第伍拾伍話「名を撃つ第五射」
指揮所の中で、竹子はその声を聞いていた。
しばらく、動かなかったが、やがて、夜叉霧を杖にしてゆっくりと立ち上がる。
膝が笑っている。息もまだ浅い。それでも――立てた。
竹子は一歩ずつ指揮所の入口へ向かった。そして外へ出る。そこには、街の民がいた。
若者。老人。人間。獣人。亜人。皆、ばらばらだった。服も違う。顔も違う。立っている場所も違う。
それでも誰一人として前線には出ていなかった。
最前列に、水桶を抱えたトレクが立っていた。
竹子は彼らを見た。一人ずつ。
名を知っている者もいる。知らない者もいる。
だが――誰もが名を持っていた。
「――皆」
声が震えた。それでも届いた。
「――済まなかった」
民の中からいくつかの顔が上がる。
「……そして、ありがとう」
誰かが頷いた。それにつられるように、別の誰かも頷く。――ばらばらだった。それでいい。
トレクだけは、真っ直ぐに竹子を見ていた。
竹子は、指揮所の入口から、防衛線へ向き直った。
伝令の少年兵が駆け寄ってくる。
「――隊長! お立ちになられましたか!」
「――立った」
「――カラミーテ副長へ、お伝えします!」
「――待て」
竹子は、少年を止めた。
「――副長には、こう伝えよ」
「はっ!」
「――『済まなかった。そして、ありがとう』」
一度、息を吸う。
「――『これより、指揮を引き継ぐ』と」
「はっ!」
少年は踵を返し、走っていった。
後方指揮所。
カラミーテは、伝令の報告を聞いた。
「――隊長様より、伝言です」
「伺いましょう」
「『済まなかった。そして、ありがとう。これより、指揮を引き継ぐ』と」
カラミーテは、しばらく黙っていた。手の中の扇子を静かに握る。
やがて、それを開いた。
ぱっ、と。
「――承知いたしました」
「はっ」
少年兵が、戻ろうとする。
「――お待ちなさいませ」
「はい」
「もう一つ、ございます」
カラミーテは、扇子を開いたまま言った。
「――『済まぬ、と仰ってくださって、ありがとうございます』と」
「……はっ!」
少年兵が駆けていく。
カラミーテは、その背を見送った。
扇子の向こうで、口元がほんの少しだけ緩んだ。
「……お帰りなさいませ、隊長様」
***
同じ頃。
遥か東。帝国軍砲兵陣地、丘陵中腹の指揮所。
サードル・ブロックスは、双眼鏡を目に当てていた。
視線の先は、フラットペイン第一防衛線の中央。
前線指揮所入口に、一人の女が立っている。夜叉霧を杖にして。
ブロックスは、しばらく双眼鏡を下ろさなかった。
「――立ち上がったか」
副官フィジックが答える。
「はっ。第五射、装填完了しております。次の号令を」
ブロックスは、地図へ目を落とした。
赤い印。指先が、その一点を軽く叩く。
「――フィジック」
「はい」
「三番砲、十七番砲、三十九番砲」
間。
「――三門、同時。目標、彼女の指揮所」
「はっ」
すかさずフィジックが伝令に命令を伝える。
ブロックスは、再び地図を見た。
「……初弾から、四射」
「はい」
「彼女は、四射、耐えた」
「……はい」
「私の予定表には、そこまでの耐久は記載されていない」
フィジックが、黙っている。
ブロックスは、赤い印を見つめた。
「――ならば、予定表を改める」
「……はっ」
「彼女を、一人の変数として扱う」
フィジックの眉が、僅かに動いた。
「――閣下」
「なんだ」
「……名を、お認めになるので」
ブロックスは、しばらく答えなかった。
やがて、双眼鏡を卓上へ置いた。
「――認める」
静かな声だった。
「認めた上で、潰す。それが、最も合理的だ」
フィジックは頷いた。
「はっ」
ブロックスは、地図を閉じた。
「――撃つ」
その声には、迷いがなかった。
「――撃て」
三番砲。十七番砲。三十九番砲。
三門が、同時に火を噴いた。三発の砲弾が、鉛色の空を裂いた。
赤い尾を引きながら、フラットペインへ向かう。
***
第一防衛線、中央。
「――第五射! 三門、同時!」
メリッタが叫んだ。
「東側障壁、集中!」
魔法陣が、空中に走る。その周囲を、ペルトの舞から流れた淡い金の粒子が包んだ。
メリッタが、歯を食いしばる。
「――来る!」
一発目。
障壁が受け止める。
轟音に空気そのものが震えた。
二発目。
同じ場所へ叩き込まれる。
魔導障壁が、大きく歪んだ。
「――まだ!」
メリッタが魔力を叩き込む。
その瞬間、サーリーの黒い糸が、遠くの砲車を締め上げた。
「――もう少し……!」
三十九番砲の車軸が軋み、僅かに狂う。
そしてビアンカの矢が、砲兵陣地へ飛んだ。
指揮官が一人、倒れる。
次の指揮官が立つ。
その間数秒。照準が、僅かに遅れる。
三発目が飛んだ。
障壁の端を掠める。軌道がずれた。
砲弾は、竹子の指揮所を外れ、防衛線東端の空き地へ落ちた。
轟音と共に土塊が吹き上がる。破片が飛ぶ。
しかし――
「――死者、なし!」
伝令の声が響いた。
メリッタは、息を吐いた。
ペルトの舞は、止まらない。
サーリーの糸も、解けない。
ビアンカは、すでに次の矢をつがえている。
竹子は、指揮所の入口に立ってその全てを見ていた。
自分のために。自分の知らないところで何人もの人間が、それぞれの仕事をしていた。
竹子は、夜叉霧を握った。翠緑の文様が、強く脈打つ。
「――皆」
伝令官たちが振り返った。
「――カラミーテ副長の号令を、そのまま継続せよ」
「はっ!」
「――私は、副長の号令の上に、私の判断を重ねる」
竹子は、後方指揮所を見る。
「――副長の号令が幹。私の判断は枝だ」
「はっ!」
竹子は、東を見る。
二里の彼方、鉛色の空の下。二万の松明が、砲兵陣地の後方に並んでいる。
敵は、まだ、そこにいる。
「――今日は、耐える」
竹子は言った。
「ただ、それだけでよい」
伝令官たちが、聞いている。
「――勝つのは、明日以降だ」
夜叉霧を、握り直す。
「――今日は、耐える」
そして。
「――街の名を、一つも失わぬ」
「はっ!」
伝令官たちが駆けていった。
東の空が、白み始めていた。
明るい夜明けではない。鉛色の空。
崩れた民家。
煙の上がる街。
それでも、井戸は残っている。
広場では、水桶が行き交っている。
包帯が運ばれている。
薬草が煮られている。
誰かが、誰かの名を呼んでいる。
竹子は、指揮所の入口に立っていた。
まだ、夜叉霧を杖にしている。
まだ、膝は震えている。
それでも、立っている。
背後には、水桶を抱えたトレクがいた。
街がある。そして、その一人一人に、名がある。
***
遥か東。
ブロックスは、閉じた地図へ手を置いた。
「――次弾、装填」
砲兵たちが動き始める。
三番砲。
十七番砲。
三十九番砲。
番号が、復唱される。
ブロックスは、もう一度だけ、双眼鏡を手に取った。
その先に、竹子がいる。
彼は、しばらく見ていた。
そして。
「……タケコ」
誰にも聞こえない声で、その名を口にした。
すぐに、双眼鏡を下ろす。
「――次弾、急げ」
番号の世界が、再び動き始めた。
その朝。
水を汲む少年と、名を守る女と、番号で砲を撃つ軍が。
同じ空の下で、同じ夜明けを迎えていた。




