第肆拾壹話「遠い雷」
夜が更けた。
街の広場が静かに片付けられ、人々はそれぞれの家へと戻っていった。
城壁の上に竹子は一人登っていた。
夜叉霧を手に東の空を見つめている。
昼の澄んだ青は、深い黒に変わり、その黒の中で遠く地平の彼方で、微かに白い光が瞬いた。
――雷。
雷鳴は届かなかった。
だが、光だけが確かにあった。
夏の終わりの、乾いた遠雷である。
雷鳴の代わりに、背後から静かな足音が響いた。
「――やはり、こちらに、おいででしたか」
イルミナだった。
外套を羽織り、精霊樹の護符を胸に抱えて。
「――領主様」
「タケコ様」
イルミナは竹子の隣に並び、二人はしばらく無言で東の空を見つめた。
やがてイルミナが静かに口を開いた。
「タケコ様。……ご心配なさっているのは、次に来られるお方のことですか」
竹子は驚いて少女辺境伯を振り返った。
「――分かりますか」
「はい」
イルミナは微かに微笑んだ。
「あなたは勝った時ほど遠くをご覧になります」
竹子はしばらくこの少女を見つめた。
この人はいつからこんなにも、私を見ていてくれたのだろうか。
彼女は、東の空へ視線を戻した。
「――イルミナ様」
「はい」
「次に来るのは、私が故国で戦ったのと『同じ顔』をした敵でござる」
「……同じ顔」
「私を亡霊のままにした、あの新政府軍と――同じ思想を持つ男でござる」
イルミナはしばらく無言で東の空を見上げていた。
「――そのお方はあなたに何を仰るのでしょうか」
「――『お前が守っているものは、消えるべき旧弊である』と」
「……」
「『武士道、騎士道、貴族制、封建制――それら全て、人類を停滞させる旧弊である』と。……そう申されるであろう」
夜叉霧の柄を握る竹子の親指が、僅かに動いた。
「――イルミナ様。正直に申し上げれば、そのお方のその一言に、私の背骨の半分が揺らぐことを知っておるのです」
「――と、申しますと」
「あの新政府軍の兵たちの中にも、確かに正しい者はおり申した」
竹子は静かに続けた。
「身分の低い出自から実力で上がって来た者たち。彼らの多くは無能な貴族の不条理をその目で見てきた。彼らの掲げた『四民平等』の理念は――それ自体としては間違っておらなんだ」
「……」
「私の――会津の敵は、決して悪ではなかった」
その一言を、竹子は初めて口にした。
今、この夜の城壁の上で、彼女はそれを初めて口にした。
「――タケコ、様」
「イルミナ様。私は……悪と戦ったのではない。私は『新しい思想』と戦ったのでござる。その新しい思想は、確かに身分による不条理を無くそうとしていた。……それを私は否定できぬ」
「……」
「されど、その新しい思想は、私の母を、私の妹を、私の同胞を『旧弊』の一言で切り捨てた。――私の母のあの掌の温もりを。――私の妹のあの泣き顔を。――私の同胞のあの最後の辞世の句を」
竹子の声が微かに震えた。
「それらを全て『歴史の必然として消えるべきもの』と、そう呼んだ」
イルミナは、じっとこの異界から流れ着いた武人の横顔を、見つめていた。
「――私は、その新しい思想の正しさを否定はせぬ。されど、私は、古い制度を守りたいのではない。古い制度の中に生きていた人々まで、古いという理由だけで、消してよいとは思わぬのだ」
竹子は、深く息を吐いた。
「それが、私の会津で見つけられなかった答えである。そして、今この街で私が次のお方に告げねばならぬ、答えである」
二人はは東の空を見つめ、暫しの間無言でいた。
やがてイルミナは、そっと竹子の袖を掴んだ。
「――タケコ様」
「はい」
「私は辺境伯として、あなたに一つお願いがございます」
「うむ」
「次のお方にその言葉をあなたが告げる時、どうか私をあなたの隣に立たせてくださいませ」
「――イルミナ様」
「私はまだ若く、為政者としての力も器量もう少しございません。ですが、私は辺境伯として、あなたのその言葉の証人になりとうございます」
竹子はしばらくこの少女を見つめた。
夜叉霧の柄の翠緑が、彼女の掌の下で静かに脈打っていた。
「――かたじけない」
彼女は深く頷いた。
「あなたの証言のもとで、次のお方に答えを告げさせていただく」
東の空でまた微かに白い光が瞬いた。
やがてイルミナが呟いた。
「――タケコ様」
「はい」
「あの遠い雷はまだ鳴っておりません」
「はい」
「私の身勝手を申し上げてよろしいですか」
「うむ」
「――今夜だけは、あの雷が鳴らずに、静かに消えてくれればと、そう願うております」
竹子は静かに笑った。
「――同じ願いを私も思うており申した」
二人は無言で東の空を見上げていた。
夜風が二人の外套を揺らしながら通り過ぎた。




