第肆話「精霊樹の伝承」
馬車は深い森を抜け、やがて小高い丘に築かれた城下町へと辿り着いた。
フラットペイン辺境伯領。人口は五百にも満たず、城壁と呼べるものも石を積んだ簡素な柵に過ぎない。しかし、出迎える領民たちが馬車の窓から顔を出すイルミナに向ける眼差しは、どれも深い敬愛と安堵に満ちていた。
「姫様、お戻りになられた!」
「ご無事で何よりです……!」
泥だらけのドレス姿の領主代行を見て、涙ぐむ老婆や、安堵の息をつく農夫たち。
イルミナは長旅の疲労も見せず、気丈な笑みを浮かべて彼らに手を振り返している。その光景を横目に見ながら、竹子はかつての会津の城下町を思い起こしていた。貧しくとも、領主と領民の心が確かに通じ合っている、温かくも脆い情景であった。
領主の館に到着したその夜。
竹子は、客室にて素朴だが温かいもてなしを受けた。湯浴みを済ませ、城の侍女が用意してくれた異国の簡素な平服に着替える。
「タケコ様、お食事をお持ちしました。お口に合うと良いのですが」
イルミナ自らが盆を持って部屋を訪れた。
パンと干し肉の汁物、そして食後にと、手のひらほどの小さな焼き菓子が添えられていた。
「我が領は痩せた土地ゆえ、贅沢なものはございません。ですが、この焼き菓子は領民が作ってくれた自慢の品なのです。中に、甘く煮詰めた豆のペーストが入っていまして……」
「かたじけない。ありがたく頂戴いたします」
竹子は正座のまま深く頭を下げた。
まずはパンと、程よい塩気の効いた干し肉の汁物で、空腹と長旅の疲れを静かに癒していく。
薄くスライスされていた黒パンは、兵糧パンの硬さに慣れていた竹子にとっては十分柔らかく驚きもしたが、武家の娘らしく、音を立てず、しかし出されたものを残さずに平らげた。
そして最後に、食後の甘味として添えられていた焼き菓子を手に取る。
一口かじり、中の黒っぽいペーストが舌に触れた瞬間――竹子の動きが、ピタリと止まった。
豆の素朴な風味と、優しく控えめな甘さ。
それは、紛れもなく故郷で口にした『餡こ』の味そのものであった。
『姉上、お稽古の後の甘いものは格別ですね』
脳裏に、妹・優子の無邪気な笑顔がフラッシュバックする。
厳しい薙刀の稽古の後、母が点ててくれた茶と共に、姉妹で分け合ったあの甘味。もう二度と帰ることのできない、愛おしくも遠い日々。
「……ッ」
竹子は咄嗟に顔を背けた。
堪えきれず、瞳から大粒の涙が零れ落ち、膝の上の布を濡らした。
「タケコ様!? 申し訳ありません、お口に合いませんでしたか!?」
「いえ……違います、姫君。あまりにも……私の故郷の味に、似ていたもので……」
武家の娘が、人前で涙を見せるなど恥ずべきこと。そう分かっていても、竹子は震える肩を止めることができなかった。
イルミナはそれ以上何も言わず、ただ優しく、異世界から来た孤独な戦士の背中を撫で続けた。
***
深夜。
竹子は静かに客室を抜け出し、館の中庭へと足を踏み入れた。
空には、日本のものより一回り大きな二つの月が浮かんでいる。その青白い月光に照らされて、中庭の中央に一本の巨大な樹がそびえ立っていた。
見上げるほどの巨木だが、葉はほとんど落ち、太い枝も半ば枯れかけている。
「眠れませんか、タケコ様」
背後から声をかけられ、振り返ると、ショールを羽織ったイルミナが立っていた。
竹子が巨木を見上げているのに気づき、イルミナは樹の根元へと歩み寄って、そのごつごつとした木肌にそっと触れた。
「これは『精霊樹』。フラットペインの土地を代々見守ってきた御神木です」
「御神木……。しかし、ひどく傷んでいるように見えますが」
「ええ。伝承では、この樹は『真の覚悟の言霊に呼応し、土地に加護を与える』と言われています。ですが、ここ数十年、樹は沈黙したまま。枯れゆくのを待つばかりなのです」
イルミナは自嘲するように目を伏せた。
「私や兄が何度祈っても、樹は応えてくれませんでした。私には、この土地を救う『真の覚悟』が足りないのでしょう」
「……」
竹子は無言のまま、精霊樹の根元に進み出た。
真の覚悟の言霊。
もしそれが、死を前にしても揺らがぬ魂の叫びを指すのであれば。
竹子はそっと目を閉じ、両手を胸の前で組み合わせた。
心に浮かぶのは、会津の山河。そして、死地に赴く前、己の懐紙に書き残した辞世の句であった。
あれは、死を受け入れるための句。会津の女として、武士として散るための決意の言葉。
竹子は、静寂の夜の底へ沈めるように、その一節を小声で口ずさんだ。
「武士の 猛きこころに くらぶれば――」
そこまで詠んで、竹子は口を噤んだ。
続きが、出てこないのだ。
下の句は『数にも入らぬ 我が身ながらも』。
男の武士たちの猛き心に比べれば、自分のような女の身は物の数にも入らないが、それでも命を懸けて戦おう――。
そう詠んで散るつもりだった。しかし今、竹子はその「己を無に帰す」言葉を紡ぐことができなかった。
自分は生きている。新たな主君を見つけ、守り抜くと誓ってしまった。
死んで無に帰る覚悟は、今の彼女の中にはもう存在しなかったのだ。
「……やはり、私は武士失格の亡霊だな」
竹子が自嘲気味に呟き、目を開けた、その時だった。
「タケコ様、あれを……!」
イルミナが息を呑み、樹の上方を指差した。
竹子の詠んだ未完成の言霊。それに呼応するように、完全に枯れ果てていたはずの一本の枝の先に、淡い光が集まっていた。
光はゆっくりと形を成し――ほんの一輪、純白の花を咲かせたのだ。
「花が……精霊樹に、花が……」
何十年も沈黙していた樹が見せた奇跡。
イルミナが感極まったように両手を合わせる中、竹子はただ無言で、月光に照らされるその一輪の白い花を見上げていた。
花はやがて夜風に吹かれ、ふわりと枝から離れると、夜空へと溶けていく。
竹子は、その行方をいつまでも見つめていた。




