第伍拾貮話「代理指揮」
カラミーテは、卓の縁に置いた扇子を手に取った。
静かに開いて、閉じる。
ぱち、と乾いた音が、指揮所の空気を切った。
彼女は、伝令の少年兵に一度だけ頷いた。
「――承知いたしました」
少年兵は、そのあまりに落ち着いた声に、一瞬だけ戸惑った。
「――副長、隊長は……」
「――ご無事、でございましょう」
カラミーテは、卓上の伝令駒を一つ動かした。
「隊長様は、生きて、そこにいらっしゃいます。ならば、他の全てのことは、私が致します」
「……はい」
「あなたは、次の伝令を待ちなさい。今、動いてはなりませぬ」
少年兵は頷いた。
カラミーテは、領全図へ視線を落とした。
「――一番。メリッタ様へ」
「はっ」
「第二射までに、第一射で歪んだ結界を縫い直してくださいませ。東側を最優先に」
「――二番。ビアンカ様、オルペア様へ」
「はっ」
「敵砲兵陣地の指揮官を狙ってくださいませ。砲手ではなく、指揮をする者を」
「――三番。ディローザ様、リドリー様、カノン様へ」
「はっ」
「今は動かぬように。……あと四半刻。砲弾の予定表から、身を外してくださいませ」
「――四番以降は、後方と情報班へ。負傷者の受け入れ、避難路、水と食糧の運搬を継続。街の方々を前線へ上げてはなりませぬ」
伝令たちが、一斉に駆け出していく。
カラミーテは、扇子を閉じたまま、卓上の一点――竹子の指揮所へ指を置いた。
「――隊長様」
小さな声だった。
「あなた様がいらっしゃる場所は、私が、他の全ての方を使って守ります」
ほんの僅か、指先に力が入った。
「……ですから、そこで、しばらくお休みくださいませ」
指揮所の外。
伝令官の一人が、隣を走る同僚へ囁いた。
「――副長は、いつから、あんな指揮を?」
「……ずっとだ」
「ずっと?」
「ただ、隊長がいらっしゃる時は、隊長の後ろに立っていただけだ」
「……」
「だから、俺たちは今まで気づかなかった」
二人は、それ以上何も言わなかった。
それぞれの伝令路へ駆けていった。
第一防衛線、中央。
メリッタは、既に魔法陣を展開していた。
指先が空中を走る。
第一射で歪んだ結界の構造を、一つずつ組み直していく。
「――第二射まで、およそ二百拍」
傍らの助手が、震える声で尋ねた。
「メリッタ様……間に合いますか」
「間に合わせる」
即答だった。
「第一射を受け止められた。なら、まだ直せる」
眼鏡の奥で、瞳が動く。
「……カラミーテ様が、私に時間をくださいました」
彼女は魔法陣の一角を修正した。
「ならば、使います」
両翼の丘陵、中腹。
ビアンカが弓を構えた。
狙いは、敵砲兵陣地の丘。
人影が一つ。
指揮官。
距離は、およそ二里。
普通の弓では届かない。だが、ビアンカの弓なら届く。
弦が鳴った。
遠方で、人影が崩れた。
「――一人目」
次の矢を番える。
ほどなくして、崩れた人影の代わりに、別の人間が同じ場所へ立った。
ビアンカの隣で、オルペアが呟いた。
「……代わりが、います」
「そうね」
ビアンカは、二本目の矢を放った。
また、人影が崩れた。
そして、三人目が立つ。
「――なら、次を狙うだけよ」
弓を引く。
指先が、僅かに震えていた。
「……名前があるくせに」
ビアンカは、三人目へ狙いを定めた。
「誰にも、名前で呼ばれない」
矢が放たれた。
「……気持ち悪い軍ね」
防衛線の中央。
ディローザは、大剣を握ったまま動かなかった。
目の前で砲弾が地面を抉る。
土塊が飛ぶ。
街の外周では、家屋が一軒、また一軒と崩れていく。
それでも、動かない。
動かないことが、彼女にとって最も難しい戦いだった。
「――ディ、動かない」
自分に言い聞かせるように呟く。
「ディ、動かない」
カノンが、そっと彼女の腕を掴んだ。
「ディローザさん」
「うん」
「あと、少しです」
「……うん」
リドリーが、大盾を構えたまま振り返る。
「副長が、そう仰ったのです。信じましょう」
ディローザは頷いた。
「――ディ、我慢する」
大剣の柄が、軋んだ。
「ねぇさんも、そう言ってたから」
彼女は、前を見たまま、動かなかった。
第一防衛線の影。
ラピエラは、竹子の指揮所を遠くから見ていた。
近づかない。
副長の命令だからだ。
「――隊長、まだ立てねぇ」
彼女は、伝令の少年兵へ低く告げた。
「けど、意識はある。あーしの見立てじゃ、身体が動かねぇだけだ。頭は生きてる」
「副長様へ、お伝えします」
「ああ」
少年兵が走り去る。
ラピエラは、再び指揮所を見る。
竹子がいる。すぐそこにいる。助けに行ける距離だった。
「……隊長」
足が、一歩だけ動いた。
しかし、止まる。
「……行きてぇ」
拳を握る。
「でも……」
副長の顔を思い出す。
あの静かな声。
――まだ、誰も近づけぬように。
「……副長が、行くなって言った」
ラピエラは、もう一度、指揮所を見た。
「……くそ」
それでも、動かなかった。
「隊長」
小さく呟く。
「あーし、ちゃんとここにいるからな」
そして、影の中へ戻った。
後方指揮所。
カラミーテは、次々と届く報告を受けていた。
「第一防衛線、中央。第二射まで百八十拍」
「メリッタ様、結界修復中」
「狙撃班、敵指揮官二名を排除」
「前衛、待機を継続」
カラミーテは、一つずつ頷いた。
扇子は、まだ開かない。
彼女の指先が、竹子の指揮所を示す駒に触れた。
「――隊長様」
誰にも聞こえない声だった。
「どうか、戻ってきてくださいませ」
彼女は、その駒を、ほんの少しだけ後ろへ動かした。
「……戻ってくる場所は、私たちが守ります」
外で、次の砲声が近づいていた。




