第肆拾玖話「夕餉の汁」
同じ日の、夕刻。
主要陣の食堂に、娘子隊の面々が集まっていた。
誰が呼んだわけでもない。
ただ、そういう夜というものがある。
前哨戦から帰った日。
尋問が終わった日。
そして――翌朝には、砲声が聞こえると分かっている夜。
そういう夜は、誰かが最初に卓へ着く。
次の誰かが、汁の椀を持って隣へ座る。
そうして、いつの間にか席が埋まっていく。
最初に座ったのは、コーディアだった。
彼女は、いつものように大鍋を卓の中央へ、どん、と置いた。
芋と玉ねぎ、少しの干し肉、たっぷりの豆。宿屋の娘が作る、質素な汁だった。けれど、温かった。
「――今日の農村の件、報告書は明日まとめます」
メリッタが、書物を抱えて座った。
書物は開かない。
コーディアが椀を差し出した。
「うん。今日はいいよ」
「……いい、ですか?」
「今日は、食べよう」
メリッタは少しだけ目を瞬かせ、それから眼鏡を外した。
「――そうしましょうか」
ディローザが入ってきた。
大剣は廊下へ立てかけ、卓の端に身を縮めるように座る。
椀を受け取っても、すぐには口をつけなかった。
湯気を、じっと見ている。
「……ディ」
ぽつり、と呟いた。
「まだ、あの村の婆様の顔、忘れられない」
誰も答えなかった。答えられなかった。
やがて、コルニャがディローザの隣へ座った。
いつもなら忙しなく動く獣人の耳が、今日は伏せられている。
汁を一口だけ啜ってから、彼女は言った。
「……あたし、あの婆様、知ってるんだよね」
「知ってる、って?」
「前に、あの峠を通った時。水、飲ませてもらったの」
コルニャは椀の中を見た。
「あたしが獣人だから、村によっては井戸を貸してくれないんだけどさ」
耳が、さらに伏せられた。
「……あの婆様は、『こんな山の中までよう来たな。飲め、飲め』って」
「……」
「それから、名前を聞いてくれた」
コルニャは、ぽつりと言った。
「『あんた、名前は?』って」
卓が静かになった。
「あたし、名前を聞いてくれる人、あんまりいなかったから」
ペルトが、何も言わずに隣へ座った。
彼女の指が、コルニャの耳の付け根をそっと撫でる。
コルニャは、目を閉じた。
しばらくして、ラピエラが入ってきた。
卓の隅へ腰を下ろし、椀を受け取る。
「――今日のあの村」
彼女は湯気を見ながら言った。
「あーしが昔いた路地に、ちょっと似てた」
「……」
「あーしが拾われる前の路地な。番地もなかった。地図にも載ってなかった」
ラピエラは汁を一口啜った。
「役人も来ねぇ。税吏も来ねぇ」
そこで、少し笑った。
「つまり、誰にも数えられてなかったってことだ」
メリッタが顔を上げた。
「ブロックス将軍の思想なら、そこに住む人たちも、きちんと数えられるようになるでしょうね」
「そうかもな」
「それは、悪いことではないと思います」
「ああ」
ラピエラは頷いた。
「……でもな」
椀を卓へ置く。
「数えられるようになった代わりに、誰かを数から外すんじゃ、意味ねぇよ」
メリッタは黙った。
「あーしは、あの将軍の言ってることが、全部嫌いってわけじゃねぇんだ」
ラピエラは、少しだけ目を伏せた。
「あーしみたいなのを、最初から『人間一人』として数えてくれる世界なら、それは悪くねぇと思う」
「……」
「でも、あーしを拾ってくれたのは、そんな世界じゃなかった」
彼女は卓を見回した。
「婆さんだったり、盗人だったり、隊長だったり……そういう誰かが、あーしの名前を呼んでくれた」
指先で、椀の縁をなぞる。
「それだけで、あーしは、ここにいる」
ビアンカが鼻を鳴らした。
「……あなた、今日はずいぶんしみったれてるわね」
「うっせぇな。お綺麗なエルフの姉さんに言われたかねぇよ」
「私だって、明るい気分じゃないわ」
ビアンカは、しばらく椀に手をつけなかった。
「私は、身分制度がどうとか、正直よく分からない」
「……」
「私が森を出たのだって、そんな立派な理由じゃない。上司の無茶振りが嫌だっただけよ」
そこで、彼女は広場の光景を思い出したように目を伏せた。
「でも、今日、一つだけ思った」
「何を?」と、竹子が初めて口を開いた。
竹子は、いつの間にか卓の端のいつもの席に座っていた。汁の椀を両手で握って。
ビアンカは、竹子を見た。
「階級があろうが、なかろうが」
ビアンカは言った。
「死んだ人間の名前を呼ぶ奴が、最後に残っているかどうか」
椀を持ち上げる。
「私は、それが大事だと思う」
「……」
「名前を呼ぶ人間がいなくなったら、その人は二度死ぬ」
少し間を置いて、
「私は、そういうのが嫌」
そう言って、汁を啜った。
リドリーは、卓の端に座っていた。
大きな身体を、いつもより小さくしている。
「――私は」
静かに口を開いた。
「ブロックス将軍の世界なら、救われる者もいると思います」
誰も驚かなかった。
「私は、男として生まれた。それだけで、跡継ぎであり、騎士であることを求められました」
椀の湯気を見つめる。
「私は、それでは、生きられなかった」
指先が、椀を強く握った。
「だから、身分というものがなくなれば、私はもっと早く、自分の心に素直に従えたのかもしれません」
「……」
「そう思うことがあります」
リドリーは、卓の面々を見た。
「ですが」
ほんの少し、笑った。
「私を拾ってくださったのも、私の心を偏見なく認めてくださったのも、この身分のある世界の人たちでした」
そこで言葉を止めた。
「……だから、どちらが正しいのか、私には分かりません」
メリッタが眼鏡を掛け直した。
「一つだけ、いいでしょうか。私は、あの将軍は頭のいい方だと思います」
全員がメリッタを見る。
「だからこそ、間違い方が怖い」
メリッタは椀を見た。
「人間を数えること自体は、悪くありません。むしろ、数えなければ救えない人もいる」
眼鏡の奥の目が、細くなる。
「でも、何を数えるかを決めた人間が、その外側にいるものを『存在しない』ことにしてしまったら」
少しだけ間を置く。
「数字は、正確でも、嘘になります」
誰も口を挟まなかった。
「……戦争は、その間違いを、次の版まで待ってくれませんけれど」
メリッタは汁を啜った。
「人が死んでしまいます」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、コーディアが口を開いた。
「――みんな、難しいこと考えてるなあ」
ラピエラが笑った。
「お前は考えてねぇのかよ」
「考えてるよ」
コーディアは胸を張った。
「明日の朝、何を食べさせようかな、とか」
「……それは、まあ、大事だな」
ディローザが呟いた。
「うん。大事」
コーディアは鍋を覗き込んだ。
「うちの宿屋には、身分の高い人も来る。低い人も来る。冒険者も、行商人も来る」
木匙で鍋をかき混ぜる。
「それで、みんな同じ卓で、同じ豆汁を食べるの」
彼女は顔を上げた。
「身分がなくなったら、みんな平等になるのかもしれない」
少し考えて、
「でも、私は、違う身分の人が、そのまま一緒に食べられる方が好き」
そして笑った。
「だから、私は明日も頑張る」
それは思想ではなかった。
信条ですらない。
宿屋の娘が、今日の続きを明日もやろうとしているだけだった。
最後に、カラミーテが卓へ着いた。
扇子を閉じ、汁の椀を受け取る。
「……皆様」
「ん?」
ラピエラが顔を上げた。
「見事に、意見が違いますわね」
「喧嘩売ってんのか?」
「まさか」
カラミーテは微笑んだ。
「むしろ、安心いたしました」
「安心?」
「ええ。全員が同じことを言い始めましたら、それこそ私は怖くなりますもの」
彼女は、卓を見回した。
「私たちは、皆、違うものを恐れております。違うものを大切にしております」
扇子を閉じたまま、膝の上へ置く。
「だから、同じ思想になる必要など、ございません」
「……」
「隣にいる方と、考え方が違ってもよい」
カラミーテは、静かに言った。
「それでも、隣にいてくださるなら」
そこで、微笑んだ。
「私は、それで十分だと思います」
竹子は、ずっと黙っていた。
卓の上には、同じ鍋からよそわれた汁が並んでいる。
誰も、同じことを考えてはいない。
誰も、同じものを恐れてはいない。
それでも――明日の朝には、皆、同じ城壁に立つ。
竹子は、冷めかけた椀を持ち上げた。
一口、啜る。
「……少し、冷めたな」
コーディアが笑った。
「お代わり、ありますよ」
「うむ」
竹子は椀を差し出した。
「では、いただこう」
コーディアが、嬉しそうに鍋から汁をよそう。
誰も、それ以上、思想の話をしなかった。




