第肆拾捌話「それぞれの思惑」
同じ日の、正午前。
フラットペイン領主城から、遥か西。
王都・ベイドア。
王城の一室で、外務卿、大蔵卿、軍務卿の三人が、地図を挟んで座っていた。
地図は、フラットペイン領の縮尺図であった。
外務卿が、痩せた指を、地図の一点に置いた。
フラットペイン領の東の突出部。
帝国領へ楔のように食い込んだ、細く長い一帯である。
「――話は、纏まったのだな」
「はい」
軍務卿が頷いた。
「帝国側の使者は、この突出部をもって、当面の侵攻停止線とすると。書面での確約も、既に我が方の使者が持ち帰っております」
「フラットペイン領全体、ではないのだな」
「全体ではありません」
軍務卿は、地図の上に指を滑らせた。
細長い突出部。その先にある領主城。
「しかし、この突出部を切り取れば、城下の防衛は困難となります。実質的には、フラットペイン領を放棄するのと大差ありません」
大蔵卿が、初めて口を開いた。
「辺境伯領一つで、帝国の南下を山脈まで止められる。それで良いのではないか」
彼の指が、フラットペイン領の西側へ移った。
南北に連なる、巨大な山脈『ボックスルーツ山脈』。
「防衛線としては、ここが天然の要害となります」
軍務卿が答えた。
「フラットペインを失っても、帝国がこの山脈を越えることは容易ではありません。越えようとしても、我が方は東斜面で迎え撃てる。……戦略的には、極めて合理的な判断でございます」
「――合理的、か」
外務卿が呟いた。
「はい」
「こちら側も、あちら側の将軍と同じ言葉を使うようになったな」
彼は、痩せた指を、口元へ、ゆっくりと、寄せた。笑ってはいなかった。
軍務卿は、答えなかった。
大蔵卿が、地図から目を上げる。
「辺境伯令嬢には」
「ご存知ない、ということになっております」
外務卿が答えた。
「王都からの正式な援軍要請は、既に丁重にお断り申し上げた。それ以上のことを、あの少女に伝える必要はない」
「……伝えれば、諦めるからですか」
「その通りだ」
外務卿は、地図の突出部を爪でこつりと叩いた。
「あの領地には、もう暫く頑張ってもらわねばならぬ」
「帝国が、約束を守るかを見るために?」
「それもある」
外務卿は、淡々と答えた。
「帝国が『突出部だけ』で満足するのか。山脈を越えるのか。どこまで南下するのか。……フラットペインには、その答えを出してもらう」
沈黙が落ちた。
軍務卿が、低く言った。
「つまり、実験台ですな」
「国家というものは、時にそういうものだ」
外務卿は、否定しなかった。
大蔵卿が、ぽつりと呟く。
「……あの少女は、優秀な辺境伯であったと聞いておるが」
「うむ」
「惜しいな」
「――惜しい」
外務卿は、地図を静かに巻いた。
***
同じ頃。
フラットペイン領主城・執務室。
イルミナ・フラットペインの前には、三通の書簡が並んでいた。
いずれも、周辺領の領主から届いたものである。
一通目。
ベイバレイ伯爵領。
フラットペイン領の南西、山脈を挟んだ隣領。
――親愛なるイルミナ様。
――貴領の状況、心を痛めております。王都の意向により、公式の兵の派遣は叶いませぬが、我が領の商会を通じ、麦十樽、干し肉五百斤、薬草十包、包帯二十反を、来週中に密かに貴領の東門へお送りいたします。
――表向きは商取引の形を取りますゆえ、代金は後日、平時に無利子でお返しいただければ幸いに存じます。
――武運を、心よりお祈りしております。
――プランシーダ・ディ・ベイバレイ
イルミナは、書簡を静かに机へ戻した。
二通目。
セントスタンド子爵領。
フラットペイン領の北、二領を挟んだ小領である。
――イルミナ・ティル・フラットペイン辺境伯閣下。
――突然の書簡、ご容赦ください。我が領は貴領との間に二つの領地を挟み、しかも中間のツライト伯爵領との関係が旧知の通り極めて冷えております。
――ゆえに、兵の移動、物資の直接輸送は極めて困難でございます。
――しかし、我が領の若い衆の中に、貴領で戦いたいと独断で発つ者が五名おります。
――既に領を離れており、私の手には負えませぬ。
――彼らが貴領に辿り着いた際には、我が領の意向とは無関係の、一個の志願兵としてお迎えいただければ幸甚に存じます。
――老いた我が身の精一杯の返事でございます。
――武運を。
――ウィーゼル・ヴィ・セントスタンド
イルミナは、その書簡を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
三通目。
ツライト伯爵領。
フラットペイン領の北西、直接の隣領。
――辺境伯領フラットペイン閣下。
――貴領の情勢について当領は関知しない。
――当領は、王都のご意向を忠実に遵守する。
――ツライト伯爵閣下付 首席秘書官 プレーン・スポーク
三通目の封蝋は、一部が剥がれかけていた。
誰かが、届く途中で開封したのかもしれない。
イルミナは、三通の書簡を順番に見た。
物資を送ってくれる者。
名もない若者を送り出してくれる者。
そして、何もしてくれない者。
どれも、この世界では間違った選択ではない。
領主には領主の責任がある。
自分の民を危険に晒してまで、隣領を救う義務など、本来はない。
だからこそ――。
イルミナは、二通目の書簡を、そっと胸に抱いた。
「――五人」
声が、僅かに震えた。
「……五人が、来てくださる」
たった五人。
そう思いかけて、イルミナは、その考えを自分で打ち消した。
五人も、である。
二万の軍勢が迫っている。
王都は、助けない。
帝国は、攻めてくる。
そんな中で、自分の領地へ向かって歩き出した者が、五人いる。
「……五人も」
イルミナは、今度は、はっきりと呟いた。
傍らに控えていた侍女は、その言葉を聞いていないふりをした。
聞いてしまえば、きっと自分も泣いてしまうと思ったからである。
窓の外では、遠く東の空が、まだ白く濁っていた。
そこから、いつ二万の軍勢が現れるかは、誰にも分からない。
それでも。五人は、来る。
それだけが、この城に届いた確かな知らせだった。




