つめた。


「――なぜ、ここにおる」


「副長様が、通してくれました」


「――前線に上がってはならぬと、伝令が行ったはずだ」


「上がってません」


 トレクは水桶を、静かに地面へ置いた。


「ここは、カラミーテ様の後方指揮の、そのもっと後ろです。……前線じゃないです」


 竹子は、答えられなかった。


 トレクは水桶の傍ら、竹子と正面から向き合う形で正座した。

 頬の涙は、まだ乾いていなかった。それでも、その目は真っ直ぐだった。


「――タケコ様」


「……」


「俺、覚えてます」


「……何を」


「あの日、タケコ様が俺たちを追い返した時のこと」


 竹子の指が、僅かに動いた。


「『戦は、子どもの仕事ではござらぬ』って、言いました」


「……そうだ」


「でも、その後で教えてくれた」


 トレクは、水桶の縁に指を置いた。


「『戦のない街を守るのが、大人の仕事』」


「……」


「『戦の後の街を生きるのが、子どもの仕事』」


 竹子は、目を伏せた。


 あの言葉を――あの日の、何気ない言葉を、この少年は覚えていた。


「――タケコ様は、今、大人の仕事をしてる」


「……」


「俺は、子どもの仕事をしてる」


 トレクは水桶を見る。


「水を運ぶ仕事です」


「……」


「でも」


 少年の声が震えた。


「――タケコ様が、大人の仕事をできなくなったら」


 竹子が、顔を上げる。


「俺は、水桶を置いて、ここに来る」


「……」


「そして、言います」


 トレクは、竹子を見た。


「――『大人の仕事をしてください』って」


「……」


「だから、来ました」


 竹子は、少年を見つめた。


 真っ直ぐな目。


 だが、その奥には、隠しきれない恐怖がある。


「――トレク殿」


「はい」


「――そなた、怖いのだな」


「……はい」


 少年は、素直に頷いた。


「すごく、怖いです」


「……」


「砲が鳴るたび、腰が抜けそうになります」


 水桶の縁を握る指が、白くなる。


「……でも」


 少年は、顔を上げた。


「俺、タケコ様に教えてもらったんです」


「……何を」


「俺の名前を」


 竹子は、息を止めた。


「俺、この街の路地裏で拾われた子どもです。父も母もいません」


 トレクは、自分の膝を見る。


「孤児院で育ちました」


「……」


「そこでは、俺は三十四番でした」


 竹子の指が震えた。


「三十四番、前へ。三十四番、片付けろ。……そういうふうに呼ばれてました」


 少年は、少し笑った。寂しい笑いだった。


「俺、『自分の名前』を知らなかったんです」


「……」


「孤児院を出てから、街の井戸端で水汲みを手伝ってた時でした」


 トレクは顔を上げる。


「婆さまが、『あんた、名前は?』って聞いたんです」


「……」


「俺、答えられなかった」


 少しだけ間を置く。


「だから、その婆さまが言ったんです」


 トレクは、笑った。


「『じゃあ、あんたは今日からトレクだ』って」


 竹子は、黙って聞いていた。


「それから俺は、トレクです」


 少年は、自分の胸に手を置いた。


「三十四番じゃなくて、トレクです」


 竹子は、動けなかった。


「――タケコ様。タケコ様がこの街に来てくれてから、俺は、トレクのまま生きられました」


 少年の声が、少しずつ震える。


「もし、タケコ様がいなかったら……この街は、なくなってたかもしれない。俺も、また、三十四番だったかもしれない」


 トレクは、深く頭を下げた。


「――だから」


 震える声で、言った。


「タケコ様」


「……」


「俺の名を、守ってください」


 竹子の目が、見開かれた。


「――俺の名を守る、大人の仕事をしてください」


「……」


「お願いします」


 竹子は、しばらく動かなかった。


 深く下げられた少年の頭。震える肩。細い首筋。


 ――名を、守る。


 昨夜、イルミナと交わした言葉。


 義とは、位を守ることではない。義とは――名を守ること。


 その「名」が、今、目の前にある。


 三十四番ではない。誰かに与えられた番号でもない。


 トレク。


 この少年は、そう呼ばれている。


 竹子の指が、ゆっくりと動いた。地面に落ちた夜叉霧へ伸びる。


 柄に触れた。


 翠緑の文様が、掌の下で脈打つ。最初は僅かに。次にはっきりと。


 そしてその脈動が胸の奥へ届いた。


「――トレク殿」


「……はい」


「――頭を上げよ」


 少年が顔を上げる。


 竹子は、夜叉霧の柄を握った。まだ、指は震えている。


 それでも握れた。


「――そなたの名は、守る」


 トレクの目が、大きくなる。


「――私が守る」


 少年の目から、涙が溢れた。けれど顔は笑っていた。


「――はい、タケコ様」


 竹子は、小さく頷いた。


「……」


「俺、水、汲んできます」


「……水?」


「はい」


 トレクは、水桶を持ち上げた。


「タケコ様、喉、渇いたでしょう」


 竹子は、一瞬だけ目を見開いた。


 それから。


「……うむ」


 小さく笑った。


「頼む」


 トレクは、水桶を抱えて指揮所の外へ出ていった。


 外では、街の民が待っていた。


 水桶を抱えてトレクが出てくる。少年は、皆を見渡し頷いた。それだけでよかった。


 女たちが、水桶を担ぐ。老人たちが、包帯を抱える。亜人の少女たちが、薬草の煮汁を運ぶ。


 誰も、前線には行かない。彼らは、後方二十歩の位置で、動き続ける。


 その中から、ぽつりと声が上がった。


「――タケコ様、水、置いとくよ」


 別の声が返る。


「――パンもあるからね」

「――タケコ様、街は大丈夫だよ」

「――隊長様!」

「――タケコ様!」


 声は揃わない。号令でもない。

 誰かが命じたわけでもない。それぞれの声で。それぞれの間で。ただ、名前を呼んでいた。


 その声を竹子は指揮所の中で聞いていた。夜叉霧の柄を、もう手放さなかった。



 そして東の空で、再び砲声が鳴った。




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