第肆拾貮話「指揮所の灯」
同じ夜。
城壁の裏の、作戦指揮所にはまだ蝋燭の灯が灯っていた。
カラミーテが、一人駒盤の前に座っていた。
卓上に既に帝国駒は一つも残っていない。代わりに東の端に黒く大きな駒が一つだけ置かれていた。
――サードル・ブロックス、二万。
その駒を彼女は扇子の先で、じっと見つめていた。
「――カラミーテ様」
背後から、湯呑を両手に持ったピナーレが指揮所に入ってきた。
「ピナーレ」
「まだこんな時間まで」
「――ええ」
カラミーテは扇子をそっと閉じた。
「明日から次の盤面を組まねばなりません。……早めに始めておかねば」
「……明日の朝、あの職人組合の頭のお方に頭下げに行かはるって仰ってましたけど」
「――ええ、その通りに参ります」
「うちも御一緒してよろしいですか」
カラミーテはしばらく無言でこの若い諜報担当を見つめた。
「――なぜですか」
「……あの、ニコデム様に、うちも頭下げたいんです」
ピナーレの声は静かで、しかしはっきりとしていた。
「あのスコット君にパンの配り方の順番教えたのは、うちなんです。『こう回れば効率がええで』って市場のあのうちの癖で。……その順番があの子を……あの南路の、窓の前に、通したんやと思います」
「――ピナーレ」
「カラミーテ様が、副隊長として盤面の責を負うなら、うちも諜報担当としてあの子の動線の責を負います」
カラミーテは、しばらくこの若い妹分を見つめていた。
やがて、彼女は扇子を静かに開いた。
「――ピナーレ」
「はい」
「あなたに、副隊長の椅子には決して座ってはいけません、と申し上げました。――ですが、その言葉を撤回いたしますわ」
ピナーレは目を丸くした。
「あなたは既にその椅子に座る資格を、お持ちのようでございます」
「――え」
「ただし」
カラミーテは微かに微笑んだ。
「明日私と共にあのニコデム様に頭を下げるのは、まだ副隊長の椅子ではなく、妹分としての頭でございますよ。……あなたに椅子を譲る日は、まだ参りません」
「――妹分……うちが」
「まだまだ、あなたには私の隣で走っていただきますから」
ピナーレは、しばらくこの副隊長を見つめた。
それから彼女は大きく頷いた。
「はい、副隊長。こけんよう、しっかりついて行きます!」
「よろしく」
二人はしばらく湯呑を口元に運びながら、駒盤の黒い駒を見つめていた。
やがてカラミーテが扇子の先でその駒を軽く突いた。
「――サードル・ブロックス」
「はい」
「あのお方の御生い立ちを明日から、徹底的に洗います。市場、宿場、街道、行商の隊商、そして、メビック家の名前も使わせていただきます」
ピナーレは頷き、懐から手帳を取り出した。もう指がその頁を繰り始めている。
「あのお方が平民の生まれで、才能一つで二万の軍を率いる位置まで上がられた、その道筋の一歩一歩を、私知りとうございます」
ピナーレは、湯呑を両手で包み込むように持ち直した。
「――そこまで調べるんですか」
「あのお方の義の根っこを知らねば、隊長様の義と、正面からぶつけることができませぬ」
カラミーテは扇子をそっと閉じた。
「メビック伯爵の時は、あのお方の政治家としての老獪さの根っこが、六百の部下の“家族への責任”でございました。だから私の盤面は、あのお方に退がるための、階段を差し上げることができた」
「はい」
「ですがブロックス将軍の義の根っこは、まだ私には分かりません。……それを知らねば、私の盤面は、あのお方の前で崩れます」
カラミーテの声は静かでしかし震えていた。
「私、正直に申し上げれば震えております」
「――カラミーテ様」
「隊長様にそれを申し上げました。……そうしたら、隊長様はこう仰いました」
「なんてですか?」
「『あなたも震えながらでよい。その扇子を握ってくれ。……震えぬ者に盤面は読めぬ』」
ピナーレはしばらくこの副隊長を、見つめていた。
それから彼女は静かに笑った。
「――隊長ええこと言わはるなぁ」
「――ええ」
「うちも震えます」
震える指先で、湯呑の縁をそっとなぞった。
「うちも、震えながら副隊長――いえ、カラミーテ姉さんの隣で走ります」
カラミーテは微かに微笑んだ。
その微笑みの奥に、既に次の盤面の最初の一手が、仄かに見え始めていた。




