第肆拾漆話「ブロックスという理想」
村を出て、フラットペイン領主城へ戻る峠道。
朝の冷たい風が、まだ焼け跡の匂いを運んでいた。
その途中だった。
「――止まってくださいませ」
カラミーテが馬を止めた。
少し先の岩陰に、人影がある。帝国軍の兵士だった。
正確には、兵士というより、取り残された男だった。
左脚に深い矢傷を負い、岩にもたれたまま動けずにいる。
その傍らには、帝国軍の標準槍が一本、地面に置かれていた。
男は、こちらに気づくと、ゆっくり両手を上げた。
「――抵抗はしない」
声は若かった。
「帝国軍第三方面軍、第七大隊、中尉。ステーム・トムソン」
竹子は、夜叉霧を抜いたまま、男を見た。
「武器を捨てたのは、なぜだ」
「もう、走れないからだ」
「……」
「昨日の夜、斥候との小競り合いで矢を受けた。歩けなくなった俺を、隊はここに残した」
「見捨てられたのか」
「違う」
トムソンは首を横に振った。
「後送部隊を待て、と命令された。だが、主隊の進軍が予定より早かった。俺が追いつけない以上、先に行く。それがあの軍のやり方だ」
竹子は、少しだけ眉を寄せた。
「……なるほど」
「俺も、そうする」
トムソンは苦笑した。
「俺が指揮官でも、そうするだろう。二万の進軍を、一人の負傷兵のために止める理由はない」
その言葉に、ディローザの眉が動いた。
だが、竹子は彼女を制するように片手を上げた。
「――武器は」
「槍を一本。腰に短剣」
「短剣を抜け」
トムソンは素直に短剣を外し、地面へ置いた。
「……それでいいか」
「うむ」
竹子は夜叉霧を下ろした。
「立てぬなら、担いでいく。そなたを捕虜とする」
「分かった」
トムソンは抵抗しなかった。ただ、胸元に手を入れた。
「――一つ、頼みがある」
「何だ」
「これを燃やしたい」
取り出したのは、一冊の小さな帳面だった。
「俺の隊の賞罰記録だ。敵に渡したくない」
竹子は帳面を見た。
「中身は問わぬ。ただし、燃やす前に私と副長に見せてもらう。内容は覚えぬ。書式だけを見る」
トムソンは少し驚いた顔をした。
「……あんたが噂のタケコ・ナカノか」
「そうだ」
「噂通り、話が通じる」
彼は、初めて微かに笑った。
「――連行してくれ」
尋問室は、地下ではなかった。
明るい部屋に机が一つ。その上には湯呑みが二つ置かれている。
「うちの尋問室は、お茶が出る所でございますよ」
カラミーテはそう言って、本当にもう一杯茶を淹れた。
トムソン中尉は、湯呑みを両手で包んだ。しばらく、その温かさを確かめるように黙っていた。
部屋の隅にはラピエラが立っている。
「トムソン中尉様。……お名前をもう一度、頂戴してもよろしゅうございますか」
「ステーム・トムソン」
「ご出身は」
「――帝都近郊。ドリガンという小さな町だ。父は、蹄鉄屋だった」
「魔導兵学校の、ご出身で?」
「……いや。俺は、成り上がりではない。徴兵から叩き上げた、下士官上がりの中尉だ。学校は出ていない」
カラミーテは扇子を静かに開いた。
「まず一つだけ。……あなたは、サードル・ブロックス将軍を、尊敬しておられますか」
「している」
即答だった。
「なぜ?」
「俺の命を救ったからだ」
「……それだけで?」
「それだけじゃない」
トムソンは湯呑みを見つめた。
「俺は魔導兵学校を出ていない。徴兵から上がっただけの兵だ。家も、父は蹄鉄屋だった」
「それが?」
「北方戦役の時、俺の中隊は貴族出の大佐の命令で無意味な突撃をさせられた」
声が少し低くなった。
「理由は、その戦区に大佐の親戚の伯爵家の紋章を立てるためだった」
カラミーテの扇子が止まった。
「……それは」
「俺たちは半分死んだ」
トムソンは続けた。
「当時、少佐だったブロックス将軍が命令を無視して、俺たちを撤退させた」
「独断で?」
「ああ」
「その結果は」
「大佐は処罰された。ブロックス少佐は昇進した」
トムソンは、湯呑みを一口傾けた。
「俺たちは、生き残った」
その言葉には、理屈よりも重いものがあった。
「九十二人だ」
「……九十二人」
「翌年の春を見た」
カラミーテは、しばらく黙っていた。
それから、静かに尋ねた。
「だから、将軍を信じている?」
「そうだ」
「では――」
扇子の先が、机の上を静かに叩いた。
「ヴィスタル村の長老衆が殺されたことについては?」
トムソンの指が止まった。
「……賛同はしていない」
「けれど、将軍は正しい?」
「……」
「お聞かせくださいませ」
長い沈黙があった。
やがて、トムソンは言った。
「ブロックス将軍が変えようとしたのは、『生まれで人が死ぬ世』だった」
「はい」
「俺は、それが間違っているとは思わない」
「はい」
「だが――」
トムソンの指が、湯呑みを強く握った。
「あの村の長老たちは、生まれで死んだんじゃない」
「では?」
「村の意思決定に関わっていたからだ」
「……つまり?」
「生まれではなく、役割だ」
カラミーテは、しばらく彼を見つめた。
「役割で、人を殺す」
「……そうだ」
「それは、平等なのでしょうか」
トムソンは答えなかった。
やがて、絞り出すように言った。
「……俺には、分からない」
「将軍には?」
「将軍には、分かっているんだと思う」
「何が?」
「人間を、生まれではなく、何をする者かで見ることが」
カラミーテは、扇子を閉じた。その音だけが、部屋に小さく響いた。
「――お答えありがとうございました」
彼女は立ち上がった。
「あなたのお命は、タケコ隊長にお預けいたします。……お茶、もう一杯お持ちいたしますね」
トムソンは、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
カラミーテと入れ替わるように竹子が、部屋に入った。
トムソン中尉は、立ち上がろうとしたが、竹子は、掌でそれを制した。
「一つだけ、伺わせてほしい」
「はい」
「そなたの将軍を、いま私がこの場で悪しざまに罵ったら、そなたはどうする」
トムソン中尉は、しばらく竹子の目を見た。
「……あなたが罵る言葉が正しければ、俺は黙って聞く。正しくなければ、俺は口を挟む」
竹子は、頷いた。深く、頷いた。
「相解った」
彼女は、部屋を出た。
廊下で、竹子は、しばらく、壁に、手をついていた。
カラミーテが、扇子を軽く畳んで、その傍らに立った。
「隊長様」
「うむ」
「あのお方の言い分と、私たちの義は、真っ向から、喧嘩する言い分でございますね」
「そうだ」
竹子は、しばらく、目を閉じた。
「……あれは、悪ではない」
「悪ならば、斬るのは、容易ゅうございます」
「――うむ」
「悪でないものを、それでも止めねばならぬ時、私たちは、何を頼りにすればよろしいのでしょうか」
竹子は目を開けた。廊下の窓の外、朝の光が既に白かった。
「分からぬ――分からぬが、それでも止める」
カラミーテは、静かに、頷いた。
「承知いたしました」




