第伍拾參話「子供の仕事」
両翼の、さらに後方。
コルニャが、獣人の耳をぴんと立てていた。
遠くで鳴る砲声。
その間隔を、彼女は聞き分けていた。
「――次の砲、こっち側にゃ」
傍らの伝令の少年兵に告げる。
「三番と、十七番。二門、同時にゃ」
「……確かか?」
「確かにゃ。あたし、獣人だから。耳、いいの」
いつものように忙しく動いていた耳が、今は微動だにしない。
集中しているのだ。
「副長様に伝えてにゃ。三番と、十七番。二門、同時。……そのつもりで、障壁の準備をしてくれって」
「分かった!」
少年が駆けていく。
コルニャは、もう一度耳を澄ませた。
砲声の向こう。
まだ誰にも届かないほど遠い音の中から、次の一発を探す。
「……フィナ婆様」
ふと、呟いた。
「あたし、まだ覚えてるにゃ」
あの峠で水をくれた、あの老婆。
「フィナ婆様って、言ったにゃ。……声も、覚えてる」
コルニャは耳を立てた。
「忘れないにゃ。あたし、耳がいいから」
後方の、負傷兵受け入れ場で、ペルトはすでに舞っていた。
まだ、死者はいない。
それでも、彼女は舞っている。
指先から、淡い金の粒子がこぼれ、静かに宙へ昇っていく。
傍らのチネルが、驚いたように彼女を見た。
「――ペル。まだ、誰も……」
「……間に合わせる、ために」
ペルトが言った。
短い言葉だった。
普段ほとんど声を発さない彼女の声を、チネルは初めて聞いたような気がした。
「誰かが亡くなる、その瞬間に……間に合わせるために」
ペルトは、舞い続ける。
「今から、舞う」
「……はい」
チネルは頷いた。
「では、私も。私の役目を致します」
彼女は父から受け継いだ薬草を、休むことなく調合し始めた。
その手元には、一枚の紙が置かれていた。――最も強い、痛み止め。
チネルは、それを一度だけ見た。
そして、何も言わずに薬草へ手を伸ばした。
さらに後方。
サーリーが地面に座り、黒い糸を指先で繰っていた。
目は閉じている。糸だけが、遠くへ伸びていく。
「……届いた」
彼女が呟いた。
「三番砲の車軸」
指先を、ゆっくりと動かす。
「少しずつ、劣化させる。……派手なことはできない。あたしの呪い、そういう呪いじゃないから」
黒い糸が、さらに伸びる。
「けど、一門でも遅らせる」
ほんの少し。それだけでもいい。
「あたしにできるのは、それだけ」
そう言って、彼女は糸を繰り続けた。
街の内側。
負傷兵の受け入れ場では、コーディアが包帯を切り分けていた。
ギルドの受付嬢らしい、手際のよさだった。
傍らの若い治療兵が、包帯の山を見ながら震える手で尋ねる。
「……これ、足りますか?」
コーディアは即答した。
「足りるよ」
布を切る。
ギルドや、実家の宿屋で怪我人は見慣れてるからね。
「だから、これくらい大丈夫」
また切る。
「切って、切って、切り続ければ、足りる」
「……はい」
「大丈夫、大丈夫」
コーディアは笑った。
「私がそう言ってるうちは、大丈夫だから」
その手元へ、最初の負傷兵が運び込まれてきた。
街の外周で砲弾の破片を受けた者たちだった。
まだ、傷は浅い。
だが、コーディアには分かっていた。これから来る。もっと深い傷が。もっと多くの人間が。
それでも彼女は、冒険者を迎える時と同じ顔で、包帯を切り続けていた。
街の広場。
トレクは、水桶を担いだまま立っていた。
その後ろに、七人、八人。
皆、水桶か、包帯か、薬草の煮汁を抱えている。
伝令から告げられた副長の命令は、明確だった。
水とパン、そして包帯や薬草の運搬は続ける。――ただし、前線には上がらない。
「――トレク兄ちゃん」
年下の少年が袖を引いた。
「副長さん、上がるなって」
「……うん」
「……行くの?」
トレクは答えなかった。
前線を見る。
砲声が鳴った。地面が震え、街の外周から細い煙が上がる。
トレクの頬を、涙が一筋伝った。それでも、彼は拭わなかった。
「……俺、覚えてる」
ぽつりと言う。
「タケコ様が、あの日、俺たちを追い返した時のこと」
少年たちは黙って聞いていた。
「『戦は、子どもの仕事ではござらぬ』って」
トレクは水桶の柄を握り直した。
「でも、その後で教えてくれた」
一度、前線を見る。
「『戦のない街を守るのが、大人の仕事。戦の後の街を生きるのが、子どもの仕事』って」
「……うん」
「今、タケコ様は、大人の仕事をしてる」
少年が頷く。
「俺は、子どもの仕事をする」
トレクは水桶を担ぎ直した。
「……でも」
声が、少しだけ震えた。
「タケコ様が、大人の仕事をできなくなったら?」
少年たちの顔を見る。
「その時は、俺たちが、大人の仕事の後ろで支える」
「……」
「前線に行くんじゃない」
トレクは、首を振った。
「副長様が上がるなって言ったところには、行かない。――俺たちにできることをする」
「……うん!」
「行くぞ」
少年たちが頷いた。
一人の少年がパンの籠を持つ。
それを見て、別の少年が包帯を抱える。
広場にいた女たちも、薬草や布を持ち始めた。
老人が水桶を一つ持ち上げる。
スラムの隅にいた亜人の少女たちも、顔を見合わせてから、黙って桶や籠を抱えた。
誰も、前線には向かわなかった。向かったのは、竹子の居る指揮所の後ろ。
前線と後方、その境目だった。
カラミーテの後方指揮所へ、伝令が駆け込んだ。
「――副長!」
「何でしょう」
「広場の民衆が、指揮所後方へ集まり始めています。指揮を仰ぎたく!」
カラミーテは全図へ目を落とした。
竹子の指揮所。
その後方。
小さな点が、いくつも集まり始めている。
彼女の指が、卓上の一点で止まった。
そして、扇子を開いた。
ぱち、と音がする。
「――追い返してはなりませぬ」
「はっ」
「ですが、前線にも上げてはなりませぬ」
「承知しました」
「指揮所の後方、二十歩」
地図上の一点を示す。
「そこに留めてくださいませ。物資を運ぶ列を作らせるのです」
「はっ!」
「前線と後方の境目を、担っていただきましょう」
伝令が駆け出そうとする。
「――それから」
カラミーテが呼び止めた。
「トレク様を、お一人だけ隊長様の指揮所へ通してくださいませ」
伝令が振り返る。
「……副長。よろしいので?」
カラミーテは、扇子を開いたまま、静かに微笑んだ。
「隊長様に、応える声を届けるのは、私ではございません」
「……」
「私は、号令をする者です」
わずかに視線を落とす。
「けれど、今、隊長様の名を呼ぶ者が必要なのです」
伝令は黙って頷き、駆けていった。
カラミーテは扇子を閉じた。
ぱち、と乾いた音がした。
「……隊長様」
誰もいない指揮所で、彼女は呟いた。
卓上の地図。そこに置かれた、小さな一点。
「あなた様の名を、呼びに参ります」
彼女は、再び地図へ目を戻した。
「ですから――」
東の空が、鉛色の中で、少しずつ白み始めていた。
「どうか、そこで待っていてくださいませ」
遠くで、金属音がした。
次の砲声は、もうすぐそこまで来ていた。




