第伍拾話「同じ夜明け」
その夜、遅く。
竹子は、イルミナの私室を訪ねた。
イルミナは眠っておらず、精霊樹の護符を膝に置いて座っていた。卓の上には、三通の書簡が並べられている。
竹子は、その書簡を一瞥した。イルミナは隠そうとはしなかった。
「ベイバレイ伯爵様から、物資が。セントスタンド子様からは、志願兵が五名、独断でこちらへ向かっているとの由。……ツライト伯爵様は、王都のご意向に、忠実で、いらっしゃいます」
イルミナの声は、静かであった。
「……セントスタンド領からは五人でも、来てくださるのですね」
「はい。手紙には志願兵と書かれていましたが、今思えば……」
竹子は、正座して頭を下げた。
「イルミナ様。……本日、伺いたきことが、一つございます」
「はい」
「もし、ブロックス将軍の理想が、この先、世に広まれば――イルミナ様の家も、辺境伯という位も、いずれ、消える運命かもしれませぬ」
イルミナは、しばらく答えなかった。
やがて、精霊樹の護符を両手で握った。
「――タケコ様」
「はい」
「私は、位のために、この地を守っているのではございません」
その声は細く、しかし、澄んでいた。
「私は、この地の民の方々が、私を『領主』と呼んでくださる。その呼び名に恥じぬようにしたいと、思ってきただけでございます」
「……」
「もし、位が消える日が来るのならば。……その日まで、私は、私の役目を果たします」
竹子は、深く頭を下げた。
「かたじけない。私も、同じ答えを持っておりました」
しばらく、沈黙があった。
やがてイルミナが、竹子に問いを返した。
「タケコ様。……私からも一つだけ、お伺いしても、よろしゅうございますか」
「はい」
「あなたは、故郷で、ご自分の『位』――武家の娘、という位を守ろうとして、あの戦に向かわれたのですか」
竹子は、答えられなかった。
しばらく、下を向いていた。
やがて絞り出すように、彼女は答えた。
「――解りませぬ。あの時、私は多くのものを、考える暇がございませんでした。ただ、家族と、同胞を失いたくない、と。……それだけを思うておりました」
イルミナは、静かに頷いた。
「……私は、思うのです。あなたが、守ろうとなさったのは、位ではなく、位の中にあった、母君や、妹君や、同胞の方々の――『名』だったのではないか、と」
竹子の指が、僅かに震えた。
イルミナは、精霊樹の護符を卓に置いた。
「私が守りたいのは、辺境伯という位ではございません。この地の人々が、それぞれ持っておられる『名』でございます」
「……」
「ブロックス将軍は、名を、番号に置き換えようとなさっております。三番砲。十七番砲。……そして、いずれ、三番村、十七番民、と」
彼女は、微かに笑った。悲しげな笑みであった。
「私は、それが、怖いのでございます」
竹子は、正座を崩さずに、しばらく卓の一点を見ていた。
やがて、顔を上げた。
「――イルミナ様」
「はい」
「私、今日、答えの一つを頂きました」
「……お答え、と、申しますと」
「義とは、位を、守ることではない。義とは、名を、守ることでござる」
イルミナは、精霊樹の護符にそっと両手を添えた。
「故国――会津で、私が守れなんだ名を。……この地で、一人でも多く守りたい」
竹子は頭を下げた。
「――勝手ながら、それを、私の義と致します」
イルミナは、微笑んだ。
「タケコ様。……勝手ではございません」
「……」
「それは、私の義でもございます」
***
同じ頃。
遥か東。丘陵地の仮陣。
サードル・ブロックスは、地図の前に立っていた。
副官のフィジックが、明日の魔導砲の展開図を卓に広げている。
「閣下。第一射、目標座標の確認を、いただきたく」
「どこを、狙う予定だ」
「城下、南門正面。第一防衛線の中央――敵指揮所の直上でございます」
ブロックスは、地図を見た。
赤い印が一つ。
敵指揮所。
その印の向こうには、城がある。
昨日、自分が話題にした女――タケコ・ナカノが、そこにいる。
「……フィジック」
「はっ」
「昨日、私は、あの女の立つ理由が知りたいと言ったな」
「はい」
「聞く方法は、ある」
「……と、申しますと」
ブロックスの指が、地図の上で止まった。
「初弾を外せばいい」
フィジックは、顔を上げた。
「指揮所を避けて、城壁外へ撃ち込む。そうすれば、あの女と対話する時間は残る」
「では――」
「だが」
ブロックスは、地図を見たまま言った。
「それは、私が一個人に興味を持ったという理由で、軍事行動を変更することになる。……私は、それを認められない」
彼は、指揮所を示す赤い印を、指先で軽く叩いた。
「理解することと、残すことは、別だ」
フィジックは、何も言わなかった。
ブロックスは、しばらく地図を見ていた。
そして――
「――変更しない」
「……はっ」
「初弾は、予定通り、指揮所の直上に落とせ。三番砲に命じよ」
「承知いたしました」
フィジックが頭を下げる。
しかし、彼は去らなかった。
「閣下」
「なんだ」
「……もし、初弾で、あの女が生き残れば」
ブロックスは、しばらく答えなかった。
やがて、低く言った。
「その時は、聞く」
「お聞きになるのですか」
「死者には、答えられない」
淡々とした声だった。
「生き残った者だけが、自分の理由を語れる」
「……では、あの女を殺すことが目的なのでは?」
「違う」
ブロックスは、地図から目を離さなかった。
「目的は、指揮所を破壊することだ。そこに、彼女がいただけだ。――私は、彼女を特別扱いしない」
その言葉だけは、妙に強かった。
「特別扱いすれば、私自身が、旧い世界の論理へ戻ることになる」
フィジックは、目を伏せた。
「――閣下は、既に、あの女を特別な存在として認識しておられるのでは?」
ブロックスは答えなかった。
しばらくして、面頬の下で、微かに口元が動いた。
「興味は、非合理だ」
「……」
「だが……非合理は、排除されるべきだ。……だからこそ、初弾は指揮所に、落とす」
彼は、地図を閉じた。
フィジックが敬礼した。
天幕の外から、夜明け前の冷たい風が吹き込んできた。
ブロックスは、閉じた地図の上に手を置いた。
「それでも生き残れば――」
ほんの一瞬だけ、言葉が止まった。
「……その時は、私の非合理も、生き残ったということだ」
***
東の空が、白み始めていた。
フラットペイン領主城の見張り塔から、東の街道を望む眼が、二万の軍勢の松明の帯が、確実に近づいていることを確認していた。
同じ夜明けを、竹子はイルミナの部屋の窓越しに見ていた。
同じ夜明けを、ブロックスは閉じた地図の前で迎えていた。
同じ夜明けを、ヴィスタル村の納屋で、フィナ老婆が湯呑みを握りながら迎えていた。
同じ夜明けを、王都の外務卿は寝台の中で迎えていた。
名を呼ぶ者と、番号を呼ぶ者。
名を数える者と、機能を数える者。
同じ地平の、同じ鉛色の下で、それぞれの朝を迎える。
魔導砲の咆哮まで、あと、三刻。




