第肆拾伍話「鉛」
その夜。
竹子は、珍しく一人で城の最上階へ登った。
北風が髪を後ろへ流していく。
石造りの胸壁に手を置き、夜叉霧を左手に抱えて、東の空を見つめた。
星々は、いつも通りそこにある。
二万の軍が動いていることも。四十門の魔導砲が街道を軋ませていることも。天は、何も告げない。
――以蔵は、精神を抉る「呪い」を投げつけてきた。
あれは、辛かった。会津の焼け跡が、この胸の底から幾度も蘇った。あの声が、あの視線が幾度も彼女の背を刺した。
あの男は、竹子を責めた。
生き残ったことを。
刀を振るったことを。
会津を背負ったことを。
だが、守ろうとしたものまでは否定しなかった。
しかし、ブロックスは違う。
あの男は、竹子の存在そのものではなく、竹子が守ろうとしているもの、そのものを否定する。
――お前が守っているのは、消えるべき旧弊だ。
――お前が命を懸けている「義」とやらは、時代に取り残された古着に過ぎない。
――弱小領地の民の誇りも。
――少女辺境伯の位も。
――消えかけた土地の名も。
いずれ、平等と法の下で消えていく。
胸壁を握る指に、力が入る。
夜叉霧の柄で、翠緑の文様が静かに脈打っていた。
その否定を、私は心のどこかで微かに肯定してしまう。
それが恐ろしかった。
竹子はかつて会津でそれを見ている。
西から現れた、規格化され、統一された装備に身を包んだ軍隊。
揃った号令により動く、身分に関係なく能力によって人を使う仕組み。
そして――
「武士道など、旧弊である」
あの男たちは、そう言った。
その言葉の中には、認めたくはないが、確かに正しいところがあった。
武士の家に生まれたというだけで、刀を握らされる者。
禄を受けることだけを誇り、村人の飢えを見ようとしなかった者。
「殿のため」と言いながら、母や妹を残して死んでいった同胞たち。
あれらは、本当に。すべて、守るべきものだったのか。
竹子は目を閉じた。
焼け落ちた鶴ヶ城。
煤けた空。
母の掌。
妹の泣き顔。
冷たくなっていく指。
問いは、あの日からずっと残っている……答えを出さぬまま。
そして今、ブロックス将軍は、その問いを二万の軍勢と四十門の魔導砲に乗せて、こちらへ運んでくる。
――お前は、それでも「義」と言うのか。
竹子は、ゆっくりと目を開いた。
東の空は、まだ暗い。だが、その地平だけが黒ではなかった。
鉛色だった。
重く冷たい、夜明けを押し潰すような色だった。
竹子は、夜叉霧を見た。
翠緑の文様が、静かに脈打っている。
以蔵の呪いを退けた夜。この地が竹子に手渡してくれたもの。
それは、正しさでも、答えでもなかった。
ただ――ここにいてほしいと――その願いだった。
竹子は、小さく呟いた。
「……以蔵殿の時は、私の亡霊と向き合えばよかった」
風が吹いた。
「メビック殿の時は、私の『降伏』を言葉で示せばよかった」
夜叉霧を握る。
「……だが、ブロックス殿の時は」
そこで、竹子は言葉を止めた。
長い沈黙のあと。
「私は、私の『義』そのものを問われる」
母の顔が浮かんだ。
妹の顔が浮かんだ。
同胞たちの顔が浮かんだ。
それらすべてを竹子は知っている。だからこそ、認めることにした。
「……私は、答えを持たぬ。武士道のすべてが正しかったとは……もう、申せぬ」
風の中で、竹子の声は小さかった。
「されど」
彼女は、城下を見下ろした。
「私は、ここにいる者たちを、古いとか、新しいとかいう言葉だけで切り捨てることはできぬ」
竹子は静かに息を吸った。
「それが私の義である」
夜叉霧の文様が、ひときわ強く光った。
「私は、答えを持たぬままでもよい」
竹子は東を見た。
「答えを持たぬまま、この地の民の前に立つ」
声は震えていた。それでも、逃げなかった。
「もし私の義が、時代に敗れるものであったとしても――」
竹子は、夜叉霧を握り直した。
「私は、その敗れる瞬間まで、彼らの前に立つ」
東の地平が、わずかに明るくなった。夜明けは、まだ遠い。
だが、鉛色の空の向こうに、確かに朝はあった。
***
同じ頃。
遥か東、街道沿いの丘陵に築かれた仮陣では、天幕の中央に地図が広げられていた。
フラットペイン領の縮尺図。要所には、青と赤の駒が精密に並んでいる。
その配置だけで、作った者の几帳面さが分かるほどだった。
サードル・ブロックスは、その地図の前に、無言で立っていた。
副官のフィジックが報告書を持って入ってきた。
「閣下。斥候より報告です。フラットペイン領、城下の防衛陣を構築中。指揮官は――例の『娘子隊』隊長、タケコ・ナカノと目されます」
「以蔵とメビックを退けた者だな」
「はっ」
「異界より来た剣士」
「噂では、そう伝わっております」
ブロックスは、初めて地図に指を置いた。
フラットペイン領主城。
「一人の剣士に、二度も勝たれる軍は、それ自体が軍として敗れている」
指が、城から街道へ滑る。
「以蔵は情念で、メビックは矜持で判断を誤った。両名とも、個人の力を過大に評価した」
さらに指が進む。――街道、村、川、街の外周部――一つ一つの地形を、なぞるようにして。
「私は、彼女個人を相手にしない」
ブロックスの声に感情はなかった。
「地形を相手にする。人口を相手にする。補給を相手にする。士気を相手にする」
指が城の上で止まった。
「彼女がどれほどの剣士であろうと、砲弾は剣士を選ばない。戦場とは、そもそも平等な場所だ」
フィジックは黙って頭を下げた。
しばらくして、ブロックスが言った。
「――ただし」
「はっ」
「彼女は、身分によらず辺境伯の傍らに立っているそうだな。血筋ではなく、能力であの位に近い場所にいる」
「――そう、報告にはございます」
ブロックスの、面頬の下の唇がごく僅かに動いた。笑ったのか歪んだのか、副官には判じかねる動きであった。
「身分制を否定する私が、身分ある少女の領地を攻める。その領地で、異界から来た平民の女が身分ある少女のために剣を振るう」
ほんの僅か、ブロックスの口元が動いた。
「なぜだ」
「……」
「彼女はなぜ、あの少女のために戦う」
フィジックは答えられなかった。
「そこだけは、知りたい」
ブロックスは地図から指を離した。
「答えを聞いてから、潰す」
「……閣下」
「何だ」
「それは、必要でしょうか」
ブロックスは副官を見る。
「必要だ」
即答だった。
「理解しなければ、合理的な否定はできない」
東の空が、少しずつ明るくなっていく。
二万の軍靴が、大地を押し退けるように進んでいた。
その足音を、フラットペイン領の見張り塔が、夜明け前の風の中で拾い始めていた。
まだ遠い。だが、確実に近づいている。
鉛色の夜明けだった。




