第伍拾壹話「魔導砲の咆哮」
夜明け前の空は、まだ薄い墨の色をしていた。
城壁の東側、見張り塔の中腹に立って、竹子はその空をしばらく見ていた。
東の地平の縁だけが、朝焼けに染まりつつある。その明暗の帯の下、真っ暗な地平を二万有余の松明の帯がはっきりと視認できる位置まで近づいていた。距離にしておよそ二里。
あと、一刻もすれば届く。
竹子は夜叉霧を右手に握り直した。翠緑の文様が、彼女の掌の下でゆっくりと脈打っていた。
「――行くぞ」
誰に告げるでもなく、彼女はそう呟いた。
第一防衛線は、城下の南門正面、二町ほど手前に敷かれていた。
メリッタが設計した三重の魔導障壁。ビアンカとオルペアの狙撃陣は、両翼の丘陵の中腹に。ディローザとリドリー、カノンを中心とした前衛は、防衛線の中央、竹子の前線指揮所を守る形で配置されている。
竹子はその各配置点を徒歩で、一箇所ずつ回っていた。
各配置点で、彼女は部下の顔を正面から見た。名を口の中で静かに呼んでは頷き、また次の配置点へ進んだ。
「――ディローザ」
「うん、ねぇさん」
「――リドリー」
「はい、隊長」
「――カノン」
「お師匠様」
「――メリッタ」
「――障壁の展開、完了しております」
「――ビアンカ」
「……別に、いつも通りよ」
「――オルペア」
「……はい」
竹子は全員の名を呼ぶ度に頷いた。それ以上のことは、言わなかった。言葉は必要ないと思った。
最後に、彼女は、狙撃陣のビアンカの前で僅かに足を止めた。
ビアンカは弓を持ったまま竹子を見返した。しばらく竹子は彼女を見ていた。ビアンカは目を逸らさなかった。
やがて、竹子は頷いた。ビアンカも頷き返した。ただ、それだけであった。
竹子が去った後、ビアンカは隣のオルペアに、小さく呟いた。
「――今日あの人変よ」
「変、ですか」
「変。……名前を確かめてる」
「……はい」
「まるで、次に会えないかもしれないような、確かめ方」
オルペアはしばらく答えなかった。彼女は弓の弦を指先でそっと弾いた。
「……姉様。もし、そうなら、私たちは隊長の名を返さねばなりません」
ビアンカは、鼻を、鳴らした。
「――当たり前でしょう」
既に、城下の広場では、街の民が集まっていた。
水桶を担いだ者。包帯の巻いた布を抱えた者。薬草の煮汁を運ぶ者。井戸の周りには、幾人もの女たちが、黙々と、桶に水を汲み続けていた。
その一角に、少年たちがいた。
最年長のトレク。その後ろに、七、八人の少年たち。彼らも水桶を担いでいた。竹子が広場を横切る時、トレクは真っ直ぐ竹子を見た。
「――隊長!」
竹子は足を止めた。
「水を、後方へ運ぶのだ」
「分かってる!」
「前線には来るな」
「……分かってるよ、隊長」
竹子は頷いた。
「よい子だ」
それだけ言って、歩き出した。
背中に、トレクの視線を感じていた。
第二防衛線の、後方指揮所。
カラミーテは、そこにいた。
卓上にはフラットペイン領全図。伝令の駒。物資の配分表。避難民の集結点の位置。
彼女は、扇子を卓の縁に、静かに置いた。
竹子が、入ってきた。
「――副長」
「はい、隊長様」
「一つだけ、確かめておきたい」
「なんなりと」
竹子は、卓の前に立った。
「もし、前線指揮所に異変あらば」
「はい」
「――代理指揮を頼めるか」
カラミーテは、扇子を手に取ったが開かなかった。
「もとよりそのための副長でございます」
竹子は、頷いた。
「――済まぬ」
「済まぬと仰るのは、まだ早うございますよ」
カラミーテは微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。
「隊長様が、お戻りになった時に『済まなかった』と、仰ってくださいませ。……その時、私は『いいえ』と、お答えいたします」
竹子は、しばらく彼女を見ていた。
やがて、頷いた。
「――行く」
「はい。……ご武運を」
竹子が、指揮所を出た。カラミーテは、その背を見送った。
扇子は、閉じたまま開かなかった。
***
同じ頃。遥か東。帝国軍砲兵陣地。
「三番砲、装填完了」
「十七番砲、装填完了」
「三十九番砲、装填完了」
号令の伝達は、極めて静かに行われた。号令官は感情を込めない。号令を受ける砲兵長も、感情を込めない。ただ、手順が手順として進行する。
三番砲の砲兵長は、齢三十を越えたばかりの、平民の兵士であった。名をゲルデンと言った。名はこの場では呼ばれない。彼は三番砲の砲兵長として、そこに立っている。
彼の背後、丘陵の中腹の指揮所で、副官フィジックが双眼鏡を下ろした。
「――閣下。三番砲準備完了」
「うむ」
「第一目標、視認。敵指揮所、南門正面、第一防衛線、中央」
「――距離」
「一里、二十四町」
ブロックスは、地図から目を上げなかった。地図の上、赤い印の位置に、彼の指先は置かれていた。
指先が、確かめるように赤い印を二つ叩き、しばらく動かなかった。
「……」
ブロックスは指を離した。
「――撃て」
三番砲の砲兵長は、火門に印を押した。
その瞬間、彼の脳裏に、故郷の小さな家が一瞬だけ浮かんだ。
だが、すぐに消えた。
彼は砲身から目を離さなかった。命令が、彼を通過していく。
砲弾は、鉛色の空を赤い尾を引いて裂いた。
空気が一瞬止まった。次の瞬間、大地が揺れた。
第一防衛線、中央。竹子の指揮所の直上――メリッタが設計した対砲撃用の魔導障壁が、辛うじて初弾を受け止めた。
障壁は割れた。しかし、砕けはしなかった。
衝撃波が地面を走った。指揮所の周囲に、土塊と木片と焦げた石が降り注いだ。
竹子はその衝撃を身体で受けた。
その、瞬間。視界から、現在が消えた。
――鶴ヶ城の、城壁。
降り注ぐ、アームストロング砲の、砲弾。
城下の、炎。
焼け落ちる、家。
柳橋の上。
悲鳴。
血。
焼けた、匂い。
胸を貫く熱い銃弾。
母の、声。
「竹子!」
妹の、泣き顔。
「竹子姉様!」
そして――砲声。
あの日と、同じだった。いや。同じではない。
だが、竹子の身体には、その違いが分からなかった。
目の前のフラットペインの第一防衛線。
部下たちが、竹子の名を呼んでいる。
「――タケコ隊長!」
「――ねぇさん!」
「――タケコ!」
しかし、その声が、あの日の声と重なった。
母が呼んでいる。
妹が呼んでいる。
誰かが、自分の名を呼んでいる。
「――また」
竹子の口から、掠れた声が漏れた。
「――また、私は名を呼ばれている」
息が、詰まった。
「――そして、また……応えられぬまま、失うのか」
膝が崩れた。
夜叉霧を杖にしようとした。
だが、指先が凍っている。柄を握れない。
膝が笑う。息が、吸えない。頬を、冷たい汗が伝った。
「――また……」
竹子は、震える指を見た。
「……応えられぬ」
夜叉霧が、地面に落ちた。翠緑の文様が、地面に鈍く光った。
しかし、その光は遠かった。他人事のように、遠かった。
「――隊長!」
「――隊長!」
伝令の少年兵が、指揮所に駆け込んだ。
少年兵は竹子の姿を見た。壁に背を預けて座り込んでいる。夜叉霧が、地面に倒れてている。
少年兵の顔から、血の気が引いた。彼は、踵を返し後方指揮所へ駆け出した。
「――副長! 副長! 前線指揮所、被弾! 竹子隊長、指揮不能の由!」




